鹿児島実・久保 克之名誉監督「己を知り、相手を知る。「ミス」をなくし「負けない」チームを作る 」【前編】
鹿児島実を全国区の名門に育て上げた久保 克之さんが2002年夏に監督を勇退し、今年で15年になる。勇退後は総監督、現在は名誉監督として母校のグラウンドに足を運びつつ、大会があるときはNHK鹿児島放送局の解説者として球場で球児たちを見守る。
35年間の監督生活で夏12回、春7回の甲子園に導いた。1974年夏には準々決勝で東海大相模(神奈川)を延長15回で破って4強入りしたのを皮切りに、96年春には鹿児島勢初の選抜優勝に輝いた。現在までのところ、鹿児島で唯一甲子園制覇を経験した指導者である。野球は「実に奥が深くて魅力的」と語る名伯楽は、試合前にどんなゲームプラン、戦術を立てていたのだろうか。
鹿児島実・久保 克之名誉監督
「己を知り、相手を知ることでしょうか。勝てるチームに必要なのはあらゆることを見極める力だと思います」
今回のテーマについて真っ先に思い浮かんだのがこの言葉だった。試合に勝つためにはまず自分のチームを鍛え、その上で対戦相手に関する情報を集め、それに対応する戦術を考える。今は野球関連の情報は新聞、雑誌、インターネットなどで氾濫しており、相手の試合をビデオで撮影して分析することは上を目指すチームなら当たり前にやる時代だが、久保さんが監督を始めた70年代は対戦相手に関する情報は極端に少なかった。
指導者として初めて甲子園の土を踏んだのは72年春だが「この頃は、対外試合の解禁も甲子園からだったので、練習試合もしないで臨みました」。対戦相手は[team]取手一[/team](茨城)。この時点では夏2回の甲子園出場経験がある「先輩」だったが3対0で完封勝ちできた。勝因は「エース吉丸が良い投球をしてくれたこと」と「勝てる練習を積んだ」自負だった。
このときのエース吉丸 時典は168センチ、60キロの小柄な左腕だったが「けん制球がうまくて、ピンチを何度か救ってくれた。バッテリーの配球が実に見事だった」。野手出身で30代の青年監督だった久保さんには、まだけん制や配球術なども含めた投手育成法を確立できていなかったが、吉丸は「当時、鹿児島にあった社会人チームの鹿児島鉄道管理局の人が『今すぐうちに欲しい』」といったほどの投球術を持っていた。
74年夏ベスト4の定岡 正二(元巨人)、96年春優勝の下窪 陽介(元横浜)、98年夏にノーヒットノーランを達成した杉内 俊哉(巨人)…こののち鹿児島実から多くの記録、記憶に残る名投手が誕生したが、「甲子園で勝つためには、まず良い投手を育てなければならない」と考える原点になったのが72年の吉丸だった。
相手に勝つためには何より「勝てる練習を積む」ことを説く。己を知り、磨くためにも日々の練習が第一である。では「勝てる練習」とは何だろうか?
