■「英国の首相になりたい」という願望を書いた本

ブレグジッドをめぐって行き詰まり状態の英国。「窮地を救え!」とばかりに登場したのが、ボリス・ジョンソン前外相だ。金髪のボサボサ頭、口を開けばジョークを連発するジョンソンは、英国の政治家の中でただ一人、愛称「ボリス」で通じる人物だ。

英与党・保守党の党首に選ばれたボリス・ジョンソン氏=イギリス・ロンドン、2019年7月23日(写真=EPA/時事通信フォト)

そんなジョンソンが、英保守党の党首選に圧勝し、英国首相に就任。就任直後の世論調査では、「失望した」「動揺した」という答えが半数近くに上った。そんな嫌われ者のジョンソンが首相に上り詰める過程で自分の身と重ね合わせたのが、英国が誇る英雄ウィンストン・チャーチルだった。

2014年、ジョンソンはチャーチルの伝記『チャーチル・ファクター』を出版した。チャーチルの死から50周年に合わせて刊行されたものだが、ジョンソンが、敬愛するチャーチルの人生を語りながら「自分も英国の首相になりたい!」という願望を表明したものと言われている。

ジョンソンは2001年に保守党議員になったものの、業績らしい業績を残さないまま2008年には国政からロンドン市長に方向転換する。コミカルな見た目やメディア受けする発言が注目を集め、16年まで2期を務めたが、「お調子者」のイメージが強すぎて本格的な政治家とは思われていなかった。チャーチルの伝記を書くという間接的な首相立候補宣言も、大半が荒唐無稽なものと受け止めていた。

■ジョンソンもチャーチルも「ジャーナリスト出身」

しかし、ジョンソンが「自分はまるでチャーチルのようだ」と思ったとしても不自然ではない。実際、共通点が多いからだ。

ボリス・ジョンソン著、小林恭子(翻訳)、石塚雅彦(翻訳)『チャーチル・ファクター たった一人で歴史と世界を変える力』プレジデント社

チャーチルは祖父がマールバラ公爵で、貴族階級の出身だ。父ランドルフは内務大臣まで務めた大物政治家。母親はアメリカ人の富豪の娘で、生涯を通してアメリカと親しい関係にあった。

一方、ジョンソンはオスマン帝国(現在のトルコ)末期の内務大臣アリ・ケマルの子孫だ。父方の先祖には英国王ジョージ2世(在位1727〜60年)がおり、堂々たる家柄である。チャーチル同様、アメリカとの関係も深い。ニューヨークで生まれ、つい最近まで英国とアメリカの二重国籍を持っていた。ボリスの父、スタンレー・ジョンソンは欧州議会議員で、「政治家の息子」である点も同じだ。

キャリアに関しては、2人は一見異なる道を選んだかに見える。チャーチルはサンドハースト陸軍士官学校から軍人になったが、ジョンソンは私立の名門校イートン校からオックスフォード大学、そしてジャーナリズムの世界に入ったからだ。

しかし、チャーチルは兵士として戦場に出向きながらも、その様子を原稿にして新聞に送り、後にノーベル文学賞をとるほどの文筆家となった。ジョンソンもチャーチルも「ジャーナリスト」として認められているという点は同じである。

チャーチルもジョンソンに負けず劣らずジョークの名手だった。実際に、『チャーチル・ファクター』の冒頭にはチャーチルのきわどいジョークがちりばめられている。ジョンソン家では、夕飯の時に父が子供たちにチャーチルのジョークを披露することが、しばしばあったという。

■嫌われ者、落ちこぼれというキャラクターも似ている

ジョンソンが自分はチャーチルに似ている、と思うようになった要因としては、生まれ育ちやキャリアにおける共通点に加えて、キャラクターの部分もあっただろう。チャーチルが人気者であると同時に嫌われ者であり、変人あるいは落ちこぼれと見なされていた部分があった。

