小宮良之のブラジ蹴球紀行(19)

 ポゼッションか、カウンターか。

 言うまでもないが、フットボールはその二極化で論じるべきではない。カウンターを真っ向から否定するのはもってのほかだろう。それは戦い方の選択であり、そこに質の高さがあるかどうか、が問われるべきことのはずだ。

 戦い方についての議論は結局のところ、「選手ありき」でなされるべきなのだろう。

 フットボール王国、ブラジルでさえも今回のW杯では選手のキャラクターに応じたチームを作るしかなかった。

 最近のブラジルフットボール界には、中盤で"汚い仕事"のできる選手や最終ラインで安心して見られる屈強な選手は多い。一方で、欧州のトップレベルで名声を高めるストライカーや攻撃的MFは以前のように輩出されなくなっている。フレッジ、ジョーは国内組FW。ロナウジーニョ、カカ、ロビーニョは"過去の選手"という感が強く、落選した若手のコウチーニョはようやく欧州のプレイにフィットしてきたに過ぎない。

 ――ブラジルといえばスペクタクルなフットボールです。その意味では、ブラジルらしくないチームと言えますね?

 大会中、そう問われたセレソンのフェリペ・スコラーリ監督は簡潔にこう答えていた。

「フットボールにはまず秩序が必要だ」

 事実、今回のセレソンの強さは秩序にあった。それは相手を待ち構えているとき、如実に表れた。FW、MF、DFの選手は距離感が良いだけでなく、おのおのがサポートするときの領域の広さとチャレンジのときのインテンシティの強さが抜群だった。敵ボールに襲いかかるとき、まるで肉食動物の群れが狩りをしているように見えた。その秩序に加え、ネイマールという絶対的なアタッカーを融合させたセレソンは強かった。

 しかし、ブラジルは準決勝でドイツのポゼッションフットボールに1−7と叩きのめされている。コロンビア戦の負傷でネイマールを欠いたとき、何も打つ手がなかった。その不運は言い換えれば、秩序だけでは勝てない、ということか。

「ブラジルらしいスペクタクルなフットボールへの背徳」
「ペレ、ジーコの時代に回帰を!」
「伝統的なナンバー10の不在が敗因だ」

 準決勝敗退後、セレソンは批判を浴びている。

 それらはどれも一理はあるが、フットボールは指揮官が選手の特徴を見極めて、どのスタイルで戦うか、を決断するしかない。ポゼッションであれ、カウンターであれ、その質が問われるのだ。その点、スコラーリのセレソンは優れていたが、ネイマールというピースがいなくなったとき、秩序は瓦解した。

「選手を選んだ私にすべての責任がある」

 スコラーリは淡々と語ったが、まさしく彼が大会の戦犯なのだろう。

 秩序に優れた選手たちは、身体能力や戦闘力に特長があったが、想像力や技術力は限定的だった。攻勢に出ようとすればするほど、肝心の秩序を失っていったのである。ドイツ戦の大敗による心理的影響も大きかったが、3位決定戦のオランダ戦は先制点を許した後に攻める意識が過剰になって攻守の均衡を失い、感情に流された危険なファウルを連発し、得点より失点の可能性が濃厚に匂い続けた。

 無秩序なチームは凡庸な集団に成り下がった。

 口ひげと鼻の大きさに特徴のある指揮官は、「選手ありき」で考え抜き、自信を持ってセレソンを作り上げたはずだ。彼はモウリーニョ(チェルシー監督)、ラニエリ(前モナコ監督)らと同じく、守備をベースにしたカウンター戦術の信奉者だが、攻撃的な選手を忌み嫌ってはない。その証拠に、ポルトガル代表監督時代には、フィーゴ、ルイ・コスタ、デコ、C・ロナウドを共存させている。

「ネイマールの代わりはいない」

 スコラーリは、フットボール界を明るくする特別な選手を中心にする決断を下したのだろう。それは一つの賭けと言えた。ネイマールの代役はベルナール、もしくはウィリアンだったが、彼らは"非常灯"だった。

 どんな選手がいるか。

 フットボールにおいて、それはプレイスタイルを決定する。勝つこともあれば、負けることもあるだろう。勝負の行方は見えない。セレソンが2試合続けて無残な姿をさらすこともある。ブラジルW杯はその醍醐味を与えてくれた点で、とても贅沢な大会だった。

小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki