由布岳をバックに走るJR九州の観光列車「或る列車」(写真:ken/PIXTA)

JR九州の観光列車「或る列車」が11月13日にリニューアルする。といっても、車両に手を加えるわけではない。車内で提供される料理の内容と運行ルートが変わるのだ。料理は従来のスイーツ主体のメニューから本格的なコース料理に切り替わる。また、これまでは長崎―佐世保間、博多―ハウステンボス間などを走っていたが、今後は久大本線経由で博多と由布院を結ぶ。

背景にはJR九州の観光列車戦略が大きく関わっている。これまで長崎新幹線などと呼ばれていた、長崎と佐賀県の武雄温泉を結ぶ「西九州新幹線」が2022年秋頃に開業する。これに合わせて新たな観光列車を佐賀・長崎エリアに導入し、観光振興の一助とする方針をかねて打ち出していた。

長崎・佐賀には新観光列車を導入

或る列車はJR九州の豪華観光列車「ななつ星 in 九州」と同レベルの豪華な内装が売り物である。キッチンを備えており、車内で調理したできたての食事を提供することができる。


新たな運行ルートの車内ではコース料理を提供する(記者撮影)

これまでのスイーツメニューを監修したのは、東京・南青山のレストラン「NARISAWA」オーナーシェフ、成澤由浩氏。2019年に大阪で開催されたG20サミットで晩餐会の料理を担当したことでも知られている。

車両の内装もメニューも超一級品。そのため、通常の列車として定期運行するのではなく、専用の旅行商品として発売していた。料金は1人あたり2万円を超える。

新幹線で長崎に到着した観光客が或る列車に乗車して観光やスイーツを楽しむという、「新幹線&或る列車」という選択肢もあったが、旅行商品専用の列車であり利用者層は限定される。むしろ新しい観光列車を開発するほうが話題づくりという点でも得策とJR九州は判断した。

長崎・佐賀エリアに新たに投入するのは特急「ふたつ星4047」。2022年秋頃から土日祝日を中心に、在来線の武雄温泉―長崎間を運行すると10月27日に発表した。

ほかの多くの観光列車と同様、新車ではなく既存車両の改造となる。ベースとなるキハ40形とキハ47形をどこから調達するかはまだ決まっていない。「2020年から在来線新型車両YC1系が長崎エリアに投入され、それまで同エリアを走っていた車両が余剰となり、九州全域に転出した。全体の車両運用の状況を見ながら観光列車にするキハ40形とキハ47形を捻出する」とJR九州の担当者は説明する。

ふたつ星4047で長崎から大村線経由で武雄温泉に向かう場合の料金は4500円。通常の乗車券運賃、指定席特急券料金と同額である。その意味では、或る列車のような旅行商品タイプではなく、「指宿のたまて箱」「海幸山幸」といったJR九州のほかの観光列車と同じ価格体系といえる。

「或る列車」で由布院観光盛り上げ

或る列車のリニューアルに影響を与えたもう1つの要因があった。2020年10月に新たな観光列車「36ぷらす3」が運行開始したことだ。九州7県を5日間かけてぐるりと回る。1日単位で区間を区切った乗車も可能。長崎―佐賀間も走るため、西九州新幹線と組み合わせて楽しむこともできる。


九州を一周する観光列車「36ぷらす3」(写真:ninochan555/PIXTA)

ふたつ星4047と36ぷらす3。この2つの観光列車が長崎、佐賀エリアをカバーすることになり、或る列車に頼る必要がなくなった。

一方で、由布院は36ぷらす3の運行ルートから外れた。事情が許せば乗り入れてもいい場所だが、36ぷらす3は電車であり非電化区間の由布院に乗り入れることができないのだ。

由布院はその名を冠した特急「ゆふいんの森」が博多―由布院間を1日3往復するほか、特急「ゆふ」も走っている。さらにななつ星も立ち寄るなど、「JR九州にとって非常に重要な観光拠点」(同社)である。全国の観光地と同じく由布院もコロナ禍で大きな打撃を受けたが、それだけではない。2020年7月には豪雨被害で付近の区間が不通になり、今年3月にようやく全線再開した。

そのため、「由布院をさらなる観光列車で盛り上げたい」という声が社内で上がった。そこで白羽の矢が立ったのが、或る列車である。ディーゼル車であり、かつては日田―大分間を営業運転して由布院に乗り入れていた実績もある。

