アニメ化決定!話題作「アンゴルモア」に登場する北条時宗ってどんな人?地の巻
前回の「北条時宗ってどんな人?天の巻」では、『アンゴルモア 元寇合戦記』の主要登場人物である北条時宗の生い立ちと元(モンゴル)による脅威が迫ったことについて紹介しました。本項では、2度に渡る元寇(蒙古襲来)を時宗がどのようにして乗り切ったかを紹介します。
時宗、身内殺しの汚名を背負いつつも元との戦いに臨む
元から届いた高圧的な国書と前後して、様々な事件が起こりました。文永9年(1272年)に腹違いの兄である時輔(ときすけ)、また時宗が属する得宗家に反抗的な武将らを幕府は滅ぼします。これが二月騒動で、『アンゴルモア』の朽井迅三郎はこの事件で対馬に流刑されたと言う設定です。2年後には、かねてから政治批判や多宗派との争いで政情不安の原因となっていた僧・日蓮を流罪にしました。
また、元に降伏した高麗とそれに反対する勢力のそれぞれから親書が届いたために混乱が生じたり、朝廷が作成した返書を採用に反対するなど、対外政策でも元への警戒心を緩めること無く、緊張が走った時期でもありました。
こうした強硬で即急な対応は、若く経験不足な時宗では無く、元の脅威に対抗すべく幕府首脳部による権力統一が図られたために起きたと言う説がありますが、大帝国の存在は近隣諸国にも影響を及ぼしていたのです。
文永の役開戦!元の大軍が九州に攻め寄せる
文永2年(1274年)10月、北条氏が国書に応じなかったのを知った元は、朝鮮半島に集結させた軍を日本に向けて出航させます。モンゴル以外には中国、朝鮮など諸国から駆り集めた大軍勢は対馬や壱岐と言った島を壊滅させました。そのうち、対馬での戦いが『アンゴルモア』の舞台であり、島の支配者である宗氏(そうし)と朽井ら流人達の軍団による元軍との戦いが描かれます。
そして、同年の10月16〜17日には九州の肥前、20日には博多湾に攻め込みました。元は密集した陣形と、てつはう(爆弾)など新兵器を駆使して時宗が派遣した鎌倉武士を混乱に追い込みます。従来は一騎打ちを挑む武士と、奇襲・集団戦を得意とする大陸勢の違いという説もありましたが、実際は日本側も騎馬隊で団結して戦っていたようです。
しかし、元軍は切り札の騎馬戦術が使えなかった上、気候も異なる日本が戦場だったので、大陸や半島の猛者達であっても戦力を発揮しきれなかったと言われています。反対に武士達は騎兵を編成して戦えたのと、接近戦に有利な日本刀や薙刀などの武器が充実していたため、奇襲や飛び道具による劣勢を跳ね返す戦いが可能でした。
おまけに、暴風が吹いて敵船団は被害を受け、翌朝には撤退していきました。こうして、若く柔軟な時宗は御家人達との結束で防衛に成功します。武士の奮戦と自然現象と言うダブルパンチで元を退けますが、時宗の前途には更なる試練が待っていたのです。次回はそれを紹介します。