【笑って最終回】笑点から生まれた「毒蝮三太夫」人生なにがキッカケになるかわからない - 毒蝮三太夫

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※この記事は2022年03月29日にBLOGOSで公開されたものです

BLOGOS終わりだってな。残念だな、まあ始まったもんはいつか終わるんだから仕方ないけど、今までここで俺の話を読んでくれた人にはこう言いたいよ。「いつもタダで読みやがってコノヤロウ!」、アハハハハ冗談だよ。

俺がBLOGOSに参加したのが2019年1月だから、かれこれ3年3ヶ月も続いたわけだ。その間、色んな人から言われたよ「マムシさん、BLOGOS読みましたよ」って。ネットで記事を目にする人は、ラジオや雑誌とは別の人だったりしてさ、意外な人から反応があって嬉しかったね。

俺がここで披露した話に賛否どっちがあってもいいんだ。とにかく多くの人に読んでもらって、「なるほど毒蝮はそんなふうに考えているのか、自分だったら…」って具合に、自分の考えを整理したり、見つめ直すキッカケになればいいんだ。

要は人それぞれで十人十色、色んな立場や色んな考え方があるってことをいつも意識して、「聞く耳」を持ち続けることなんだと思う。「聞く耳」をふさいでしまうとね、世の中ろくな方向にいかないよ。

とくに今みたいな時代、自分の主張を一方的にしがちな人が多い時代だろ。そういう時こそ「聞く耳」を持つことがより大切だと思うよ。「聞く耳」を持つことは「聞く力」をつけることにつながる。「聞く力」をつけることは回り回って、自分の言葉を相手にどう届ければいいかの「話す力」につながるんだよな。

それにしても政治のこと社会のことスポーツのこと、毎回俺の考えをここでたっぷり伝えさせてもらった。俺はコメンテーターじゃないけど、これがテレビのコメンテーターだったら、二言三言言って終わりだろ。だけど、こういうネット記事のいいところは、言いたいことをたっぷりと伝えられるところだな。

このBLOGOSでは今年に入って、編集長の田野君ってかしわ餅みたいな顔した彼が、田原総一朗さんと会わせてくれたんだよ。「超老対談」なんて言って田原さんとたっぷり対談させてもらった。あれは俺にとって貴重で嬉しい時間だったな。お互いの戦争体験を語りあえたし、今の日本をどう見るか、田原さんだからこその考えをじっくり聞かせてもらった。田原さんとはお互いに80代のジジイ同士、またどこかで話せたらいいなって思うよ。

「電通と喧嘩してテレ東を辞めてよかった」田原総一朗(87)と毒蝮三太夫(85)初の"超老"対談

立川談志をホームから突き落とそうとした!?

編集部)――今回は最終回ということで、マムシさんにまつわる素朴な疑問をお聞きしたいと思います。マムシさんの盟友と言えば立川談志師匠ですが、お二人が若い頃、駅のホームで電車が入ってきたときにマムシさんが談志師匠の背中を押してホームから線路に落とそうとしたとか。談志師匠が「死んだらどうすんだ!」と怒ったらマムシさんが「シャレのわからないヤツだって言ってやるよ」と…、あれは本当ですか?

ああ、その話か。あれはね、俺が談志と口論になったんだよ。たしか談志が「寄席を抜く」って言いだしてね、「抜く」っていうのは「休む」っていう意味。落語家は寄席に10日間ずつ出るんだけど、売れっ子は別の仕事もあるから2~3日「抜く(休む)」のが彼らにとっては普通のことでもあるんだ。実際に談志は忙しくしてたからね。

後になったらそういう言い方をするのもわかるんだけど、当時の俺は役者として立場が違うからさ、仕事があるのに勝手に休むだなんて、その無責任な態度が許せなかったんだな。請け負った仕事はきちんとするべきだし、休めば周りに迷惑をかける。談志が軽々しく「寄席を抜く」って言った、その言いぐさが許せずに腹が立ったんだ。

それで品川駅のホームだったかな。俺は怒って「バカヤロー!」って談志を突き飛ばしたの。その時にたまたまホームに電車が入ってきたのかな。談志はつんのめって、あわてて前にあった柱に手を引っかけてクルンと回って戻ってきた(苦笑)。

そしたら談志がえらい剣幕で、「危ねーじゃねえか!死んだらシャレになんねえだろ!」って。だからこっちは「死んだらシャレのわからないヤツだって言ってやらぁ!」ってね。そういう話なんだよ。それを後年、談志が「マムシっていうのはこういうヤツで…」ってよく言ってたんだ。

