新嵩喜八郎さん 撮影/伊藤和幸

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 那覇の札つきの不良から渋谷の夜の顔役に上りつめた男は、故郷・与那国島の海底で古代人の巨大な遺構を発見する。日本最西端、絶海の孤島を世界的に有名にした男の波瀾万丈の半生、残したい未来とは。

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 水深25メートル。海流の流れに身を任せて、ゆっくりとフィンを動かしていた新嵩(あらたけ)喜八郎(70)の目の前に切り立った階段状の岩山が現れた時、喜八郎は驚きのあまり思わず目を見張った。

 そこは与那国島の南端に位置する新川鼻と呼ばれる岬のすぐ下に見える浅瀬。与那国島の海のことなら知り尽くしていると思っていた喜八郎だが、両腕に鳥肌が立つのがわかった。

 気を取り直して岩山のまわりを走るループ状の石畳をゆっくりと進んでいくと、見事な階段状のピラミッドが姿を現した。上っていくと狭いテラス。さらにその奥の階段を上っていくと、ピラミッドの頂上には儀式でも行っていたかのような広大な一枚岩のテラスが広がっていた。

 しかも、そのテラスの左奥には竜宮伝説を思わせる石造りの亀のレリーフが2体。その北側には御神体を安置する巨大墓の一種、ドルメンらしき岩が姿を現した。

「透明度が高く青空のように澄んだ海に沈むその姿は、まるで空中から見たインカの遺跡のように見えました」

 ダイビングショップの仲間たちに箝口令(かんこうれい)を敷くと喜八郎は「遺跡ポイント」と名づけたその場所に繰り返し潜った。

 すると海底遺跡は最初に発見した高さ25メートルの階段状のピラミッドを中心に、東西に200メートル以上、南北に120メートルの威容を誇る壮大な海底遺跡であることがわかった。

「1986年に見つけた時は、まさかこんなに大きな遺跡だとは思いませんでしたが、そこには人が暮らした文明の息吹が確かに感じられました」

 日本最西端の島・与那国島は黒潮の潮流の真ん中に浮かぶ国境の島。カジキやカツオ、ハンマーヘッドシャークなどの大型回遊魚のパラダイスとして知られる。しかし周囲を断崖絶壁に囲まれ、波が荒く、海を渡るのに困難を極めたといわれる。

 そんなまるで国境に忘れ去られた島が’95年の元旦、が然、注目を集める。喜八郎が9年の歳月をかけて調べた海底遺跡の全貌が琉球新報をはじめさまざまな新聞の1面を飾ったのである。

 この世紀の発見が与那国島を「辺境の忘れ去られた島」から「最も楽園に近い神秘の島」へと変えた。このニュースはたちまち世界を駆け巡り、世界的なベストセラー『神々の指紋』で知られる作家グラハム・ハンコックや、映画『グラン・ブルー』で知られる著名なフリーダイバー、ジャック・マイヨールたちが島を訪れることで与那国島は世界の「ミステリー・パラダイス」として一躍、名乗りを上げる。

 海洋地質学を専門とする当時、琉球大学理学部の木村政昭教授は、

「石垣を切り出す際に用いる鉄の矢を打ち込む矢穴があることや、道路や階段、排水溝などがあることで、ひと目見た時から遺跡だと確信しました」

 しかしこの発見が、与那国島や新嵩喜八郎を巻き込み世界的な論争に発展していくとは、当の喜八郎は当時知るよしもなかった。

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 海底遺跡の第一発見者として知られる新嵩喜八郎が生まれたのは、1947年6月30日。日本本土が焦土と化していまだ立ち直れないでいたこのころ、最果ての島・与那国島は空前のバブル景気に沸いていた。与那国島を拠点に自由貿易が生まれ、米や砂糖といった食料品が台湾から流れ込み、その見返りに本土から日用雑貨、沖縄本島から米軍の横流れ品が持ち込まれ、与那国一の港・久部良港にはカジキを突く突船(つきせん)と呼ばれる漁船が物資を運ぶためにひしめき合っていた。

