松代大本営地下壕。碁盤の目のように掘りぬかれた壕は総延長10キロにも及ぶ

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 第2次大戦末期、本土決戦を前に、天皇や皇后の御座所、軍司令部、中央官庁を長野県長野市松代地区の地下壕に移す計画があった。『松代大本営』だ。

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 その地下壕跡地がJR長野駅から車で約20分、上信越自動車道・長野ICのすぐそばにある。

 沖縄戦が始まると、最終決戦として、本土決戦が準備された。天皇を頂点とする国家体制の維持「国体護持」のため、沖縄を“捨て石”にして時間を稼ぎ、松代大本営の建設を急いだ。天皇制の象徴である“三種の神器”の保管場所を作る計画もあった。

 松代の地下壕は3か所で工事が進められていた。各省庁は「象山(ぞうざん)」、軍司令部は「皆神山(みなかみやま)」、御座所と参謀本部は「舞鶴山」だ。完成前に終戦を迎えたが、軍部の視察だと、75%程度が完成していたという。

 なぜ長野市松代地区が選ばれたのか。(1)東京から離れ、近くに飛行場がある、(2)地質的に硬い岩盤、(3)山に囲まれ、工事に都合のよい広さがある、(4)労働力が確保しやすい、(5)「信州」は「神州(しんしゅう)」に通じる、といった理由からだ。

加害と被害の両面を伝える

 大本営地下壕跡を調査し、語り継ぐ事業を行うNPO法人『松代大本営平和祈念館』の事務局長・北原高子さん(75)は、高校教員だった1980年代後半から活動に関わっている。

 皆神山地下壕は崩落が激しく非公開。舞鶴山地下壕は戦後すぐに気象庁が地震観測に活用、年1回だけ公開される。象山地下壕は地元の高校生の保存活動もあって、’90年から市が一部公開している。

 北原さんは言う。

「案内するときの3本柱があります。まずは、朝鮮人の強制労働です。加害の側面です」

 国家が国民に労働を強いることができる国民徴用令が出されたのは’39年7月。

 ’44年8月、朝鮮人への適用も閣議決定される。

 松代の工事が始まったのは’44年11月。約1万人が従事したが、このうち朝鮮人が7000人。内訳は3000人が「自由渡航」、4000人が「徴用」、いわゆる強制労働とみられている。

 工事は、先頭が鑿岩機(さくがんき)を使うが、自由渡航で来た朝鮮人技師が担当、ツルハシを使ったり、砕かれた岩石(ズリ)をモッコやトロッコを使ったりして外に運ぶ。そのなかに徴用の朝鮮人がいた。日本人は、外に近いほうで手伝ったとみられている。

「続いて、協力させられた地元の苦しみです。工事が始まると、家を撤去させられました」

 と北原さん。地域では養蚕業が主産業。仕事ができなくなると死活問題になるが、抵抗できなかった。

「3つ目は沖縄戦との関連です。松代を含む本土決戦の準備がありました。沖縄の犠牲と松代大本営は表裏一体です」(北原さん)

 証言者の掘り起こしも続けている。今年5月、旧制中学在学中に地下壕の掘削工事をした男性(87)の証言を聞いた。

 男性は中学2、3年のころは木曽の発電所建設工事に動員され、4年生の5月から舞鶴山地下壕の掘削工事で、ズリを外に運搬するのを手伝った。「何を、何のために作っているのかは知らなかった」と語った。

 こうした語り継ぎの活動は口コミで全国に広がり、修学旅行先としても選ばれている。今年5月だけで3926人、6月は2754人を案内した。上半期だけで9000人を超えた。

「(戦争遺跡の)地下壕に入れるところが減っているなか、市が保存し、無料で公開しているのはここだけ。朝鮮人の強制労働を見れば加害。本土決戦前の沖縄を見れば被害。人々が傷つけ合ったり、殺し合ったりするのは嫌です」

 そう話す北原さん自身、朗読劇『女たちのマツシロ』の台本を書いている。

「沖縄の情勢も変わるので、多少、内容を変えながら、20年間続けています。戦争を始めるとどうなるのかを知ってほしい」

 2013年8月、「看板問題」が起きた。

 市観光課が設置する、象山地下壕跡の説明板の「当時の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され……」という説明文の「強制的に」の箇所に白いガムテープが貼られた。市は「必ずしも強制的ではなかったなどの市民の声が寄せられた」という。

