ウシオ電機社長 菅田史朗(すがた・しろう)1949年、兵庫県生まれ。72年京都大学理学部卒業、ウシオ電機入社。85年播磨工場ハロゲン技術部長代行、94年技術研究所所長、2000年取締役上席執行役員、01年ランプ第二事業部長、04年代表取締役専務執行役員。05年より現職。

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■技術屋から秘書に想定外の「飛躍」

1995年4月、東京・丸の内の日本工業倶楽部のビル内にある経済同友会事務局へ、出向した。ウシオ電機の創業者で会長を務める牛尾治朗氏が、同友会の代表幹事に就任して、その秘書となった。

牛尾同友会は、バブル崩壊後の日本経済の立て直しに、官主導から民主導の経済へ構造改革することを打ち出し、規制緩和と市場開放を二本柱に掲げた。国際面では、世界貿易機関(WTO)を軸とした自由貿易の促進と、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の発展を目指す。

代表幹事は、様々な場で講演し、提言を唱える。その原稿の下書きを重ねながら、視野と人脈を広げていく。72年春に京大理学部を卒業して入社、以来、ほぼ一貫して歩んできた新技術や新商品の開発という技術者の世界から、大きく飛び出す経験だ。45歳のときだった。

なぜ、自分が同友会へ出向したのかは、わからなかった。前号で触れたドイツ勤務から93年暮れに帰国し、東京・浜松町にあるランプ本部の主席技師となり、新製品の開発に東京と姫路市の播磨工場を行き来する。翌年3月には、播磨の技術研究所の所長に就任し、技術開発部門のトップになっていた。

30代が終わるまで「自ら製品を設計し、生産ラインを立ち上げて商品化する」という仕事が続いた。入社直後には横浜事業所の商品部で、米企業から技術導入した電卓の表示盤のような「多桁表示管」の開発に参加。東京・上野の生産委託先へ出向いて、「モノづくり」の現場も体験した。カメラのストロボ用電子回路の設計をやり、やはり生産委託先で、組み立ての指導もした。

【1】(http://president.jp/articles/-/11153)で触れたボウリング場を利用した体感型「レーザークレー射撃ゲーム」では、現地で機器の設置やお客さんの指導役も務めた。よくあることだが、いずれも、大学で学んだ「光の物性」とは、全く関係のない仕事だった。

だが、「転進」は、気がつかないうちに、始まっていた。例えば、研究所長になって立ち上げたプロジェクト。液晶のガラスの表面に付く有機化合物の汚れを、光で洗浄するエキシマランプの開発だ。以前なら、自分で設計図を書き、試作品をテストしたが、それは部下に任せ、プロジェクトの立ち上げと進行を管理した。開発は成功し、エキシマランプは大きく開花して、いまや収益の1つの柱となっている。

光造形装置の開発でも同様だ。いまで言う3Dプリンターのような製品で、30代初めに手がけたヘリウム-ネオンレーザーの技術が別の技術者によって発展し、その応用から生まれた。ここでも、もう「自ら形にする」役ではなく、「会社の明日を支える」という立場への移行が、進んでいた。

播磨工場や研究所には、神戸市にあった実家から通勤した。ドイツ駐在の間に祖母と両親の3人が亡くなっていて、単身生活だ。そこで、阪神・淡路大震災に遭遇し、家は大きく損傷する。ほどなく牛尾氏から電話が入り、「家が被害を受け、住むところもないらしいね。もう1度、東京へ来いよ」と言われた。同友会代表幹事秘書への内示だった。

2年間、ずっと工業倶楽部のビルに詰めて、大手町の本社にはいかない。牛尾氏は、原稿を書いてもそのままは使わず、大きく筆を入れる。その直した部分からも、いろいろと学んだ。いま思えば、意図的に秘書をさせた、という気もする。

