脳科学が音楽にもたらす影響についての研究を進める古屋晋一博士が目指すところとは(写真:ソニーCSL)

11月11日、「ピアノ演奏がもたらす効果〜最先端脳科学の視点から〜」という刺激的なタイトルを掲げたイベントが、天王洲のスタインウェイ&サンズ東京で開催された。
テーマとなったのは、“音楽が脳や身体にもたらす良い影響”や、“ピアノを学び演奏することがもたらすメリット”について。近年さまざまな研究が進むこれらのテーマについての講師を務めたのは、ピアノ演奏と脳の動きを研究している医学博士の古屋晋一氏。自らもピアニストとして活動する38歳の若き研究者だ。
当日の参加者にピアノ教師やピアノ学習者などピアノ関係者が多かったこともさることながら、柔らかな関西弁で語りかける古屋博士のトークが破格の面白さであることでイベントは白熱。熱心な質問が飛び交う極めて充実した時間であったことが記憶に残る。見方を変えれば「脳科学」という言葉に対する一般的な好奇心がいかに高いかということを実感したイベントでもあった。 
ちなみに古屋博士の著書『ピアニストの脳を科学する〜超絶技巧のメカニズム』(春秋社刊)は、2012年の発売以来すでに22刷を記録。これはクラシック関連書籍として異例のヒットだ。イベント当日のテーマなどについて詳しく知りたい方はぜひお読みいただきたい。
さて、脳科学が音楽にもたらす影響についての研究を進める古屋晋一博士が目指すところはいったいどこにあるのだろう。持ち前の好奇心とピアノ好きの本性が頭をもたげ、古屋博士が所属する「ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)」を訪ねてみた。ソニーCSLとは「人類の未来のための研究」を掲げるソニーの研究機関で、現在20人以上の研究者がさまざまな分野の研究を行っている。この最先端研究機関で古屋博士に話を聞いた。

日本人の演奏技術を進化させることが目標

――どのような研究をしているのでしょうか。

古屋:音楽の研究には、“音楽知覚認知科学”と“音楽療法”、そして僕の専門である“演奏科学”の3つがあります。


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“演奏科学”というのは、簡単に言えば“どのような練習をしたら効率的か”ということです。僕の目標は、科学の応用によって日本人の演奏技術を進化させること。そしてピアニストの腕の故障やジストニア(運動障害の一種。神経系の異常で手足が思うように動かなくなる病気。ピアニストの発症例が多い)をなくすことです。


古屋晋一(ふるや しんいち)/ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャー、上智大学 特任准教授、ハノーファー音楽演劇大学 客員教授、京都市立芸術大学・東京音楽大学・エリザベト音楽大学 講師。大阪大学基礎工学部、人間科学研究科を経て、医学系研究科にて博士(医学)を取得。ミネソタ大学 神経科学部、ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所、上智大学にて勤務した後、現職。研究の主な受賞歴に、ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルク・フェローシップ、フンボルト財団ポストドクトラル・フェローシップ、文部科学省 卓越研究員など。演奏上の主な受賞歴に、日本クラシック音楽コンクール全国大会入選、KOBE国際音楽コンクール入賞など。主な著書に『ピアニストの脳を科学する』、訳書に『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』。Neuropiano(写真:ソニーCSL)

――極めて明確な目標ですね。ではいったい、今何が起きていて、何が問題となっているのでしょうか。

古屋:ジストニアに関しては、国内はもとより海外からの問い合わせもかなり多く、しかも本人がそれを隠したがる傾向があります。ピアニストから「この指がおかしいのですが、何の曲だったら弾けますか」というような問い合わせに対して「この曲はだめ、この曲もだめ。この症状だったらこの曲にしておきなさい」といったアドバイスを行いますが、医者ではないので治療はしません。

治療を並行して行うことを前提に、2カ月後に予定されるコンサートのために症状が出ない方法を考えます。しかしこれは対策であって根源的な対処ではありません。

僕が学んだハノーファーの音大には学内にクリニックがあります。音楽家のための専門外来ですね。ドイツでは続々と増えてきていて、今ではほぼすべての音大にあります。生徒たちの健康維持が目的ですが、そのための授業(音楽生理学)もあって、学部生のうちは必修です。

そこでは、どんな練習の仕方をしたらどうなるとか、あがり症の人はどんなメンタルトレーニングをしたらいいのか。さらには、手が痛いという友達に、どのようなアドバイスをしたらよいかという試験問題もあります。

予防が大事

――すばらしい試みですね。日本にも同じようなシステムがあるといいのですが。

古屋:音楽家の場合は予防が大事なのです。そのための教育が大事で治療ではないのです。なぜかというと、練習をして痛みが出て、腱鞘炎の手術をしなければならなくなる。手術をして治ったとしても同じ弾き方をしていると再び腱鞘炎になる。その繰り返しです。

治療というのは対症療法。根治するためには根から絶たなければならないのです。それが僕のやっている“身体教育”です。“後手”に回らないためにちゃんと教育しなければならない。医者に行った時点ですでに後手に回っているのです。アメリカはこの分野においてヨーロッパより進んでいます。

僕が学んだハノーファーが進んでいるのは医学、つまり治療なので“後手”なのです。アメリカは予防の教育が進んでいます。つまり“先手”です。各音大で、演奏における身体の使い方や姿勢などをしっかりと教えてくれます。ところがドイツでは、体系的に姿勢を教える機会は限られています。

ーー大きな違いがあるわけですね。

古屋:ここからがポイントなのですが、僕がやりたいことは、ハノーファーとアメリカの研究の融合です。アメリカ式の“先手”はとても良いのですが、残念ながら音楽とのつながりがないのです。