「難しいですねぇ〜」。甲子園優勝経験のある久保さんでも「こうすれば勝てる」という明確な方法論はなかなか語れない。ただ長年、様々な試行錯誤を繰り返して経験を積み重ねた中で「負けないために、ミスをなくすこと」を練習では徹底してこだわってきたことだけは言い切れる。
著書「鹿実野球と久保克之」(南方新社)でも「勝つための方程式・哲学」として紹介されているのが「E・B・B・R、4つのミスを1つでも減らすこと」である。「ミスはエラー(E)を思い浮かべる人が多いですが、エラーだけじゃないんですよ」。守備面では投手の四死球(B)も、数多くの敗因として挙がってくる。攻撃ではバント(B)失敗とランナー(R)の走塁ミスが、最も攻撃のリズムを狂わせる。日々の練習では個々の能力の向上とともに、これらのミスをしない訓練の繰り返しだった。
鹿児島実の練習の「厳しさ」は全国でも屈指だろう。中でも久保さんの「厳しさ」を象徴するエピソードは枚挙にいとまがない。甲子園初出場を果たした72年春のチームで主将だった下川 洋一さんは「バック!」というノック中の久保さんの言葉が脳裏に刻まれている。ノック中、闘志を見せないプレー、覇気のないプレーをしようものなら「バック!」の一言で久保さんのところに集まり、説教が始まる。「遠くにいても目が光っているのが分かりました」と還暦を過ぎた下川さんも恐れおののくほどのエネルギーがあった。
練習はいうにおよばず、寮での日常生活、県大会などかねてはほとんど笑顔を見せたことがない久保さんだったが、唯一笑顔でいたのが甲子園のベンチだったことも、多くの教え子たちが証言している。「大舞台で緊張するはずなのに、監督さんの態度や言葉を聞いていると、落ち着いていつも通りのプレーができた」と[player]宮下 正一[/player]・現監督は言う。「練習は厳しく、複雑に、難しく。試合は簡単に、明瞭にやるということです」と久保さん。「負けてもいいのならいくらでも甘くできる。でも勝とうと思ったら厳しさが必要なんです」。
転機の74年鹿児島実・久保 克之名誉監督久保さんが長年監督をする中で、勝つために相手対策の重要性を初めて強烈に意識したのが74年夏、堂園 喜義を擁する鹿児島商戦だった。
アンダースローでありながら最速140キロは出ていたであろう直球と大きなカーブを持っていた堂園は、1年夏から名門・鹿児島商のエース番号を背負い、1年夏と3年春の2度甲子園を経験している。鹿児島実にはのちに甲子園のスターになって巨人入りする定岡 正二がいたが、「投手としての経験と実績は堂園君の方が圧倒的に上でした」。ちなみにこの年のドラフトで堂園は広島の、定岡は巨人の1位指名を受けており、鹿児島の高校生2人がドラフト1位指名された年だった。
堂園を攻略しなければ鹿児島実の甲子園はないと考えていた久保さんが思いついた戦法が「バスター打法」だった。右下手から浮き上がってくる堂園の直球に対抗するために、バントの構えからバットを引き、上から叩くコンパクトなスイングを心掛ける。「当時は『バスター』という言い方もなかったので『プッシュ打法』と我々は呼んでいました」。この打法は対・堂園用の秘策として夏の初戦から準決勝までは使わなかった。
満を持して迎えた決勝戦は6回まで両者ゼロ行進が続き、7回に無死一、二塁から堂園のバット処理悪送球、センター犠牲フライ、無安打で挙げた2点が決勝点になり、見事な完封勝ちだった。「プッシュ打法」で得点を挙げたわけではないが、この打法が堂園の動揺を誘ったのは間違いなく「制球の良い堂園君のボールが、右打者の背中を通ることもあった」という。プッシュ打法で好投手を揺さぶり、バントはきっちり決めて勝機を確実にものにして、定岡を中心に守り抜く。事前に描いたゲームプラン、戦術通りの会心の勝利だった。
この試合で堂園を攻略した経験は、この夏の甲子園準々決勝で東海大相模との球史に残る一戦の伏線にもなった。優勝候補の最右翼であり、原貢監督の息子で巨人のスター選手となる原 辰徳ら実力、実績のある選手を擁する東海大相模に対して、前評判では「巨大戦艦と錦江湾の小舟」(定岡)ほどの差があった。だが、東海大相模の先発・伊東 義喜は堂園と同じ右アンダースローであり「堂園を攻略した自分たちならやれる」という自信を持って試合に臨むことができた。定岡が尻上がりに調子を上げて東海大相模の強力打線を抑え、延長15回、3時間38分の熱戦の末、5対4で競り勝った。
この一戦は当時無名の鹿児島実が優勝候補の東海大相模を下した「番狂わせ」だけにとどまらない「波及効果」があった。第4試合でテレビ中継時間内に試合が終わらず、全国から抗議が殺到したことを受けて、NHKは翌年から全試合の完全中継に踏み切ることになった。鹿児島実が県勢初の4強入りを果たしたことで、枦山 智博監督率いる鹿児島商工(現樟南)、小鷹 英雄監督、塩瀬 重輝監督率いる鹿児島商、県内でしのぎを削っていたライバルたちが「鹿実がやれたのなら自分たちも」と全国で勝つ野球を目指すターニングポイントになった一戦だった。
(取材・文=政 純一郎)
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