編集部)――あと、談志師匠の著書「談志受け咄」(三一書房)にマムシさんのエピソードが多々綴られているのですが、その中でマムシさんが考えたバカバカしいギャグの話がありまして、自分も笑っちゃったのですが、その箇所をちょっと引用してみます――

< 『談志受け咄』より >

傑作の一つに“旗出し”がある。落語家やコメディアンのやる、あの“赤出して” “白出さず”…のアレなのだが、マムシの発想は凄い。

何と「オットセイ」「セイウチ」と「ラッコ」と「アザラシ」「アシカ」に「トド」を並べて“旗出し”と同じスタイルでこれをやる、と言う。この海の生き物を一列に並べて、 「オヤ、トド出たり」

呼ばれりゃトドが前に出る。

「トド引っ込んでラッコ出る」「ラッコ引っ込みトド出ない」「セイウチ出ないでアシカ出る」 やってるうちに同ンなじような顔ォしてるからナンダカワカンなくなってまちがって、

「ラッコ出ないで、トド出ない」なんてのにアザラシが出てきちゃって「アレッ、俺は違うかな…」って妙な顔をして引っ込んだりする……という。

これには呆れ、驚いた。引っくり返ったネ。

編集部)――マムシさん、こんなこと考えて談志師匠を笑わせてたんですね。

ああ、これはみんなで飲んでた時に出た話だな。談志がいて、先代円楽、山城新伍、山本晋也、ミッキーカーチス、作家の高平哲郎というような面々で、この話をしたらえらく盛り上がったんだ。

昔さ、旗上げのコントってあったんだよ。忍者の恰好した三人組のナンセンストリオがよくやってたな。リーダーが言ったとおりに旗上げが出来るかっていう遊びだな。あとの2人が両手に紅白の小旗を持ってね。リーダーが「はい、赤あげて、白あげて、赤下げないで、白下げる」なんて言うのに合わせて間違えないように旗を上げ下げするの。これが段々テンポが速くなって難しくなってく。間違えると引っぱたいたりしてさ。

あの旗上げコントの要領でさ、トドとかセイウチとか海の生き物を舞台に6頭並べて、こっちが言ったとおりに顔を出せるかっていうね(笑)。よーく見ると大きさや顔が違うからね。これは芸を仕込むのが大変だよ。

まず、それぞれに自分の名前を覚えさせなきゃなんない。トドに「いいか、おまえはトドだからな」。オットセイに「おまえの名前はオットセイだぞ」ってね。向こうも「アウッ、アウッ」なんて答えたりしてね。でもトドやオットセイに自分がトドやオットセイだという自覚があるかよくわかんない(笑)。

で、この6頭が舞台にいる。そこに猛獣使いならぬ海獣使いが出てきて始めるんだよ。「はい、トド出たり、トド引っ込んでラッコ出る、ラッコ引っ込みセイウチ出る・・・おいおい、なんでオットセイ出ちゃうんだよ!そこはセイウチだろ」なんてね。

いちおう間違えるとバツゲームがあって、昔の大喜利でもよくやってたけど目の周りを墨で塗るんだ。だけどあとで海に潜るから墨がすぐ消えちゃう。ちっともバツになんないというね(笑)。ヒゲ剃っちゃうのもあるけど、それは可哀想だとかね。

だけど、これを始めるにはトドでもオットセイでも、同じような大きさのを集めるのが大変だぞとかね。ショーが当たったら大儲けだけど最初の投資にえらく金がかかるぞとかね。要はそんなことがあったらさぞかし面白いだろうってギャグなんだよ。

まあ、セイウチだのアザラシだのにきちんと芸を仕込もうとしたらとにかく時間がかかりすぎて、芸を覚えてやる前にみんな死んじゃうんじゃねえかってのがオチだった。この話がああでもないこうでもないって、談志もみんなもえらくウケたんだよ。

そうそう、その「談志受け咄」って本がね、4月に文庫化(中公文庫・刊)されるんだ。談志から見た俺のことがやたら書いてある一冊なの。その解説文を出版社から頼まれて俺が書いたからさ、ひとつよろしく頼むよ。

談志と言えば昨年が没10年で俺にも談志の思い出を話してくれって、CS放送とか週刊誌とかYouTubeとか色んな所から声がかかったよ。なにしろ談志は毒蝮三太夫を生みだしてくれた恩人だからね。

