第1次大戦で国産戦闘機の開発に出遅れたイタリア。同国海軍は鹵獲した敵機を研究・開発して独自の戦闘飛行艇を生み出し配備し、敵機とアドリア海周辺で空中戦を行いました。映画『紅の豚』にも登場した“名機”を追います。

敵機のコピーから生まれた戦闘飛行艇

 アドリア海を舞台に活動する飛行艇(水上機)パイロットを描いた宮崎 駿アニメの名作『紅の豚』。登場する主人公、ポルコ・ロッソの愛機は真っ赤な戦闘飛行艇ですが、彼の回想シーンで登場したのがマッキM.5飛行艇です。真っ赤な戦闘飛行艇はアニメオリジナルであるものの、マッキM.5の方は実在機。いったいどんな飛行機だったのか、誕生から実績までを見てみます。

 イタリアは、1915(大正4)年5月23日にオーストリア・ハンガリー二重帝国に宣戦を布告し、イギリスやフランスなど連合国側の一員として第1次世界大戦に参戦しました。ただ、国産戦闘機の導入が遅れたイタリアは連合国側に航空機の支援を要請、それにフランスが応え、自国製のニューポール10型および11型のイタリアにおけるライセンス生産やスパッドS.VII型の輸出を認めます。


スロープから海面に降ろされるマッキM.5戦闘飛行艇。機体には山猫の個人マークが描かれ、オーバーヒート対策でカバーが外されて剥き出しになった160馬力エンジンが見える(吉川和篤所蔵)。

 このような陸軍の動きとは別に、イタリア海軍も独自に航空隊を組織します。これは、敵であるオーストリア・ハンガリー二重帝国の海軍が弩級戦艦4隻を有する強力な艦隊をアドリア海で展開していたため、その哨戒や攻撃のために必要とされたからでした。ただ、陸軍と違っていたのは、原型機として流用したのが敵であるオーストリア・ハンガリー製だったという点です。

 イタリア海軍は1915(大正4)年5月下旬のヴェネチア空襲時に鹵獲(ろかく)した敵のローナー社製L型複葉飛行艇を徹底的に研究、フランス戦闘機を国内生産していたニューポール・マッキ社(後のアエロナウティカ・マッキ社)でL.1飛行艇としてコピー生産させます。

 翌1916(大正5)年1月にはL.1型を改良したL.2型が開発され、さらに空戦能力の向上を目指して小型軽量化したL.3型が開発されました。同機は並列複座の2人乗り構造で、左側に操縦手、右側に偵察員を兼ねた機関銃手兼爆撃手が乗り込む形で、最高速度は145km/h、上昇力は5400mまで41分を示しました。

 なお、同機は1917(大正6)年に、マッキ社の頭文字を取ってM.3型に名称を変更しています。

1人乗り戦闘飛行艇の要望と開発

 当初は、優れた汎用性を買われて200機余り生産されたM.3飛行艇でしたが、大戦中頃には敵海軍の飛行艇を迎撃するための1人乗り戦闘飛行艇の要望が高まり、その開発が始まります。1917(大正6)年に、カルロ・フェリーチェ・ブンゾとルイージ・カルツァヴァラの技士ふたりによりM.3型を参考にした単座の飛行艇M型が設計され、ニューポール・マッキ社で試作されます。そして様々な改修を経て、同年夏にはM.5戦闘飛行艇として完成しました。

 機体の動力はM.3型と同じ出力160馬力のイソッタ・フラスキーニV4Bエンジン(160馬力)を、やはりプッシャー(推進)式と呼ばれるプロペラが後ろ向きについた形を採用していました。

 M.5型はひとり乗りのいわゆる単座構造としたことで、空虚重量はM3型から180kg減った720kgとなり、最高速度は189km/hに向上。また、フロートを兼ねた機体の前方には、固定武装として2挺の7.7mmヴィッカース機関銃あるいは6.5mmフィアットM14航空機関銃が搭載され、単純に攻撃力も2倍に向上していました。

 なおM.5型は約200機製造されましたが、そのうち17機は、のちに出力が250馬力に向上した新型V6エンジンに換装されています。


1918年春、イタリア海軍航空隊第261飛行隊所属のピエロッツィ大尉が搭乗したマッキM.5戦闘飛行艇。機体には、敵機をくわえて振り回す猟犬の個人マークが描かれている(吉川和篤作画)。

 M.5型は1917(大正6)年11月よりイタリア海軍飛行隊への配備が始まりますが、1年を経ずして1918(大正7)年9月には装備する飛行隊が14個にまで増えました。そしてヴェネチアやナポリ、ブリンディシの基地から出撃して、敵であるオーストリア・ハンガリー二重帝国軍のローナーやハンザ・ブランデンブルグといった飛行艇を相手にアドリア海上空で死闘を演じ、終戦までに5機以上を撃墜した3人の「アッソ」(イタリア語でエース)を輩出しています。

水上戦闘機同士の一騎討ちと死闘

 それでは、M.5型を操って「アッソ」の称号を手にした海軍パイロットを順に紹介します。

 総撃墜数7機で、イタリア海軍トップに輝くのが、オラツィオ・ピエロッツィ大尉です。彼は1918(大正7)年3月にヴェネチアでM.5型を受領しましたが、それ以前に乗っていたM.3型で敵の飛行艇を1機撃墜していました。同年5月1日のトリエステ爆撃では1機を撃墜すると、さらに同月14日のポーラ軍港攻撃で敵海軍飛行艇と空中戦となり、この戦いで一挙に3機撃墜して「アッソ」の仲間入りを果たします。その後も、大尉は7月までに2機を撃墜し、大戦終結までに総撃墜数7機を記録したのでした。

 2位のフェデリコ・カルロ・マルティネンゴ大尉は、1918(大正7)年5月4日にトリエステ付近でM.5型で飛行中、敵のハンザ・ブランデンブルグCC飛行艇4機の攻撃を受けたものの、返り討ちにしてA.91号艇およびA.78号艇を各1機、さらに1機を撃墜します。こうして1日で3機の戦果を挙げた大尉は、それまでの戦果と併せて5機撃墜の「アッソ」となりました。

 マルティネンゴ大尉と同数で2位に並ぶのが、ウンベルト・カルヴェッロ中尉です。彼は、同じく1918(大正7)年5月4日にマルティネンゴ大尉の僚機としてトリエステ付近で敵の飛行艇群と遭遇、長時間におよぶ乱戦の末に2機を共同撃墜します。さらにA.82号艇を単独撃墜したため、過去の戦果と併せて5機の総撃墜数とされています。


1918年春サン・アンドレア基地における、第260飛行隊所属のM.5型前で整備兵達と写るカルヴェッロ中尉(右)。機体には漫画「フォルトゥネッロ」の主人公を描いた個人マークが見える(吉川和篤所蔵)。

 これらM.5戦闘飛行艇と敵飛行艇との死闘の模様は、アニメ映画『紅の豚」でも主人公ポルコ・ロッソの青年時代のエピソードの一部として描かれました。ちなみに、イタリア空軍が新設されたのは1923(大正12)年のこと。このときも、まだ65機のM.5型が配備されており、その後も数年に渡って軍務に就いていたため、まさに『紅の豚』で描かれた「飛行艇時代」にピタリとはまる飛行機であると言えるのではないでしょうか。