というのは、40歳のころに、牛尾氏に尋ねられたことがある。その後、もう1度聞かれたが、「きみは、技術的なバックグラウンドのある経営者になりたいか、それとも全社のことがわかる技術幹部になりたいと思うか、どっちだ」との質問だ。「技術がバックグラウンドにある経営者になりたい」と答えた。これが「転進」の始まりだったのかもしれない。海外経験もないのに、ドイツで買収した会社に赴任したのも、その一歩だったのだろう。

「世有伯楽、然後有千里馬」(世に伯楽有り、然る後、千里の馬有り)――世の中に馬の良否を見分ける名人がいてこそ、その人に見いだされて千里を走る名馬が出てくるとの意味で、中国・南宋時代の謝枋得(しゃぼうとく)の撰による『文章軌範』に収められている言葉。認める人がいなければ、才能を有する人物も世に出てくることはできないとの指摘だ。物理学科の出身者に、経営者としての可能性を感じ取った会長と、経営者への道を率直に希望した菅田流との接点に、それは重なる。

■「心の垣根」が新商品の芽を摘む

同友会には2年近くいた。代表幹事の2期目(1期2年)は後任に任せ、社長室長に戻って、国内外での合併・買収(M&A)を担当する。続いて事業開発室長兼新市場開発部長となり、新規事業の具体化を進めた。「会社の明日のために」の色彩が、さらに鮮明になっていく。

2005年3月、社長になったときに、若い社員たちに「新しい仕事をやるときに、いままでの仕事は、この仕事のためにあったのだと思った。ずっと、そう思って、やってきた」と話した。本当に、何度も、そんな場面に遭遇したからだ。

ドイツでの仕事も、そうだ。主力製品は、反射鏡とランプをくっ付けた商品。20代の終わりに、登場したばかりの8ビットマイコンを使って、8ミリ映写機の光源にするハロゲンランプと反射鏡の位置を自動的に合わせるプログラムをつくった。反射鏡の焦点の位置に、ランプをきちんと固定しないと、きれいな像が映せない。それまでは、8ミリの映像をみながら、自前でつくった道具を使って位置合わせをやり、セメントで固定していた。その位置合わせの構造が、偶然とはいえ、ドイツで要求されたものと全く同じだった。

いままでやってきたことが、次の職務の下地になるためには、どんな新しいことにも、常に心の垣根を低くしていなければならない。メーカーにとって最も大切なことは、強い商品の芽をいち早くみつけ、大きく育て、顧客を満足させるとともに、確実な利益を上げることだ。それには、どんな対象でも素直に取り込んで、冷静に評価することから始めなければいけない。こちらは、取締役に選ばれた直後に社内報に書いた。

心の垣根を低くすることは、高校時代に出会った本に「これからは光技術だ」とあり、なるほどと思ったときに始まる。以来、専門的で難解な本よりも、読みやすい概論書を多く手にしてきた。そのほうが、自分の得意な分野でなくても、少しは頭に入る。何かのとき、そのことに出会っても、「初対面」ではないからスッと入っていきやすい。やはり、何でも食わず嫌いはやめて、1度は食べてみたほうがいい。

入社以来、多様な経験を積ませてもらったなかで、これらのことを、確信した。どこかで、「世有伯楽」がみていてくれた結果だろう。

ことし4月、経済同友会の副代表幹事に就いた。代表幹事の秘書時代に、会社を離れた位置からの発信に
「経済人の責任とは、こういうことか」と知った。話でも原稿でも、簡潔に、要点を伝えることの大切さも学んだ。

牛尾流は、結論だけを言い、あまり説明はしない。それで「どう思うか、答えを出せ」と迫られた。「これは、違うな。放っておくと危ないから、言わざるを得ない」と思えば「それは、違うような気がします。こうではないですか」と指摘したこともある。そんなとき、「決めたのだ、もう言うな」と打ち切られはしても、「黙れ」とか「うるさい」と叱られたことは、1度もない。

自分もそうなるか、どうするか。誰かにとっての「世有伯楽」と、なれるのか。最近、同友会時代に力を合わせて仕事をした後輩が「菅田さんも、結論から言えという流儀が出てきた。どうも、社風になったようだ」と笑って言った。

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)