現在は、水泳の指導からJOCの事業広報委員、環境アンバサダー、更には、テレビや各種メディアでコメンテーターとしても活躍する岩崎恭子さん (C)livedoorSPORTS

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1992年、バルセロナ五輪。競泳女子200m平泳ぎに日本中が奮い立った。

岩崎恭子が打ち立てた金字塔。14歳と6日での夏季五輪金メダル獲得は、日本人選手としての最年少獲得記録でもあった。

「オリンピックの合宿なんて毎日、泣きながら泳いでいました」。そう語る岩崎にとっては、過酷な練習、その果てに辿り着いた栄光となる筈だった。

しかし、皮肉なもので、その偉業こそが14歳の少女の人生を大きく変えてしまう。大会翌日から、日本で“岩崎恭子“の名を知らない者はいなくなり、お転婆で負けず嫌い、天真爛漫な少女は、いつしか、周囲の目を気にして、発言一つをとっても自由にはできない窮屈で息苦しい毎日を過ごすようになってしまう。

苦悩と葛藤の日々は、マスコミの煽りや国民の過剰な期待を加え、4年後のアトランタ五輪まで続くことになるのだが、岩崎は、この時を「人生を歩む工程として、凄く意味のあること」と、振り返ってくれた。

現在は、日本オリンピック委員会の事業広報委員や環境アンバサダー、水泳の指導員として活躍、多忙ながらも充実した毎日を送っているという岩崎に聞いた、バルセロナの真実とアトランタの転機。金メダルがもたらした光と影、幸せの意味とは何だったのか?

――今もバルセロナ・オリンピックでの金メダル獲得の瞬間が人々の心に刻み込まれている岩崎恭子さんですが、あれから16年が経過した現在、どのような毎日を過ごされているのですか。

「水泳の楽しさを伝える活動が中心ですね。イベントの出演や水泳レッスンなど。また、日本水泳連盟で競泳委員という競技の日程を決めたり、代表のスケジュールをきめる委員会があるのですが、そこで元選手の立場として意見を言ったりしています。あと、日本オリンピック委員会の事業広報委員と環境アンバサダーという仕事に就いています」

――環境アンバサダーですか……。

「今、自然環境の悪化について色々な問題が起こっていますが、オリンピック委員会でも大会が行われたときにゴミの分別を選手が呼びかけるなど環境問題を解決するために活動しています。日本全国を回って、説明しています」

――全国、どこを回っても、岩崎さんではなく恭子ちゃんという風に言葉を掛けられるのではないですか。正直、インタビューをしている自分でも、思わず恭子ちゃんと話しかけてしまいそうになるくらい、日本人にとって身近な存在なんですよ。

「そうやって、呼んでいただいていいですよ(笑)。初めて会う方々でも、バルセロナのときに私よりも年長だった方は、覚えていてくださるので」

――バルセロナ・オリンピックは、バルブ経済が終わったあと、日本に元気がなくなっていた時期、将来に初めて暗い影が立ちのぼってきた頃に行われたので、社会人になっていた者にとっては、岩崎さんの金メダルで凄く元気をもらったので、それはもう忘れることはできないですよ。

「そうなんですか(笑)そう言って頂けると嬉しいです。」

――私も実は小学生時代に某スイミング・スクールに通っていたのですが、水泳という身近なスポーツに身を投じていても、全くオリンピックなんていうステージを意識できるような小学生ではありませんでした。中学2年生で金メダルと取っている岩崎さんにとって、当時からオリンピックを身近に感じていたのですか。

「全く、そんなことなかったです。鈴木大地さんが金メダルをとったソウル・オリンピックが小学校4年生のときで、その年がちょうどジュニア・オリンピックという小学生が参加するなかでは、一番大きな大会に初めて出場した年でした。もともと、私は街に一つしかないのどかなスイミング・スクールで育ったのですが、そこで一番良い選手が姉だったんです。3歳上の姉ができるんだからって、無意識のうちに目標になっていました」