今年4月にオープンした東京・渋谷「エリックサウスマサラダイナー」のマサラダイナーミールス。南インドのいわゆる定食だ(撮影:今井康一)

よく見慣れた光景も、「カレー」というフィルターを通すことで、別の世界が見えてくる。同一ジャンルのカレー店が目につく街、本業の裏でひそかに“カレー活動”する人、局地的に巻き起こるカレーの新潮流。そうした、カレー目線からこそ見える異世界=「カレー経済圏」を訪れる本連載。
 
今回スポットを当てたのは「南インド料理」。日本では圧倒的に主流である北インド系のカレーに比べるとまだマニアックな存在だが、ここ数年、東京を中心に専門店の数が大幅に増えている。はたしてその真の理由は何なのか。取材を進めてみたところ、予想外の要因にいきあたった。

5軒だけだった専門店が今や60軒に

個人的に集計したところ、現在、東京には南インド料理店が約60軒ある。食べログ掲載店をベースに考えると、インド料理店自体は東京に1500軒ほどあるので、割合でいえば南インド料理店はその4%程度にすぎない。しかし増加率は目覚ましいものがある。


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2005年ごろにはまだ都内の南インド料理店は5軒ほどしかなかったといわれるので、13年で10倍ほどに増えたことになる。特に今年は、銀座「バンゲラズキッチン」や大山「ヤジニ」など注目の南インド料理店が立て続けにオープンし、その勢いは加速しているように見える。

象徴的なのが、4月にオープンした渋谷の大型南インド料理店「エリックサウスマサラダイナー」だ。これまで渋谷には本格的な南インド料理店がなく、マニア向きな南インド料理店は渋谷には合わないともいわれてきただけに、「そんな渋谷に、ついに南インド料理店ができた。それも大型店舗で」というニュースは、時代の流れを感じさせるものがあった。


ミールスなど王道の南インド料理に加え、フレンチなどさまざまな要素と技法を取り入れたモダンインディアン料理も提供する(撮影:今井康一)

そんな南インド料理の名物メニューといえるのが「ミールス」だ。ターリー皿(丸い大きなステンレス皿)の中央にライスが盛られ、その周りを何種類ものカレーや付け合わせ料理がところせましと並ぶ。まずはそれぞれのカレーを単品でライスにかけて味を確かめ、その後は思い思いのカレーをライスの上で混ぜ合わせてハーモニーを楽しむ。


マサラダイナーミールス (1620円)。ずらりと並ぶ小皿のうち「サンバル」「ラッサム」とライスがお代わり自由だ(撮影:今井康一)

口当たりは、エッジーなスパイス感と鋭い辛味を伴いつつも、基本的にあっさりサラサラしていて、不思議なほどライスが進む。一部の基本カレーとライスがお代わり自由なことが多いのもうれしい。ターリー皿ではなく、バナナの葉の上に料理が盛られる場合もある。

日本人の感覚からするとかなり特異な南インド料理店が、なぜこれほど増えているのか? 前述の「エリックサウスマサラダイナー」を運営する株式会社円相フードサービスの稲田俊輔専務に尋ねたところ、意外な答えが返ってきた。

円相フードサービスは、2011年に東京・八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」をオープン。その後も系列店を各所に開き、南インド料理文化を広める一翼を担ってきた。その中心にいるのが、エリックサウスプロジェクトの企画と全メニューの開発を手がけてきた稲田氏だ。同氏がまず指摘したのが、南インドだけでなく、南アジア料理自体が注目されているという点である。

「たとえばスリランカ料理、ネパール料理、パキスタン料理、ベンガル料理など、さまざまな南アジア料理が近年盛り上がっています。そのトレンドの中心に南インド料理があるという構図です」(稲田氏) 

インスタで「傍流」カレーの情報入りやすく

南アジアとは、上記の国々が位置するいわゆるインド半島を指し、「インド亜大陸」とも呼ばれる。こうした料理の盛り上がりは、日本で圧倒的主流の「ナン+バターチキン」といった北インド系のカレーの様式へのカウンター意識も後押ししているだろう。

SNSのおかげで非主流のカレー情報を手に入れやすくなっていることも大きい。特にカレー好きの間ではインスタグラムの存在が大きく、情報はとても早く伝わる。加えてSNS上では、ものめずらしいカレーの情報が重宝される傾向があり、そこを目指す人も自然と多くなる。