「久部良集落の大きめの家は、旅館や倉庫に模様替えされ、久部良の港には料亭や劇場、映画館が立ち並び、米軍流出の自家発電機のおかげで島中が不夜城と化したと聞いています。終戦後わずか3000人にすぎなかった人口が、あっという間に1万5000人に膨れ上がり、私が生まれた年に与那国は村から町に変わりました」

 まるで琉球王朝時代の繁栄を思わせるこの時期に、喜八郎の家も大きく躍進する。

「もともと祖父・林太郎が戦前カツオ漁で財を成し、船で台湾から鉄筋を運び事業を大きくしました。屋号は“セメン屋”、鉄筋コンクリートの家を島で最初に建てたのも、ウチだと聞いています」

 祖父・林太郎の跡を継いだ父・新一は、島を飛び出して、沖縄本島に渡った。

「おしゃれでハイカラだった父には、与那国島は狭すぎたのでしょう。島の先輩と沖縄で最初の理容学校・沖縄国際高等理容学校を設立しました。当時、理髪師は花形職業でしたから。教材の買い付けに東京にもよく行っていたようです」

 島に残された母・しげは、そんな父の留守を守り、小さな旅館「入船」を切り盛りしながら、2人の姉と喜八郎を育てた。

手のつけられないやんちゃ坊主

 与那国島で一番大きな集落である祖内で育った喜八郎は、幼いころから“やんちゃ坊主”で知られていた。遠くから水汲(く)みに来る大人たちの桶(おけ)に砂を入れて怒鳴られたことは1度や2度ではない。与那国小学校に上がってからも女の子の机を投げ飛ばして絞られた。近所の子どもたちを砂浜に埋めて泣かせたこともあった。そのたびに母・しげにひっぱたかれた。

「島の女性はみな働き者で気が強かった。中でも母は女手ひとつで子どもを育ててきたせいか、とびきり怖かった」

 そんな母の思い出で忘れられない出来事がある。

 それは喜八郎が同級生に、足の障害を馬鹿にされ、からかわれたことを知った時のことだった。烈火のごとく怒った母は、息子をからかった相手の家まで怒鳴り込み、喜八郎に両手をついて謝らせた。

「僕は3歳の時に注射が原因で軽い小児麻痺にかかり、左足が少し不自由でした。その足のことをからかわれると、母はいつも血相を変えて飛び出していきましたね」

 自分のせいで大事な息子の身体に障害を残してしまった。

 そんな自責の念が母・しげにはあったに違いない。

 喜八郎少年の与那国島での暮らしも小学6年で終わりを告げる。父・新一の考えで那覇の中学に進学することになったのである。

「与那国島には高校がありません。そのため島の子どもたちは、中学を卒業すると石垣島や沖縄本島に行かざるをえません。中には、子どもを高校・大学に行かせるために家族で引っ越していく者もいます。それが与那国島の過疎化の原因でもあるわけです」

 喜八郎は小学校の卒業式が終わった翌日、船速6ノットの貨物船に揺られ48時間かけて沖縄本島に渡った。

 アメリカ統治下の沖縄本島は、極東最大の米軍基地と呼ばれ、大規模な施設が次々に建てられ活気にあふれていた。

 喜八郎が進学した那覇中学も当時、ひとクラス60名で21組もあるマンモス校だった。

「ベビーブーム世代ということもありますが、街中が好景気に沸いていました。父は理容学校をするかたわら、理髪店や下宿屋を何軒も経営して羽振りがよさそうでしたね」

 父・新一の妹が切り盛りする下宿屋に落ち着くと、喜八郎は那覇中学の名門・吹奏楽部に籍を置きトランペットを吹くようになる。

「後に沖縄・西原高校のマーチングバンドを世界一に導いた大城政信先生の指導の下、沖縄交響楽団の指揮者になった糸数武博君や東京キューバンボーイズのメンバーになった国吉君もいて、那覇中の吹奏楽部はとてもレベルが高かった。中学2年の時には朝日新聞主催の西部吹奏楽コンクールに出場するため、鹿児島まで行ったことをよく覚えています」

 ところが、ここで喜八郎は事件を起こす。休みの日に訪れた桜島で、柿の木によじ登り柿を取って食べているところを見つかり、「沖縄の子はこんな子か」と叱責(しっせき)を受ける。

