正しい絵画の「見方」とは?(写真:mimica/PIXTA)

絵の鑑賞はその前で思いを巡らすことが大事という。『感性は感動しない』を書いた多摩美術大学美術学部の椹木野衣教授にその理由を聞いた。

絵は好きなように見ればいい

──本と同じタイトルの、冒頭にあるエッセーが25校以上の大学入試で出題されましたね。

皮肉な話だ。なぜそれだけ多く採用されたのか。どのような理由なのかよくわからない。月刊誌の編集部がその試験問題を解く場を僕に与えてくれて、編集者が予備校の正解に基づき採点したら、50点近くにしかならなかった。受験テクニックに沿えばそういう正解が出てくるのだろうが、自分の書いた文章の問いにその程度しか答えられない。逆に筆者側が正解と言ってもそれに限らないわけだ。

──既存の美術ジャンルを破壊する批評スタイルで知られます。

美術は日本で学習科目の中に入っているが、絵を教育するのは難しい。算数や社会といった教科なら問いがあり答えがある。公式や事件の起きた年号での正解、不正解で点数化ができる。絵はそれがない。でも、学校教育に従って絵を考えると、正しい絵の見方があるのではないかと思ってしまう。

──正しい見方はないと。

絵は好きなように見ればいい。何か気になる、もうちょっと見たいなと思わせる絵こそ、その人にとって意味がある。世間で有名だったり、偉い先生が褒めていたり、あるいは美術の教科書に大きく出ていたりするのとは別のことだ。自分が気になった絵をひたすら見る。それに徹すればいい。見方に正しいも間違いも、よい見方も悪い見方もない。

──世の中的には違います。

美術館では、至高の名作とか、この絵を見ないと始まらない、とかいった「売り文句」を打つ傾向が強くなっている。どこも独立法人化して、採算を合わせないといけないし、入場者数を増やさないといけないからだ。だから本来、価値づけができないものに、手引きで価値づけをする。そういう見方に左右されないほうが本当の絵の楽しみ方に近づける。

──価値づけ?

批評は研究と違う。僕は大学にいて職業的には研究者でもあり、成果を学術論文によって発表することが仕事として課せられている。学術論文は客観性がないといけない。これにいちばん遠いのが美術の批評だ。論文の客観性とは真逆。自分が強い印象を持った絵が批評対象になる。印象をどのように言葉にして伝えるかで工夫をする。

美術館の音声ガイドは不必要

──批評家の立場なのですね。


椹木野衣(さわらぎ のい)/1962年生まれ。故郷の秩父で音楽と出合い、京都の同志社大学で哲学を学んだ「盆地主義者」。美術批評家として会田誠、村上隆、ヤノベケンジら、現在のアート界を牽引する才能を見抜き、発掘してきた。岡本太郎「芸術は爆発だ!」の精神的継承者。(撮影:吉濱篤志)

強い印象を持った絵について伝えるために、いろいろなレトリックを駆使して書く。

批評は文芸の一分野だ。文芸は自己表現だから、小説と詩と批評が文芸誌に載る。絵についてなら、その感想文が読む人の心を引き付けるかどうか。詩や小説と同じだ。今もう1つ評論というジャンルがあって、それは批評と論文の中間に当たる。

──批評は評論とは別物?

批評はまったくの主観。この絵はいいと思ったら、その事実はほかの誰にも否定できない。食べ物について、なぜおいしいのかを言葉にして、なるほどそういうことかと人を説得できれば批評になる。

書き方はどうしても主観的になる。批評は教育や学習で得られないから、各人が各人なりに、自分がいいと思ったものは絶対にいいものなのだと自信を持って書けばいい。一度いいと思った事実に間違いはないのだから、勘違いと方向転換せず、むしろいいと思ったのはなぜかを追究することだ。

──記憶や体験、生活が批評の「根」となるのですね。

ある絵をいいと思うのはその人が素の自分に帰るときだ。だから相性がある。なぜその絵がいいと思うのか。実は自分が過去に体験した出来事、出会った人とすり合わせて考えていたりする。記憶や体験は、その人そのものを作っていて誰も否定できない。それが絵の批評に反映する。

──美術館のオーディオガイドは無用とも。

美術館に行けば主要な絵には音声ガイドがついている。しかじかの歴史や背景があって、ここが見どころと紹介される。だが、これではその人なりの見方がカムフラージュされて、わからなくなってしまう。皆が同じ背景を理解し同じところに注目して、同じようなことを知ることにどれだけの意味があるのか。

絵は修行して見るようなものでもない。その人がその人としてあるがままに見ればいい。同じ筋道で感性をからめとられるのではなく、同じところに引っ張られないように自分の感性に基づき見る。同じ筋道に入ることはなく、どれがいいかはおのずとわかってくる。

もともと絵は個人が勝手に描いているもので、それに決まった「答え」などない。とにかく自分がいいと思ったらいい。人が共感しようがしまいがそれでいい。それが絶対なのだ。

うんちくを語っても人の心に伝わらない

──モダンアートについては。


批評家の腕がいちばん試されるのは、何ともわからない絵をいいものはいいと言えるかどうか。すでにいいといわれているものをいいと言うのは批評ではない。たまたま批評を書き始めた頃が、村上隆や会田誠などが20代前半のときに当たった。彼らの作品は今までのものと違う。自分が生きている時代を考えることにもなると。そこで価値が定まっていない絵を積極的に見ることで批評家として本筋に出合えた。

結局、批評、批評家は人となりなのだ。その人がなぜそういうものをいいと思うのか、背景がある。その価値観、たたずまい、人生の歩みが重要で、それが批評の読み手を納得させる。

──既存の知識でなく?

マニュアル化された見方は知識をひけらかすだけになりかねない。うんちくを語っても、どこかで聞きかじったようなものは人の心に伝わらない。過去にこんなことがあって、自分の今の感性につながっていると気づかされた。こういった見方のほうが人に伝わる。

先輩に当たる美術批評家に針生一郎、中原佑介といった面々がいる。彼らは専門が美術ではない。針生はドイツ文学、中原は京都大学の湯川秀樹研究室(素粒子物理学)だった。批評は英語でクリティーク。縁のことだ。ここから先に行くと落ちてしまうという。ぎりぎりのところで、いいか悪いか賭けみたいなことをつねにしているが、別の立ち位置から見たほうが、創造的な挑戦や飛躍ができるのかもしれない。