ではその中でも、特に南インド料理が注目されているのはなぜか。まず考えられるのが、料理そのものの特徴だ。南インド料理は一般的に油の量が少なく、食材は野菜が中心で、比較的低カロリー。そして米が主食でごはんに合う料理が多い。ヘルシーで意外にも日本人の食感覚に合いやすいのだ。

ところが前述の稲田氏は、そうした説明は半分正しく、半分は間違いだという。

「実はそうした特徴は、スリランカ料理やネパール料理、ベンガル料理などにも当てはまります。だからそれだけだと、『なぜ南インド料理か』の理由には十分でないんです」(稲田氏) 

はたして南インド料理がほかのインド亜大陸料理より注目度が高まったのはなぜなのか。稲田氏が最大の理由として挙げたのは、意外にも“言葉の力”だった。

食体験は物語の有無で大きく変わる

「実は南インド料理店がまだ日本にほとんどない時代に、南インド料理の魅力をいち早く言語化した人がいたんです。料理研究家の渡辺玲さんです。渡辺さんが日本人には決してとっつきやすくない南インド料理の特徴を魅力的に言語化し、それが脈々と世に伝えられていった。早くから魅力がきちんと言葉にされていたかどうかが、南インド料理とほかのインド亜大陸料理の一番の違いだと思います」(稲田氏)


エリックサウスプロジェクトの企画と全メニューの開発を手掛けてきた稲田氏(撮影:今井康一)

渡辺玲氏は、クッキングスタジオ「サザンスパイス」を運営する料理家で、南インド料理が日本でほとんど知られていない時代から『誰も知らないインド料理』(1997)、『ごちそうはバナナの葉の上に――南インド菜食料理紀行』(1999)、『カレーな薬膳』(2003)など南インド料理を紹介する著書を出していた。

確かに、“伝道師”の存在は大きいだろう。とはいえ、カレーの魅力が言葉に置き換えられることが、そこまで大きな要因となるのだろうか。

「たとえば同じミールスでも、なんの予備知識もなく食べたら『なじみのないスパイスが使われていて、カレーはやたらシャバシャバだった』で終わってしまう可能性があります。

でももし、あらかじめ『南インドでは医食同源の考えのもと、気候や食べる人の健康状態を鑑みて、食材やスパイス、調理法が選ばれる』という話を聞いていたら、感想は『なんて滋養に富んだ、体に沁み入る料理なのだろう』となるかもしれません。食の体験は、そういう“物語”を挟むかどうかでまったく違うものになります」(稲田氏)。

「もちろん渡辺さん以外にも、早くから南インド料理の魅力を言語化していた人はいたと思います。いずれにせよ南インド料理には、魅力的な物語が早くから存在した。

だからその魅力を共有できる人たちがいち早く生まれ、さらには彼らがまたほかの人に魅力を伝える際にも、その物語が使われた。そうやって物語がどんどん再生産され広められていったという点では、民話的とも言えます」(稲田氏)

今なお同じ物語が伝えられている

実際に、南インド料理の魅力とレシピを綴った渡辺玲氏の2003年の著書『カレーな薬膳』を開いてみると、15年前の本なのに内容に古さをまったく感じない。そして南インド料理に関する言葉のほとんどが、いまも使われる南インド料理の説明にそのまま合致する。たとえば、

「オイルは少なめ」「野菜、豆が豊富だから体にいい」「たくさん食べても胃にもたれない」「スパイシーでホットだが、同時にライトでヘルシー」「味つけは意外なくらいさっぱり」「辛味、甘み、酸味という三味のバランスがとれている」「生ハーブで繊細な味つけを楽しむ」「スパイスや各食材の薬効と心身への影響力を考えて料理する」「視覚的にもカラフル」「日本人の感性や食習慣に合致」「食材本来の持ち味を最大限に生かす料理」――といったところだ。

稲田氏はこう話す。

「うちの店でも、南インド料理好きのお客さんが南インド料理を初めて食べるお客さんを連れてきて、南インド料理のことを説明する場面をよく見かけます。そこでもやはり、渡辺さんの紡いだ物語が今なお伝えられています」

食べ物を通して気づかされた、言葉の力。それは言霊という意味合いにも近いかもしれない。あらためてその物語を携えて、ミールスを食べに行こうと思う。