トップフォーミュラドライバーでさえ手に汗握るピーキーな挙動

 近年、国産モデルからスポーツカーと呼べるジャンルのクルマが激減している。しかし、バブル前後の1989年〜1999年頃まではスポーツカーは若いユーザーの憧れであり、選択肢も多くあった。

 スポーツカーの定義は「高速域でもスキルの高いドライバーなら意のままに操れる」ということを自ら定めて試乗テストなどを行ってきたが、なかには我々プロドライバーでもちょっと運転するのを躊躇してしまうほど操るのが難しいスポーツモデルも散見されたのだ。

1)トヨタMR2(2代目・SW20型)

 ミッドシップレイアウトのスポーツカーといえばフェラーリやランボルギーニのようなスーパーカーしか存在しなかった時代。フィアットがX1/9というコンパクトなシャシーのミッドシップモデルを1972年に登場させ、1989年まで生産していた。頑張ればもしかしたら手が届くかもしれないミッドシップスポーツとして大きな脚光を浴びていたが、バブルのころにはすでに生産中止となり中古車しか入手できなくなっていた上に「故障の多いイタリア車」というイメージを払拭できず購入に二の足を踏んだ方も多かっただろう。

 その特異なマーケットに目を付けたのがトヨタだ。FFとなったカローラのパワートレインを活用し、初代MR-2(AW1型)を1984年に登場させ、X1/9の格好良さをトヨタの品質で実現し大注目となったのだ。トヨタが小型ミドシップスポーツを発売する! という衝撃的なニュースには当時月刊「CARトップ」誌編集部員でもあった僕も興奮を抑えきれなかったものだ。

 この初代MR2はベルトーネ風のデザインでスマートな仕上がり。価格も国産車価格で1984〜1985年の日本カー・オブ・ザ・イヤーに輝いたほどだ。その再後期モデルにはスーパーチャージャーを装着しパワーアップしたモデルも登場していたがハンドリングはいまひとつ。ボディ剛性の低さから正確なライントレースを維持するのは難しかったが、トヨタが初めて量産したミドシップスポーツとしては寛容できるものだったのだ。それだけに1989年に2代目へと進化したSW20型には大きな期待がかけられていた。

 2代目となったMR2(SW20型)の試乗会はトヨタの袋井テストコースで行われた。1989年には僕自身も編集部員を卒業し、国内最高峰のフォーミュラカーレースである「全日本F3000選手権」ドライバーにステップアップし、デビュー3戦目にポールポジションを獲得するなどプロレーサーとして活躍していた。F3000という究極のミッドシップマシンを乗りこなすことでドライビングスキルも格段に高まっていた時期だった。レースのテストで超忙しい中、袋井に出かけたのは新型MR2の進化の程を見定めたいと心から期待していたからだ。

 袋井のテストコースはレーシングカーのトヨタ7開発でも知られる鈴鹿サーキットを模した難コース。高速の下り旋回ブレーキやスリッパリーな路面構成などでレーシングカーもテスト中に何度もコース外に飛び出す大クラッシュを過去に演じているという。そこで新型MR2のハンドリングを見極めるため限界域まで攻めて走らせてみることにした。

 その結果は……当時試乗直後に印象を聞かれた時に思わず「手に汗を握るクルマだ」と答えていた。それはF3000やポルシェ962Cなどトップカテゴリーのレーシングカーを操っているときは体力的負荷により大汗をかいていて1レースで体重が3kg減るのは当たり前なほどだったが、レーシングマシンは走行安定性が高く、冷や汗をかくのはバトルをして勝負を仕掛ける一瞬くらいだった。

 しかし2代目MR2は快適なキャビンで汗は出て来ないが、走行安定性が低く急激な姿勢変化を各所で誘発し冷や汗をかかされる。その結果走行直後は手の平がレーシングカーではかかない汗でベッチョリ濡れていたのだった。その言葉は酷評に聞こえたようで開発陣からはもちろん歓迎されなかった。2代目への期待値が大きかったことも重なりがっかりすると同時に2代目MR2でサーキットへ駆り出すのはその後、躊躇するようになってしまったのだ。

速さは強烈でもコーナーの挙動は厳しい!