 たかが柿の実を取ったくらいでと思うかもしれないが、喜八郎の素行はこんなものではなかった。

「中学2年になったころから盛り場をうろつき、吹奏楽部の練習以外は、ろくに学校にも行っていませんでした」

 当時の沖縄は那覇派、コザ派、山原派といった愚連隊が徒党を組み抗争を繰り返していた。喜八郎はそうした悪い仲間とつるんでは問題を起こしていたのである。

「父は忙しく、私のことなどにかまっていられませんでしたから、もうやりたい放題でしたね」

 中学を卒業後、那覇を離れてコザにある中央高校へ進学したものの、そこでも揉(も)め事を起こし、高校を1年で退学。

 見かねた父・新一は、喜八郎を東京の叔母のところに預ける決心をする。

「今となっては父に感謝しています。もしあのまま沖縄に留まっていたら抗争に巻き込まれて死んでいたかもしれません。当時の沖縄は米軍基地がある関係で武器がたくさんありました。お金のない米兵が飲みに来て拳銃を置いていくような時代でしたから」

 12歳で母のもとを15歳で父のもとを去らねばならなかった喜八郎は、船と夜行列車を乗り継ぎ1日以上かけて東京にたどり着いた。東京駅まで迎えに来てくれたのが喜八郎にとっては東京の母ともいえる父・新一の妹・梅子だった。

客商売で頭角を現し、渋谷の顔役に

 喜八郎が進学したのは、東京都目黒区にある私立目黒高校。夜間部に入った喜八郎の素行は改まるわけもなく、お酒を飲んでは喧嘩をして警察の厄介になった。

「大森にあった叔母の家は運送会社の寮の隣にあって、そこの若い運転手たちとはさんざん喧嘩をしました。沖縄や島の悪口を言われると我慢ならない。今から考えると上京したばかりのころは島国根性の塊でしたから。そのたびに警察まで身元を引き受けに来てくれたのが叔母でした。叔母には迷惑のかけ通しでした」

 そんな息子の行状を聞きおよび心配した母は、親戚筋を頼って喜八郎をある店でアルバイトさせることにした。

 それが渋谷区宇田川町にある「白馬車」という名曲喫茶だった。

「あのころの宇田川町は、台湾料理の店『麗郷』をはじめ台湾の人がオーナーを務める店がたくさんありました。姉が台湾に嫁いでおり、その縁で『白馬車』のオーナーに頼み込んだようです。これ以上悪さをしないように監視する意味もあったんでしょうね」

 上京した翌年、夜間部から昼間部にかわった喜八郎は、学校が終わると「白馬車」で皿洗いのバイトを始めた。

「時給がよくてお金が面白いように貯まっていくので時々学校をサボって朝からバイトをさせてもらいました」

 人より2年遅れ、20歳で高校を卒業した喜八郎は、やがて「白馬車」の階下にある「スカラ館」というカウンターバーを任されるようになる。

 当時の渋谷はいまだ戦後の喧騒の中にあり、喧嘩ややくざ同士の抗争などさまざまなトラブルが渦巻いていた。当時の喜八郎を知る従兄弟であり、あのブルース・リーにも空手を教えた少林寺流拳行館空手道館長の久高正之空観さん(76)は、こう語る。

「喜八郎は男気があり、争い事が起きても逃げず、正々堂々と立ち向かっていく信頼のおける男として、渋谷では顔が売れていたようです」

 喜八郎も少林寺流拳行館空手道、五段。不自由な左足をかばうために特別にステッキ術を会得していたおかげで、危ない場面を何度も切り抜けることができたという。

 時代は高度成長の真っただ中、「スカラ館」を流行(はや)らせた喜八郎は、さらにもう1軒新宿の区役所通りにバンドを入れた本格的なサパークラブ「ピープル」をオープンさせた。

 この店も開店当初から流行り、喜八郎の叔父にあたる久高政棋(まさよし)夫妻の仲人で結婚式を挙げたのも、このころのことだった。

「娘の香葉が生まれた時の喜びは忘れられません。立川に家を買って落ち着こうと思いましたが店が忙しく、なかなか家族との時間が持てず、香葉が6歳の時に妻とは別れてしまいました。香葉も今では3人の子どもに恵まれ元気です。時々、孫の顔を見せに来てくれます」と、喜八郎は相好を崩す。喜八郎は結局、3回結婚をすることになるが、5人の孫に恵まれたことが何にもかえ難い幸せだったという。

