松田賢二さんが残した「My School」(筆者撮影)

故人が残したブログやSNSページ。生前に残された最後の投稿に遺族や知人、ファンが“墓参り”して何年も追悼する。なかには数万件のコメントが書き込まれている例もある。ただ、残された側からすると、故人のサイトは戸惑いの対象になることもある。

故人のサイトとどう向き合うのが正解なのか? 簡単には答えが出せない問題だが、先人の事例から何かをつかむことはできるだろう。具体的な事例を紹介しながら追っていく連載の第16回。

20年前に公開された、知る人ぞ知る闘病録

<死ぬことは怖くありません。人間、いつかは死ぬのだから。でも、子供たちが成人するまで生きられないことは、親としてとてもつらいことです。
しかし、生前にこの文章を書くことができて、幸運だったと思います。
思い返せば、私の人生は幸運続きでした。
私を支えてくれた皆さんに、感謝します。
2002年3月22日>
(遺書)

「My School」(http://www.kit.hi-ho.ne.jp/cbxf)というサイトがある。近畿で暮らす松田賢二さんが2001年3月に公開した個人ホームページだ。インターネット黎明期に残された闘病録として、知る人ぞ知る存在となっている。


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賢二さんは30代半ばにして希少がんを患い、近く訪れる死を覚悟したうえでサイト構築を始めた。同病の人のサイトどころか、闘病サイトすら簡単には見つけられない時代。手がかりが乏しいなかで、自らサイト構成を考え、HTML文書を手打ちし、ひたすらに闘病の記録をつづっていく。複雑なページ階層と縦横するリンクなどから、必死で暗中模索した情念がひしひしと伝わってくる。

賢二さんはなぜそこまでして闘病録を残したのだろう。そして、なぜ亡くなって20年近く経つ現在まですべての記録が読めるのだろう。My School」から学べるところは少なくないはずだ。

賢二さんが生まれたのは1965年3月。東京オリンピックが終わり、大阪万博に向かう高度経済成長の空気のなかで双子の兄として育った。カメラや機械いじりが好きで、これと決めたらとことん続ける実直な性格はその頃から変わらないという。

大学を出て京都府庁で建物などの設備設計に関わる仕事につき、27歳で結婚した。そんな順風な暮らしに陰が差したのは、次女が生まれて1年に満たない1999年4月のことだった。

<・4月、腰に痛みを感じるようになる。あとでわかったことですが、腫瘍が肥大し、神経を圧迫したのがこの痛みの原因でした。
・6月、この頃になると、仕事に支障が出るほど腰が痛くなり、痛み止めの座薬もあまり効かなくなり始めました。>
(精巣ガン/病歴/発症から入院まで)

6月の血液検査で異常が見つかり、翌月にかけての精密検査を経て、希少がんとされる胚細胞種のなかでも難治なタイプと診断された。

<・生検の結果、胚細胞種(精巣ガン)と診断される。タイプは非セミノーマ、絨毛ガン。
・とにかく、この時は腰が痛かったので、なんとかして欲しいと思うばかりで、告知に対してさほどショックはありませんでした。
・精巣ガンは、10万人に一人と言われるほど珍しいものですが、とくに私の場合、睾丸が全く腫れておらず、精巣ガンのなかでもさらに少ないタイプらしい。>
(同)

すでにリンパ節に転移しているという。そのまま入院となり、半年以上かけて化学療法と外科手術を受けることになった。

三度目の長期入院前にHPをスタート

それから二度の長期入院を経て2回目の職場復帰を果たした2001年3月、今度は肺の近くの縦隔リンパ節に転移が見つかる。直ちに手続きが取られ、三度目の長期入院を余儀なくされた。次はいつ職場に戻れるかわからない。「My School」がスタートしたのは、その入院の前日のことだった。

<35歳の2児の父です。死ぬことは、さほど怖くありません。でも、子供のことを考えると。。。
このホームページは、作ることで病歴などの整理ができる、応援してくださるみなさんへの報告、および他の患者さんたちの参考になればと思い作成しました。>
(精巣ガン/自己紹介)

ただし、サイト内にはトップページに掲げる「since 2001/3/29」以前に作成したページが数多く存在している。上に引用した自己紹介ページも2001年1月29日の更新だ。かねてから、やがて訪れる長期入院のタイミングでホームページを公開する構想を練っていたのではないか。

(外部配信先では画像を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)


2001年公開当時の「My School」(Internet Arciveより)

そう思えるほどにコンテンツも最初から充実している。そして、死との向き合い方も定まっているようにみえた。

更新日が表記されているうち、最も古いページは一遍の長文テキストのみで構成した「ガンと共に生きる」だ。2000年7月25日、2回目の長期入院時に無菌室(クリーンルーム)で書いたもので、このときの思索が「死ぬことは、さほど怖くありません」と断言できる根拠になっていると思われる。