いい姿勢やいい身体の使いかたを指導するので、ケガは予防できるのですが、その結果音がどう変わるのかということにつながっていかないのがアメリカの特徴です。さらに言えば、アメリカの教育はすごく進んでいますが、身体運動学の研究はされていません。身体教育ですね。なぜそれがいいのか、それによってどのように身体が変わるのかといった研究はなされていないのです。

どこがゴールかといえばそれは音楽です。どんな音色を出すか、どんな響きを出すか。そのあたりはヨーロッパのほうが進んでいます。というわけで、この表現においてはこの身体の使い方が必要ですという橋渡しをするのが僕の役目だと思っています。

表現の可能性はまだまだ残っている

――なるほど、その結果として何が待っているのでしょうか。

古屋:音楽における表現の可能性はまだまだ残っていると思うのです。そこを開拓したいという想いがあります。過去のすばらしいアーティストたちの演奏を聴くと、もうこれ以上の表現はできないのかなと思われがちです。たとえばホロヴィッツに勝てるピアニストはもう出てこないのでは、とかですね。

僕は出てくると思っています。それを邪魔しているものさえ取り除けば表現の世界に特化できる。それが進化して新しい音楽が出てくると信じているのです。


天王洲のスタインウェイ&サンズ東京で開催されたイベントの様子(写真:スタインウェイジャパン)

ーー身体の使い方が、その鍵を握るわけですね。

古屋:若いピアニストを見ていると、ものすごく音楽的に才能があるにもかかわらず、身体の使い方が適切でないと思われる方が時折見られます。そのせいで表現できないことがたくさんあり、場合によっては痛みが出ることもあります。その理由は本人も気がついていない指の使い方の問題だったりします。ところが、手全体のシステムを最適化することによって、今までできなかったことが一瞬でできるようになったりするのです。

時間をかけた反復練習ではまったくできなかったことが、わずか5分でできるようになります。練習量で超えられなかった壁がテクノロジーの力によって一瞬で超えられる。それを実現していくのが僕の研究です。そういった事例をいくつも見ていますし、当の本人たちもびっくりします。

いくらやってもできなかったことが、ここをこうすればできるようになる。それを教えてあげられるのがテクノロジーなのでしょう。それを目の当たりにした瞬間は僕自身も震えますね。そしてそれらの動きをすべて制御しているのが脳なのです。意識するということがスタートです。

スポーツ科学の世界では、体幹の強化や合理的な練習方法、さらには食事の研究などによって、より良い成果を上げる研究が進んでいて、実際に結果も伴っています。ところが、演奏の世界においてはまったく手付かずです。“演奏科学”という言葉も僕が作ったものですしね(笑)。

音楽を最適化するか、身体を最適化するか

――身体の問題を取り除けば、練習時間の大半を表現の練習につぎ込めます。その考え方が実践できれば、確かにピアニストのレベルは飛躍的に向上しますね。

古屋:同じようなことは、過去の大ピアニストたちの映像を見ても感じます。身体の使い方という意味では、アルトゥール・ルービンシュタインがいちばんきれいです。座っている姿勢からして違います。

一方、グレン・グールドの弾き姿にはいろいろ思うところがあります。彼は手首の神経症に悩まされていたわけです。もしグールドにアドバイスする機会が持てたとしたら、ずっと良くなっていたと思います。身体の使い方があんなに悪いのにあそこまでの演奏ができているのですから、もっとすごいことができたと思います。

姿勢の悪さも極めつきですが、彼はあの姿勢でなければ弾けないのかもしれません。そこを無理やり矯正するのは難しい問題です。悩ましいのは、悪い姿勢なのにすごくいい音が出ましたということや、姿勢を矯正して身体の痛みはなくなったけれど、いい音が出なくなってしまったという場合です。そうしたときにどっちを取るかというのはとても難しい問題です。音楽を最適化するか、身体を最適化するかですね。


「音楽が脳や身体にもたらす良い影響」や、「ピアノを学び演奏することがもたらすメリット」をテーマに白熱したイベント(写真:スタインウェイジャパン)

正しいメソッドを作ることが重要

――“脳科学の力がピアニストのレベルを押し上げる”という理屈が理解できました。そのために今必要なこととはいったいなんでしょうか。

古屋:日本においては、各音楽大学に僕が考えているような研究室が1つあるだけでよいと思います。ところが新たなことを導入することへのハードルは高く、なかなか実現できないのです。日本の音楽家は才能も感性もとても豊かだと思いますが、身体の使い方を最適にする余地は残されていると思います。なので20代後半で故障して僕のところに相談に来るのです。

残念なことに才能のある人は往々にして故障するまで聞く耳を持ちません。自分たちは才能があるしコンクールで入賞もしている。何か問題ある?といった感じの上から目線も時折(笑)。

そういう人たちも20代後半になって身体の不調で僕のところに来るわけです。いい弾き方や練習の仕方を教えていたのに習慣化できなかったのです。良い練習習慣をつけさせるのは本当に難しい。弊害は悪い癖が強化されるだけの反復練習です。ダルビッシュ投手が“練習は正しくやらなければ簡単に裏切られる”と言っていますが、これはとても本質的なことで、音楽家にも当てはまります。

その意味では正しいメソッドを作ることも重要です。先生たちが正しいメソッドや教育プログラムを作ってライセンスし、音大などで採用してもらうことがファーストステップかなと思います。

最終的には、ショパン・コンクールの優勝者といったピアノのスーパースターを日本から輩出することが目標です。さらには、ジストニアのない日本も作りたい。そうすれば多くの人々がそれを体験するために日本にやって来るようになると思います。

僕が目指していることの1つが、科学と音楽は相いれないという考えを取り除きたいということです。科学は先にくるものではないと思います。目的が先にくるものです。それを助けるお手伝いなら科学はたくさんできるはずです。それってすごくすてきなことだと思いませんか?