 そのころ、喜八郎にはもうひとつ、人生を左右する大きな出会いがあった。それは海底遺跡を発見するきっかけとなるダイビングである。

ダイビングの師匠との出会い

 ダイビングを初めて教えてくれた師匠である川平昌直との出会いは、喜八郎がお店のかたわら、外車の並行輸入を手がけていた時代にさかのぼる。

 喜八郎自身も外車が大好きで、アメリカの高級車の先駆けといわれたキャデラックのエルドラドに乗っていたこともあった。

「那覇の有名な産婦人科の家に生まれた川平君は、桁外(けたはず)れのお坊っちゃまでした。彼の車には当時から冷蔵庫がついていて、休みになると真鶴半島の先端にある三ツ石海岸の石切場に行ってトコブシやサザエをとったりしながらダイビングを覚えました。この出会いがなければ、与那国島に帰ってもダイビングショップを始めることはなかったでしょうね」

 ということは世紀の大発見といわれた「海底遺跡」もいまだ発見されず、海深く眠っていたに違いない。

 喜八郎は高度成長の終焉(しゅうえん)とともに「スカラ館」「ピープル」を閉めると、故郷に帰る決心を固める。

「父は那覇で仕事をしているため帰ることができず、母も年をとり男は私ひとり。母は早く帰ってきて孫を欲しがっていました。そこで当時、付き合っていた2番目の妻となる女性と与那国島に帰ることにしたのです」

故郷のために何ができる?

 喜八郎が島に帰ったのは、’80年代初頭。バブルに向かって、景気も上向きになり、港の工事も始まっていた。そこで潜水士の資格を生かしてみずから港の海に潜った。その一方で、東京で成功を収めた客商売への未練も断ち切ることはできなかった。

「当時、石垣島はトンネル工事やダム工事で大勢の人たちが島に押し寄せていました。そこで東京から50人くらい女の子を呼び寄せ市役所の真向かいに本格的クラブをオープンさせました」

 それが「レストランシアター・クラブクィーン」である。

 その後もディスコやサパークラブなどを経営し、足掛け4年ほど石垣島と与那国島を行き来する生活を続けたが、1985年、3人目の妻となる恵子との結婚を機に石垣島を離れた。

「その年に祥子が生まれたことも大きなきっかけになりました。私も40歳を前に故郷のために何ができるか、子どもたちにどんな未来が残せるか真剣に考えました」

 与那国島に腰を据えた喜八郎は、母が切り盛りしてきた「旅館入船」を増改築してホテルにリニューアルさせると、与那国島で初めて本格的なダイビングショップ「サーウェス・ヨナグニ」もオープン。島の周辺をくまなく潜り「遺跡ポイント」をはじめ45か所に及ぶダイビングポイントを発見。大型回遊魚に会える島として与那国島にダイビングブームを起こした。

「与那国島の水中景観、透明度、魚の種類、どれをとっても世界一。こんな島が日本にあることを誇りに思っています。

 今では中国本土、香港からも与那国島を訪れるダイバーが後を絶ちません」

 そうした喜八郎の思いは、後輩たちにも受け継がれ、今では、100名以上のインストラクターが世界の海で活躍している。

 与那国島に帰ってから生まれた長男・正太郎(30)も今では喜八郎の右腕として働いている。

「正太郎は英語はもちろんのこと、台湾に留学していたので北京語も話せます。これからは与那国島がアジアの懸け橋になってほしいですね」

与那国に欠かせない存在に──

 海底遺跡の存在が琉球新報の1面を飾ると、1万年前に海底に没したムー大陸の一部ではないかという説が流れ、多くのマスコミ関係者や研究者たちが島を訪れた。

「2000年の大晦日から2001年の元旦にかけて行った『与那国世紀超えイベント』ではジャック・マイヨールをはじめ海底遺跡を愛する人たちが一堂に会してサンセットトークを行いました。“遺跡か自然地形か”をめぐる論争をきっかけに多くの人たちが島を訪れてくれました。そのことが何よりもありがたかったですね」