5000文字を超える文章が残る「ガンと共に生きる」ページ(筆者撮影)

<今居るこのクリーンルーム。おそらく、日本を代表するクリーンルームのうちの一部屋でしょう。こんな恐ろしい部屋に居ると、とんでもないことを考えてしまう。今回のこの文章は、クリーンルームが作り出したと言っても過言ではないでしょう。
(略)
人間は死ぬから幸せに生きられる。そう、死ななければいけないのです。しななければ、ネズミ講。地球が滅びてしまいます。
だから、死ぬことは、すばらしいこと。こう書いても、死ぬことはいやですか?
できれば、もう少し長く生きたい。同感です。私も、幼い二人の娘を残して早く死ぬのはいやです。
じゃ、こう考えてみましょう。「私は長生きするから、あなたはその分早く死んでね。」バランスをとるために、一方を上げれば、一方は下げる必要があります。
さっきのことば、あなたは言えますか? とてもそんなこと、言えません。
むしろ、逆でしょう。あなたが少しでも長生きできるなら、私は命を捧げます。自分の子供が、人質にされわれたら、私はきっと犯人にこういうでしょう。子供を助けてください。そのかわり、私が人質でもなんでもします。
そう考えると、長生きしたいと思うことは、決していいことではないのです。他人を引きずり落としてでも 、長生きしたいですか? わからなくなってきました。
私は、ガン患者。人よりも早く死ぬのです。でも、死ぬのは全然怖くありません。長生きしても幸せにならとは限らないのです。
きっと、「神様」とみんなが言っているそんな大きなものがこの世には存在しているのでしょう。その神様が、この人は、いつ生まれて、いつ死ぬか決めているのでしょう。運命。ガンになったのもそれは、その人の運命なのです。>
(精巣ガン/病歴/ガンと共に生きる)

自分が草分けになるとの意思

命の限りがあるのは世の道理であり、長短は運命でしかない。

賢二さんは後に実家の宗派に則った仏式葬儀で送られているが、残された文章を読み返す限りは宗教的な思想にあまり関心を持っていない。おそらくはクリーンルームのなかで自分と向き合い、自らの経験に基づいて、自分なりの命のバランス論や運命論を導き出したのだろう。

納得できれば、あとは実直にコツコツと事を進めるのが賢二さんだ。もう死は恐れない。運命を恨まない。少なくとも、それらのことには言及しない。

やるべきことは、自分のために「病歴などの整理」をし、「応援してくださるみなさんへの報告」を兼ね、「他の患者さんたちの参考」になるようなホームページを作ることだ。最初に告知を受けたときは10万人に1人が罹るがんだと言われた。同じ病気の患者の声は当時のインターネットでは見つけられなかった。それなら自分が草分けとなればいい――。

賢二さんの徹底ぶりはMy Schoolにつまっている。

病状を追う基点となるのが「精巣ガン」コーナーにある「病歴」ページだ。治療状況や体調などを表組みにした時系列でまとめており、そこに治療経過の詳細をまとめた「化学療法」や、日々の日記をまとめた「入院日誌」などへのリンクを貼っている。そして、それぞれのページで専門用語が使われると「用語解説」ページに、採血があると「血液検査結果」ページに飛ぶ。


左から「病歴」ページ、「化学療法」ページ、「入院日誌」ページ

入院日誌はひと月1ページの構成だったが、途中から1日1ページに切り替えた。また、とりわけ重要に思える知見は日誌とは別枠の「経験談」コーナーに置くなど、細かな試行錯誤が各所に見られる。そのほかにも、病気と関係のないHTML文書の解説やデジタルカメラのうんちくなどを「精巣ガン」と同階層の「コンピューター」や「写真部」コーナーに作るなど、精力的にホームページを充実させていった様子がうかがえる。

その一方で、病状は厳しさを増していく。2001年8月に退院したが、翌月の通院検査で胸のレントゲンに影があり、わずか1カ月で再入院することになった。右肺の一部を切除し、そのまま越年して2002年2月まで病院で過ごす。

<これだけ入院期間が長くなると、生き方も変わってきています。最初の頃は、「退院したら○○○がしたい。」など、退院してからの計画を立てていましたが、今は、「入院中を如何に生きようか。」と考えるようになりました。
(略)
あと何年、いや何ヶ月生きられるか全くわかりません。1日、1日を大事に生きたいと思っています。>
(精巣ガン/経験談/如何に生きるべきか(2002年1月26日更新))