運行コース変更に伴い、車内で提供する料理もスイーツからコース料理に変更した。料理の監修は成澤氏が引き続き担当する。成澤氏はコース料理の提供を打診されると、「食材の幅が広がる。むしろ歓迎すべきことだ」と即座に了承した。もともと九州の食材をふんだんに用いた料理を出したいという思いもあった。旬の食材を使えるよう、メニューは季節ごとに変えていくという。

10月31日に報道陣向けの試乗会が行われた。報道陣を乗客に見立てた本番さながらの訓練運行だ。キッチンでは、揺れる車内で3人のシェフたちが慎重に料理の盛り付けをしている。その様子を成澤氏がじっと見守っていた。


キッチンで料理を盛り付けるシェフたち(記者撮影)


車内でスタッフに指示する成澤由浩氏(記者撮影)

シェフたちは南青山の店舗で成澤氏の指導を受けてきた。「みんな努力家だね。私が教えたことをほんの少しでもおろそかにすることをしない」と、成澤氏もシェフたちに太鼓判を押す。

車内では6人の客室乗務員がサービスを行う。ゆふいんの森をはじめ九州のさまざまな観光列車で乗客をもてなしてきた経験を持つ。とはいえ、或る列車でのコース料理を提供するのは初めての体験だ。すべての料理を出し終わり行程も終盤にさしかかった頃、成澤氏は客室乗務員たちを集めてミーティングを始めた。「現場で採れたものがお皿に載っているということをもっと強調して説明してください」と成澤氏が話しているのが漏れ聞こえてきた。

由布院は「JRとともに生きる町」

コロナ禍の影響を受けていない2018年度における由布院駅の1日平均乗車人員は1086人だった。年間に直せば39万人だ。一方で2018年に由布市を訪れた観光客は442万人。つまり、交通手段別では鉄道のシェアは8.8%にすぎない。観光客の大半はバスやマイカー、レンタカーで由布院を訪れている。

しかし、世間一般の由布院への交通手段としてイメージされるのは鉄道だろう。由布院のシンボルである由布岳をバックにJR九州の列車が走る姿はあまりにも有名だ。「由布院はJRとともに生きる町です」と、由布院の老舗旅館「玉の湯」の桑野和泉社長が話す。桑野氏はJR九州の社外取締役も務めている。

「10月中旬以降、観光客が目に見えて増えてきた。このまま順調に戻ってほしい」と、由布市まちづくり観光局の生野敬嗣事務局次長が話す。2018年には由布院駅の隣にツーリストインフォメーションセンターがオープンした。世界的建築家の坂茂氏が設計し、全面ガラス張り、木材をふんだんに使ったアーチ柱を連続させた空間は、木々の中で観光客を出迎えたいという気持ちの表われだ。


10月31日の由布院駅前。思ったよりも人出があることに驚かされた(記者撮影)

「ゆふいんの森という割には町の中に森がないんですよね」(生野氏)。そのため、由布市は町に木々を増やす取り組みをスタートし、小学校や銀行など町内のさまざまなスポットに植樹をしている。JR九州と連携したイメージアップ戦略も奏功して世界中から観光客が集まり、由布院の町の様相は過去30年間で大きく変わった。植えた木々が育てば、30年後の由布院はさらに違ったものになっているかもしれない。

或る列車の試乗会が行われた日、由布院駅に降り立つと、駅前に結構な人出があるのに驚かされた。2018年から2019年にかけての賑わいには及ばないにせよ、多くの観光客が駅前の目抜き通りを散策していた。

観光振興のために自然災害対策も

コロナ禍と並び、JR九州にとって脅威なのは近年相次ぐ自然災害だ。


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2020年7月豪雨では由布院付近の久大本線が被災したほか、やはり風光明媚な肥薩線の一部区間は橋梁が流され、現在も復旧方針が定まっていない。それだけではない。2017年7月の九州北部豪雨は日田彦山線の一部区間に甚大な被害をもたらし、JR九州は鉄道での復旧を断念せざるをえなかった。今年9月の台風14号に伴う大雨では日南線で土砂災害が発生し、やはり一部区間が不通となった。2021年末の運行再開を目指して鋭意工事中だ。

JR九州の青柳俊彦社長は「従来も災害はあったが、近年の災害は頻度、間隔、規模感から、以前に比べると甚大な災害が起こりやすくなっている。線路や橋梁など路線全体の健全性をきちっと把握したうえで、今後どのように対応していくべきか考えていきたい」と話す。これからの観光振興を考えるうえでは、観光列車投入という攻めの要素だけではなく、鉄道の安全運行をどう維持するかという守りの面も考えていく必要がある。