 発見から30年がたち、喜八郎は今まで撮りためてきた海底遺跡の写真を、古希を迎える今年、1冊の写真集『神々の棲む海』にまとめた。

「いろんな方々を案内しながら私なりに水中写真を撮りためてきました。遺跡かどうかはさておき与那国島の海の魅力を存分に味わってほしいですね」

 それは島の気象から海底の地形、生き物たちの生態まで知り尽くした喜八郎にしか撮れない写真ばかり。

 水中写真の第一人者で喜八郎の古くからの友人でもある中村征夫さん(72)は、この写真集についてこう語る。

「海底遺跡の発見は、とても運命的なものを感じます。神が新嵩さんを導いたとしか思えません。一躍、世界の新嵩喜八郎になり、国内外から著名人やダイバーが訪れましたが、素敵な奥さんといつも変わらず温かくもてなしてくれる。そして何より島のことを考え、見えないところで黙々と努力する姿が素晴らしい」

 喜八郎は島に帰ると与那国町観光協会を島の先輩たちと設立。長く会長も務めた。その中でも台湾・花蓮との姉妹都市交流は今年で35周年を迎えるという。

「姉が嫁いでいますが、与那国島と台湾は戦前からとても関係が深く、私たちは“兄弟島”だと思っています。人的な交流がきっかけとなり新しい仕事も生まれました。チャーター便で花蓮まで行かれるようになり、ますます交流が盛んになるといいですね」

 今年で28回を迎える「日本最西端与那国島国際カジキ釣り大会」も喜八郎が中心となって取り組んできた。

「第1回は今年お亡くなりになった松方弘樹さんを名誉会長に迎え、立ち上げました。東京や大阪からも参加する人たちがあり、30艇あまりが腕を競いました。料理人の苦瓜さんが4メートルを超えるカジキを毎年、丸焼きにしてくれるのも目玉のひとつ。カジキといえば与那国島と言われるようになりたいですね」

 島に帰って30有余年、日本最西端の与那国島にとって、喜八郎は欠かせない存在になりつつあるのかもしれない。

島の子にどんな未来を残せるか

 そうした喜八郎の長年の努力に報いようと、去年の10月から与那国町が文化財指定に向けて、学術的な評価を行う調査に着手した。

「まもなく結果がわかると思いますが、そのうえで国の指定史跡、世界遺産、ジオパークへの登録を検討していきたい。私自身も潜りましたが、個人的には遺跡に間違いないと確信しています。潮の流れの速いあの海域で、ああいった遺跡が残っていること自体が奇跡ですよ」

 と与那国町町長の外間守吉さん(67)は語る。

 喜八郎は去年、27年間関わってきた観光協会を退いた。

「石垣島には毎年120万人、竹富島にも100万人の観光客が押し寄せるのに、与那国島は年間4万人しか来ないのはなぜだと思いますか。すべてアクセスの問題。島自体も日本最西端だけでは人は来ません。与那国馬、海底遺跡のほかにも、休耕地を利用して長命草を使った薬草園作りや酪農など、島の外から来る人たちも受け入れてもっと活性化していくべきです」

 喜八郎の島に対する思いは今も熱い。

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 喜八郎には島の中でとても気に入った場所がある。それは東崎(あがりざき)近くにある見晴らしのいい岸壁。満月の夜、西崎に日が沈むと、黒潮が流れる東崎の海面から、満月が満天の星空に向かって昇る。

 その満月を喜八郎は島酒を満たした大きな杯に映して飲む。このひと時が何にもかえ難い、至福の時だという。

 みんなで杯を重ね、三線(さんしん)が『与那国小唄』を奏でるころには、宴もたけなわ。

 与那国島に戻ってきてから生まれた・祥子(32)、正太郎たちも歌い踊る。

「この子らに、どんな未来を残してあげられるか」

 喜八郎は、亡き父や祖父と同じ思いを胸に、杯を重ね、月に祈った。

※敬称略

取材・文/島右近

しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広く取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、史跡や古戦場、山城を旅する。『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。