2)マツダRX-7(3代目・FD3S型)

 マツダRX-7は初代FB3S型が1978年に登場した。ロータリーエンジンを搭載し2+2に特化したウェッジシェイプのボディスタイルが非常に魅力的だった。このRX-7が登場した時、僕はまだ大学生。だがアルバイトしていた自動車専門誌の筑波サーキットテストでドライブさせてもらう機会を得て当時国産モデルのラップタイムは1分20秒が壁とされていた中で1分18秒台を楽にマークしてみせ一気に国産最速モデルの称号を手にしていた。

 その後1985年に2代目FC3S型へと正常進化し1991年には3代目FD3S型となったが、この3代目が曲者だった。

 エンジンは13B型ツインローターのロータリーエンジンにターボチャージャーを装着し大幅にパワーアップ。それに合わせて前後サスペンションにダブルウイッシュボーンを採用しスペック的には強力な進化を遂げているように思えた。だが筑波サーキットで走らせて見ると、急激なターボ過給トルクの立ち上がりによるドライバビリティの悪さとリヤサスペンションのバンプステアが激しく、コーナー出口で急激にオーバーステアを誘発するスナップオーバーステア傾向が各所で表れ、コントロールするのが容易ではなかった。

 マツダにも再三改善を要望したが、この代で改良されることは遂になく2002年でRX-7自体が消滅してしまう。ただ富士スピードウェイや鈴鹿サーキットなど平均車速の高いサーキットでは軽量さが武器となって強力なパフォーマンスが発揮されていたのでタイトコーナーでの限界走行特性だけが弱点だったともいえる。

3)ホンダNSXタイプR(NA1型)

 1990年。ホンダが第2期F1活動で大成功を収めている最盛期にホンダNSXは登場させられた。F1マシンにつぎ込まれたホンダのDNAが活かされた本格的ミドシップスポーツカーとして一躍国産スポーツの華として世界中のファンを熱狂させた。そして1992年にはそのスポーツグレードとして「タイプR」が設定されるのだが、これがまた曲者だった。

 当時鈴鹿サーキットでタイプRの走行テストを引き受け走らせた。3リッターV6自然吸気のエンジンはポルシェ911並みのシャープなレスポンスで、オールアルミニウムボディで軽量な事に加えバケットシートや車体各所の軽量化も進められて280馬力の自主規制内では最速と思える動力性能を手に入れていたと言える。

 だがコーナーではコントロールするのに四苦八苦した。まずステアリングにパワーアシストが装着されていない。いわゆる「重ステ」で両手でしっかり握って操作しなければならない。マニュアルトランスミッションのシフトレバーはショートストロークであり転舵の量とバランスが合わず、シフトノブはチタン製金属表面剥き出しで素手では直に手の皮を痛めてしまう。そして何よりコーナーでのトリッキーな挙動に手こずらされる。ハイグリップタイヤ装着でコーナリングスピードは高いがGが高まった時に唐突にリアがリバースするスナップオーバーステアが誘発される。重ステゆえそれに対処するカウンターステアを当てるのが困難だった。

 全体に軽量化されているとはいえエンジンの搭載位置は変わらず、ドライサンプ化されていなかったので相対的にエンジン搭載位置は高いまま。それがコーナーでジャッキアップ現象により内輪を浮き上がらせるだけでなく外輪荷重も減少させテールのリバースを起こしていたのである。もしこの状態でウェットを走らせるとなったら相当真剣に集中しなければならず、覚悟が必要とされた。タイプRの速さは否定しないが、乗るのを躊躇するケースがあったのも事実だった。