 一方、NPOは「説明は適切」と主張。地元紙でも社説で《戦争遺跡『加害』どう継承》と取り上げられた。

 結局、新しい案内板が取りつけられ、「強制的に」は残ったが、「と言われている」と断定の表現を避けた。また、「当時の関係資料が残されてない」などの一文がつけ足された。

「説明板の後半に《平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡》と書かれました。それは評価できますが意見は聞き入れられませんでした」(北原さん)

 こうしたなか、証言者、体験者、また、語り継ぐ担い手も高齢化してきている。祈念館も、まだ建設半ばだ。

「体験者の証言を高校の放送部が聞きに来たり、大学生がゼミ合宿で訪れたり、卒論で取り上げる学生もいます。しかし、盛んだった県内の高校生の活動が、最近では下火です。若い人たちに、松代のことをどう伝え、引き継いでいくのかが課題です」

今も残る過酷な強制労働の爪痕

 松本市里山辺(さとやまべ)地区には地下工場跡地がある。JR松本駅から車で約15分、長野自動車道から約20分。松本市内を流れる薄川(すすきがわ)沿いにある。民有地になっていて、一般公開はされていないが、調査活動する『松本強制労働調査団』のガイドで、地下壕に入れる。

 ’44年12月、紀伊半島沖を震源とする最大震度6の東南海地震が起きた。そのとき、名古屋市の三菱名古屋航空機製作所や発動機製作所も被害を受け、松本市へ工場疎開をする。

 松本市が選ばれたのは、名古屋から松代へ行く途中ということや、市内には飛行機関連の工場があったこと、地質が硬いこと、松本歩兵五十連隊や飛行場があったことも理由だ。

 工事が始まったのは’45年4月。里山辺地区(当時、里山辺村)や中山地区(中山村)には、地下工場や半地下工場を作り、ゼロ戦の後継機「烈風」などの部品製作と機体の組み立てをする計画だ。しかし、完成前に終戦となった。ガイドの平川豊志さんは言う。

「当時の村長は“半島人が7000人”と書いています。ただ、寄留簿では数百人とあり、実態はわかっていません」

 一方、地下工場がある山の反対側には中山の半地下工場跡があった。中国人が連行されてきていた。

「中山の場合は中国人が強制労働をさせられていたのですが、外務省が作成した名簿があり、503人がいて、7人が亡くなったことがわかっています」

 ちなみに、中国人の強制連行は、長野県は北海道についで2番目に多い。

 里山辺地下壕跡は40%の完成度。現在、入ることができるのは約1・2キロ。松代とは違って、観光用に整備されていない。足元は悪く、歩きにくい。

 ところどころに、明かりとして使っていたカンテラの煤(すす)で書かれた文字が目に入る。工事を請け負った「熊谷組」や、下請けの「山中」、測点からの距離が書かれている。ズリを運んだトロッコを動かすためのレールが一部残っている。

 松本でも後世に語り継ぐことが課題だが、調査団には信州大学の学生が関わる。医学部5年生の春日みわさん(23)は県内出身。「もともと沖縄の基地問題に関心がありました」と話す。しかし、戦争遺跡が県内にあることは最近まで知らなかった。

「その土地なりの戦争があることがわかりました。沖縄から戻って地元のことを知りたくなりました」

 里山辺の地下壕にはまだ入ったことがない。

「意識しないとあっという間に(記憶や証言が)消えてしまいます。意図的に掘り起こさないといけない。これから詳細を知りたいと思います」

 春日さんを調査団に紹介したのは医学部6年生の奥野衆士さん(24)だ。

「僕も1年生のときに先輩に紹介されました。調査団は’90年から活動していて、継続は力なりを体現しています。世代間継承もしていかないといけません」

 奥野さんは地下壕に入ったことがある。

「劣悪な環境で働かされていた人のこともそうですが、企業側の責任が問われたのか気になりました」

 奥野さんは卒業後、出身地の東京に戻るという。

「(里山辺の地下工場を知るまで)社会を知ったつもりでいました。これからは戦争や平和の問題に気がつくきっかけを作りたい」

 文化庁は、幕末から戦争末期までの近代遺跡を文化財として保存することを検討、調査した。しかし、報告書がまだ出ていない。戦争の記憶は今、伝え残そうとしなければ風化し、いつかは消えていく。加害の歴史を含めて、戦争遺跡を残すことが必要だ。

取材・文/渋井哲也

ジャーナリスト。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどについて取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)