左肺にも転移、最後の病院生活に

これまでの療法が効かなくなったのを機に体力回復を目的に退院。プールで運動する日々のなかで、長女の授業参観に行くこともできた。しかし、翌月には右肺周辺に新たな影が見つかる。右肺全摘手術のために再び自宅での暮らしから離れることになった。ところが、手術は直前に中止となる。左肺にも転移が見つかったためだ。

<化学療法に期待できないから手術にかけてみたのです。その手術が不可能となると、状況はかなり厳しくなります。
つまり、次の化学療法には期待できないといこと。そして、もし抗がん剤が効かなければ、余命は1ヶ月だろうということです。>
(精巣ガン/日誌/入院日誌5回目/2002年3月12日(火)手術中止〈原文ママ〉)

ここで賢二さんは死がより近く、いつでも自分を捉えられる位置に来たことを覚悟した様子だ。「次の夏休みまでは期待できない」と、子どもたちの春休みと重なる月末に病院の許可をとって家族旅行を敢行した。それから5月に退院して、6月に肺炎のために再入院。翌7月に退院するが、これが最後の病院生活となる。

<状況が好ましくないことは、以前から承知のことです。今さらジタバタするつもりはありません。 厳しい状況を冷静に受け止め、しかし生き続けるという希望を捨てず、元気に生きていこうと思います。>
(精巣ガン/経験談/ムンテラ 2002年4月24日(水))

これが「経験談」の最後の更新となる。

最期の瞬間まで家族とともに

7月末に右肺が無気肺となり、抗がん剤治療も中止するなど、厳しい状況となる。それでもサイトの更新は止めない。

<秒針の動き方が好きで、もう何年も前から自動巻きの腕時計を使用しています。左手に点滴をするときや、手術のとき以外はいつも身に付けています。だから、常にゼンマイを巻かれた状態なので、時計が停止することはありませんでした。
ところがここ最近、朝起きると時計が止まっているようになりました。すなわち、自動巻きの時計を動かせるほどの手の動きがなくなったということです。少し動いては息切れがするので、家中にいてもほとんど動かなくなったという証拠です。>
(精巣ガン/日誌/自宅療養/2002年8月11日(日)腕時計停止)

8月の終わりには自力での更新が難しくなるが、妻の佐栄子さんと弟さんに代筆してもらう形でなおも更新を続けた。そして9月7日の夜に息を引き取る。

当日の様子は佐栄子さんが日誌に詳しく記している。

<朝方からゴロゴロ、ゼーゼーと痰が絡んで痰が切れない様子で、私から見ればとても苦しそうにも見えました。しかし主人のメモ書きには「痰が詰まっているようで喉がゼーゼー、ゴロゴロしている。苦しくはない。」と2回記してありました。
「病院に行こうか?」という周りの者の問いかけに、ひとさし指を口に当てて、「しー その話は後でするから、待っていて」と答えるばかりでした。
(略)
亡くなる1時間半くらい前におかゆを食べると言って食べようとするのですが、器を手に持ったままうとうとしてしまいました。
結局食べさせてもらうことになりましたが、「美味しい、美味しい」と言いながら食べていました。
昨日までは何を食べても後口が悪いと言っていたのに、この時は本当に美味しそうに食べていました。
(略)
夕方6時くらいからはずっと手を握っていました。
6時20分くらいに私の手をぎゅっと握って酸素マスクをはずし「ありがとう ありがとう」と言いました。
マスクを戻さないと苦しいと思い、私がマスクをつけにいくと首を横に振ってもう一度マスクをはずして「ありがとう ありがとう・・・」と何度も何度も繰り返しうなずきながら目を閉じていきました。
この時の主人の声はもう痰も絡んでいなくてはっきりと聞こえていました。
気が付くと私も主人に「私こそありがとう」と繰り返していました。
(略)
この時点で私は初めて主人が亡くなるのでは・・・と感じて、実家に預けていた子供たちを呼び寄せて救急車を呼びました。
子供の到着と救急車の到着とはほぼ同時でした。
子供と主人はぎりぎりで対面できました。
救急車に乗ってドアが閉まったとたん「呼吸停止」という救命士さんの声が響きました。>
(精巣ガン/日誌/自宅療養/2002年9月7日(土)闘病生活最終日そして新たな旅立ち日)


「精巣ガン」コーナーの最終更新となった2002年9月7日の日誌

自宅療養中のある日、佐栄子さんが「私にできることは?」と尋ねると、賢二さんは「死ぬことは怖くないけど、1人で死んでいくのはつらいから最後までそばにいて手を握っていてくれたらそれでいい」と答えたという。37歳と半年。希望したとおりの最期だった。

