「高校野球はプロ入りのために重要な過程だった」と、野村克也氏(83)は語る。

「女手ひとつで育ててくれた母親を楽にするため、絶対プロにという目標があった。まず、京都府立峰山高校で頭角を現わし、関西の名門企業に行って、活躍してプロに入る。だからこそ、野球を続ける必要があったわけだ」

 ところが、ノムさんの計算どおりには進まなかった。

「弱いのは想定内だったが、野球部は学校のお荷物だった。予算を多く使うだけでなく、ガラスを割る、ほかの部がグラウンドを使えない。しかも、ろくに勉強しない不良の溜まり場。

 職員のなかには廃部にしようという動きもあった。その急先鋒が、生活指導部長の清水義一先生だった」

 若きノムさんは考えた。

「まず生徒会長に立候補することに決めた。清水先生と仲よくなるためにね。で、僅差ながら当選。次に、清水先生の小学生の息子2人が野球好きとわかったので、『今度の試合を観においで。ベンチに入れてあげるから。そのときは必ずお父さんを連れてこいよ』と言ったわけ。

 清水先生は2人の息子と来てくれたよ。すると、ふだんは落ちこぼれの生徒が真剣にプレーしている姿に感動しているわけ。そこからは一気呵成だな。野球部の存続どころか、口説いたら部長にも就任してくれたよ」

 だが清水部長は、野球はまったくの素人。だからノムさんは、主将で四番ばかりか、監督、コーチも務め、テストのときには勉強のできない生徒に解答用紙を見せ、カンニングすら手伝った。

「清水先生は、多くの球団に『野村克也といういい捕手がいます。ぜひ見に来てください』という手紙を出してくれていた。そのなかで唯一、南海が来てくれて、テスト入団に繋がったんだ。

 俺は今でも『人間的成長なくして、技術的進歩なし』と言うんだけど、これは清水先生の教えがもと。

 よく、『まずおこないを正し、立派な人間になれ。そうすれば強くなる』と言っていた。『野球の技術を磨く前に、まず人間を磨け』と。この言葉が、その後の私の思考と行動を決めたんだ」

(週刊FLASH 2018年8月14日号)