いまとなっては、「戦時の名宰相」「英国の偉大な人物」として真っ先に名前が挙がるチャーチルだが、学校時代は実際に落ちこぼれとしか言いようがない状態だった。

勉強が嫌いで、上流階級の教養の一部であるラテン語も苦手だった。尊敬する父親からは「できの悪い息子」と見なされ、名門イートン校ではなく、当時知的要求度が一段と低いと見なされたハーロー校に送られた。さらにオックスフォード大学には入れず、サンドハースト陸軍士官学校にかろうじて入学した過去を持つ。

1900年、保守党議員で初当選したものの、若気の至りで党執行部の姿勢に反発し、1904年には、自由党(当時)にくら替えした。その20年後、チャーチルは保守党に出戻るが、最後の最後まで保守党議員らから「裏切り者」「信用のできない人物」と思われて恨みを買った。

いくつもの閣僚職を歴任するものの、大失態(1916年、ダーダネルス作戦の失敗で海軍大臣を罷免される、1925年の金本位体制復帰の決定で、経済を破綻させる等)が続き、1931年にはインド自治に反対して入閣を逃した。翌年から39年まで、政治的に干される「荒野の時代」を過ごした。

その後、チャーチルは海軍大臣として政治の表舞台に復帰、そして、1940年5月、突如、首相候補の最有力者として浮上する。チェンバレンが次期首相として指名したハリファックスが辞退したからだ。まさに逆転の人生である。

■人気とりのためならフェイクニュースも書く

ジョンソンを好ましく思う人は「白人」「男性」「エリート層」「古き良き時代への回帰願望」といった要素をジョンソンと共有する人々や、エリート層に統治されることに慣れている、愛国心あふれる労働者層だ。

「エリート層なのに、なんだか抜けていて、面白いことを言う人物=ボリス」というイメージは、1990年代に出演したBBCの時事ニュースの風刺番組「ハブ・アイ・ゴット・ニューズ・フォー・ユー」で広がった。その軽妙な受け答えが大いに気に入られた。「われらがボリス」の誕生である。

2016年、EUに加盟し続けるかどうかの国民投票が行われた時、ジョンソンはEUからの離脱運動を主導した。「英国を国民の手に取り戻そう!」この言葉で、有権者の心をわしづかみにしたのである。

ジョンソンを嫌う人は、どこを嫌うのか?

まず、エリート層であること自体に反発する人は相当数いる。「保守党は金持ちと中流階級の政党」と見る人は、ジョンソンを嫌う。エリート層にもジョンソン嫌いは多い。彼らはジョンソンを「大衆迎合」「不真面目」「いい加減」「節操がない」「風見鶏」「裏切り者」などと評する。つまり、「政治家としての信念がまったく、見えない」というイメージが彼にはつきまとう。

例えば、ジョンソンは保守系全国紙デイリー・テレグラフのブリュッセル特派員であった頃、EU(当時はEC)がいかに無理な規則を英国に押し付けているかを書き続け、反EU感情の醸成に寄与した。実はそのほとんどが事実ではなく、記事内のコメントを「創作」したこともあった。

■「自分の名声と自己満足以外に関心を持たない」

ロンドン市長時代はリベラル派で、移民を歓迎した。ところが先の国民投票では、離脱運動を主導。政治姿勢がコロコロ変わる。ジョンソンがテレグラフ紙にいた時の編集長マックス・ヘイスティングスは「ジョンソンは自分の名声と自己満足以外に関心を持たない」と手厳しい。

しかし、大きなひんしゅくを買ったのは、数々の失言だ。テレグラフのコラムの中で、イスラム教徒の女性が目以外の全身をベールで覆った姿を「まるで郵便箱のようだ」と評したり、国民投票のキャンペーン中、訪英したオバマ米大統領(当時)には「彼はケニア人の血が入っているから大英帝国を毛嫌いしているのだ」などと大衆紙サンのコラムで書いたりした。イスラム教徒や女性への蔑視や、人種差別的なにおいがする発言である。

■密かに「国家存続の危機」を待ち望んでいた

不遇の時代が続いたチャーチルが不死鳥のようによみがえる姿は、ことさらジョンソンの想像力を刺激したに違いない。

1930年代末、政治的に干されてきたチャーチルが入閣を果たし、40年には首相になった時、英国は国家の存続が脅かされる危機状態にあった。ナチス・ヒトラーが台頭し、英国が欧州他国のようにナチスに倒されてしまうかもしれなかった。ナチスの脅威を早期から指摘し、従軍経験を持ち、いざとなったら大きな決断ができる人物は、チャーチルしかいなかった。