葬儀の後に14の「遺書」をアップ

冒頭に引用した「遺書」は、葬儀の後にアップされた。佐栄子さんも知らなかったが、賢二さんに頼まれた弟さんが約束のタイミングで公開したという。

遺書ページは14のメッセージがリンクされている。佐栄子さんに向けた「君にあえてよかった。」「いい人を見つけて」や、家族全員に向けた「愛すること」「最後のお願い」、不特定多数の人に向けたと思われる「お見舞い」「仕事とは?」など。いずれも化学療法が効かなくなり、死の覚悟を強くした2002年3月に書いたものだ。


遺書ページ。「015」以降はブランクページとなっている

このうちの「仕事とは?」を開いたとき、筆者の脳裏には、賢二さんはMy Schoolを人生最後の仕事に据えたのではないかという思いが浮かんだ。

<仕事していて、一番嬉しかったことはどんなとき?
お給料をたくさんもらったとき?
仕事が成功したとき?
「あなたと一緒に仕事ができて嬉しい。」と言われたとき、最高に嬉しかった。
そこに、仕事とは何かの答えがあるような気がする。
2002年3月7日>
(遺書/仕事とは?)

My Schoolがスタートしたのは、再度復帰した職場を離れて三度目の長期入院に入るタイミングだった。もう二度と職場で仕事できないかもしれない。ならば、これからの自分でも続けられる新たな仕事を始めよう。希少がんとの闘いを世に伝える。その準備は万全だ――。

最も近いところで思いを受け取っていた佐栄子さんは、前述の臨終の日の日誌にこう書いている。

<主人が闘病生活を終えたということで精巣ガンのページはしばらく更新することはないかと思います。
それと同時に主人と私たち家族の新しい旅立ち日が始まったので今後は私が My Schoolの中に新たなコーナーで主人にメッセージを送っていきたいと思います。>

それは賢二さんの仕事を引き継ぐ意思表明といえた。

「精巣ガン」コーナーはこのときの日誌が最終更新となっているが、1週間が経って佐栄子さんは「Dear 賢ちゃん」というコーナーを作り、遺族の視点から賢二さんをしのぶ日記や、子どもの成長を伝える日記を書くようになった。

<賢ちゃんが亡くなって今日で1ヶ月です。
私の中ではまだあなたが亡くなったとは思えません。
病院に入院していて、白血球が少ないため外泊許可が出なくて家に帰って来れないだけのようなそんなふうにしか思えないのです。>
(Dear 賢ちゃん/2002年10月7日(月)1ヶ月過ぎて)


賢二さんのお墓。「納骨した後もパソコンのそばにいてくれたら……」との思いからデザインしたという(佐栄子さん提供)

Dear 賢ちゃんは数年間続き、最終更新は2005年7月7日となっている。それ以降のアップデートがない理由は、弟さんとのすり合わせができなくなったためだ。佐栄子さんがHTML文書を手書きして更新するのは難しく、当初から弟さんに文書や画像をメールして更新してもらっていた。しかし、年月が進むと互いに多忙になったこともあり、継続が厳しくなっていったという。

ちょうどその頃、更新が容易なブログがはやりだした。佐栄子さんは2005年から「マザーグースの部屋」(https://plaza.rakuten.co.jp/mothergoose/)というブログを開設し、そこで賢二さんや家族との出来事をつづるようになった。そちらの更新頻度も2007年頃から落ちていったが、それはモチベーションの所為ではなく、発信の場をSNSに移したからだ。現在もFacebookで賢二さんとの思い出をつづっている。

「主人は子どもたちが成長するまでは残してほしい」

一方で、「My School」の役目も終わってはいない。いまも弟さんが管理しているし、佐栄子さんも「主人は子どもたちが成長するまでは残してほしいと言っていました。できれば永年残したいと思っています」という。利用しているhi-hoのホームページサービスが提供を終了する可能性があることは承知しているが、継続できるうちは継続するつもりだ。


9歳になる前まで父の闘病を見てきた長女は仕送りなしで医学部を卒業して麻酔医となった。4歳になったばかりで父と離れてしまった次女は賢二さんの仕事に強い関心を持ち、今年建築系の大学を卒業した。

「長女は、父のように闘病している人を少しでも助けることができたらという思いが強いようです。次女もホームページから感じるものがあったのか、父の遺志を継いだかのように思います。そんなこともあり、いままでほとんど放置していたホームページも子どもたちに影響を与えているんだと感じています」

2人とも成人して社会に飛び出すところまできた。しかし、成長がそこで止まるわけはないし、同じ病気で悩む人が当事者の声を探すことはいまでもある。My Schoolの役割はまだまだ終わらない。

(古田 雄介 : フリーランスライター)