「毒蝮三太夫」誕生のキッカケ

編集部)――せっかくですので「毒蝮三太夫」誕生について、聞かせてください。

今更ながらだけど、そもそも俺が毒蝮三太夫という芸名になったのは「笑点」がキッカケだった。立川談志が「笑点」という番組を作り、初代司会者だった。談志は俺に「おまえは役者よりも芸人のほうが向いている。早く芸人になっちゃえ」ってずっと言ってた。それもあって俺は談志に呼ばれて「笑点」に座布団運びで出ることになったんだ。それが昭和42年(1967年)の1月だ。

だけど俺は、その頃すでに「ウルトラマン」でアラシ隊員を演じてて、「笑点」に出た時はちょうど「ウルトラマン」の放送中だった。そこで役者の石井伊吉のまま「笑点」の座布団運びをするのも変だから、談志が愛称で「毒蝮三太夫」って名前を付けたんだ。だから「毒蝮三太夫こと石井伊吉です」って出方をしてた。

前々から談志は俺のことを「マムシ、マムシ」って呼んでたんだ。それを先代の円楽さんも面白がって「マムシ」の上に「毒」を付けたほうがいいとか囃してね。なんだかんだで「毒蝮三太夫」という名前になったんだよ。

でね、「ウルトラマン」は毎週放送だから撮影スケジュールも詰まってたんだけど、俺は「笑点」が始まったから、別に仕事があるということで「ウルトラマン」の撮影現場をそーっと抜け出して「笑点」の収録へ行ってたんだ。だからさ「笑点」が始まったあと俺は「ウルトラマン」の出番が少し減ってるよ(笑)。

「ウルトラマン」が終わってすぐ「ウルトラセブン」が始まり、そこにも俺は呼ばれてフルハシ隊員で出演していた。だけど、そのうち俺が「笑点」に出てるってのがバレてね。そりゃあバレるよ、放送してんだから(笑)。

それでさ、「笑点」の収録をしている後楽園ホールにやたらと子ども来るようになったんだ。さらに全国の子どもからテレビ局に抗議が来るようになったの、「どうしてウルトラ警備隊が座布団運んでるの? 変だよ!」って。

そうこうしてるうちに「ウルトラセブン」が終わった。それが昭和43年の秋だな。結局さ、気づいたら毒蝮三太夫という愛称が全国に浸透してたんだよ。当初は俺も怪獣を倒す正義の役をやってるのに、一方で毒蝮三太夫だなんて怪獣みたいな名前を名乗るのはイヤだったんだ。でも、それが浸透しちゃったんで、その年の暮れに正式に改名することになったの。

「笑点」でもそれをコーナーで取り上げて、先輩俳優の小林桂樹さんも立ち会ってくれてね。談志が「これからは伊吉(いよし)ではなくマムシと呼んでください」ってね。その収録があった夜、日テレでパーティーも催されたよ。紀伊國屋書店の社長だった田辺茂一さんとか、作家の山口洋子さんとか色んな方が来てくれたっけ。

それから俺は毒蝮三太夫となり、TBSラジオで「ミュージックプレゼント」が始まり、なんだかんだで今に至るってワケだ。たぶん石井伊吉のままだったら芸能界でこんなに長くは仕事してないと思う。毒蝮三太夫という強烈な名前だったからみんなに覚えてもらえて、その後の仕事が続いたんだと思う。だからこの名前を授けてくれた談志には感謝してるんだ。

YouTubeにポッドキャスト 86歳で現役バリバリ

いやあ、そうこうしてるうちに俺も3月で86歳になったよ。86歳にもなって今も仕事が出来るのはやはり毒蝮三太夫という名前のおかげだと思う。人間どこでどうなるかワカラナイね。これを読んでるあなたもさ、今イヤだなって思ってることがいつか転じて、少しでもいいことになったらいいよな。ホント、世の中も人間もどこでどうなるかワカラナイんだから。

あと何か言うことあったかな? そうそう、YouTubeの「マムちゃんねる」もやってるからたまに覗いてくれよ。最近はとんねるずの木梨憲武が出てくれたりとか、俺が色んなゲストと話し込んでるからさ。それとポッドキャストっていうの? そこで大沢悠里ちゃんと俺で喋ることになったんだ(4月9日スタート「大沢悠里と毒蝮三太夫のGG(じいじい)放談」 ストリーミングサービス「スポティファイ」で配信)。それも聴いてみてくれよ。よし、じゃあそんなところだ。読んでくれてありがとう。BLOGOS編集部もお疲れさん。またどこかでな!

(取材構成:松田健次)