ヒトラーと交渉することで英国を存続させようと主張した外相ハリファックス卿とその支持者たちを前に、チャーチルは「自らの流す血で喉を詰まらせながら地に倒れ伏すまで」戦うことを主張し、断固として交渉しないと誓った。

チャーチルの「鶴の一声」で内閣が、そして英国が一丸となり、5年後の連合国軍の勝利につながってゆく。

チャーチルを敬愛するジョンソンからすれば、自分にも、大きな飛躍をするための「危機」が必要だった。国家の存続を揺るがすほどの大きな危機だ。いまや、英国が国家を総動員して戦争に関わる見込みはない。

しかし、3年前、英国の将来を決める大きな決断の時が誕生した。これがブレグジットだった。

■首相になる道は永遠に閉ざされたはずだった

ジョンソンは離脱派勝利の立役者となったが、さらに大きなチャンスがめぐってきた。国民投票の結果が出た直後、EU残留派を率いたデービッド・キャメロン首相(当時)が辞職を表明したので、党首選が行われることになったのだ。

しかし、党首選への立候補を予定していたまさにその日、同じく離脱運動の中核をなしたマイケル・ゴーブ(当時司法大臣)がジョンソンを、いわば「後ろから刺した」。ジョンソンを支援すると言っておきながら、自らが立候補宣言をしてしまったのである。ジョンソンは涙ながらに立候補を取りやめた。

首相になる道は永遠に閉ざされたかに見えたが、新首相テリーザ・メイがジョンソンを外務大臣に指名したメイ内閣の下、ブレグジット交渉が大難航すると、ジョンソンはさっさと外相を辞任。今年3月29日に予定されていたEU離脱が実現できずにメイ首相が辞任すると、待っていましたとばかり保守党党首選に躍り出るのである。

戦争とまではいかないが、ブレグジット交渉の行き詰まりという、3年前よりもさらに大きな危機に乗じたのである。

■ほんの数カ月でも首相になれれば満足なはず

チャーチルとジョンソン。この2人の政治家がその資質において「似ている」という人は少ないだろう。

チャーチルは目立ちたがり屋ではあったかもしれないが、英国を世界的な視点から俯瞰し、英国をそして英国民を救うために第2次大戦で国民を鼓舞し、大戦の勝利に導いた。真剣な時代の真剣な政治家といえよう。

ジョンソンといえば、英国や国民のために奉仕したいというよりも、「首相になる」という自分の夢を実現させるために政治家をやってきたように見える。実際、ジョンソンを知る多くの人がそう指摘しているのだ。

しかしながら、チャーチルの演説や逸話を聞きながら育ったジョンソンは、チャーチルの挫折や逆境を自分の人生に重ね合わせ、その不屈の精神を学んだ。そうやって、一部の国民からは徹底して嫌われ、一時は首相になる道を閉ざされたかに見えても、「いつかは自分の出番がやってくる」と信じて目的を成就した。

ジョンソン新政権は「短命に終わる」という説もある。ブレグジットをめぐるEUとの交渉がジョンソン自身が死守を約束した離脱予定日(10月31日)に実現できない可能性が高いからだ。しかし、ジョンソンはほんの数カ月でも夢が実現し、首相の座に座ったことを、後で誇らしく思うのではないか。

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小林 恭子(こばやし・ぎんこ)
在英ジャーナリスト&メディア・アナリスト
外資系金融機関勤務、英字紙「デイリー・ヨミウリ」の記者を経て、2002年に渡英。フリーのジャーナリストとして、政治やメディアについての記事を自身のブログ「小林恭子のメディアウォッチ」はじめ、各種媒体に寄稿している。著書に『英国公文書の世界史』(中公新書ラクレ)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新書)など、共訳書に『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)がある。

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(在英ジャーナリスト&メディア・アナリスト 小林 恭子 写真=EPA/時事通信フォト)