ニューバランス ジャパン社長 冨田智夫(とみた・ともお)1964年、大阪府生まれ。立命館大学卒業。87年4月蝶理入社。92年6月兼松入社。2007年8月ニューバランス ジャパンに入社し、営業本部副本部長に就任。08年1月営業本部長、09年7月執行役員、12年4月常務取締役などを経て同年12月から現職。

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■成長戦略の鍵はファッション+α

【弘兼】僕が初めてニューバランスのスニーカーを手にしたのは10年ほど前のことです。今日は久々に履いてきましたが、やはりかっこいい。シンプルでコーディネートに取り入れやすいですね。

【冨田】ほかにもグレー、ネイビー、バーガンディなど、何にでも合わせやすい中間色を中心に展開しています。靴そのものの主張は控えめです。

【弘兼】冨田さんがいま着ているトレーナーも控えめですよね。よく見たら胸の位置に「NB」と入っている。ファッションとして普通に着ることができそうです。

【冨田】だからか、ファッションブランドだと思われることも少なくありません。その部分を大事にしながらも、スポーツブランドとして浸透させていくことが、これからの成長戦略の鍵になりますね。

【弘兼】冨田さんがスポーツ業界に携わるようになったのは、前職の兼松からでしょうか?

【冨田】ええ。もともとは専門商社の蝶理で繊維原料を扱っていました。そして、原料よりもより消費者に近い製品を取り扱う仕事がしたいと兼松に転職しました。当時、兼松にスポーツカジュアル部という部署がありました。この部署の仕事は大きく分けて2つ。1つは欧米からのブランドと販売代理店契約を結んで、日本で販売することです。

【弘兼】兼松がアディダスの正規販売代理店であった時期もありますね。

【冨田】はい。スポーツに限らずアパレルでは同様のブランドビジネスがたくさんありますが、兼松はスポーツ分野で1960年代からやっていましたから早いほうですね。

【弘兼】もう1つは?

【冨田】国内のスポーツメーカーの商品をOEM、受託生産して供給することです。具体的にはメーカーのトレーニングウエアやスキーウエアなどを企画から入って、中国や東南アジアで生産。それをメーカーに納品するという仕事です。

【弘兼】冨田さんはその2つのうち、どちらを担当していたのですか。

【冨田】両方ですね。ただ前者のブランドビジネスが花盛りだったのは、80年代から90年代にかけてです。その後は、ブランド側が直轄の日本支社を設立することが増え、商社が間に入るというのは少なくなっていきました。

【弘兼】ブランド側の日本に対する方針が変わったのはなぜでしょうか?

【冨田】欧米の大きなブランドにとって、かつては極東のマーケットは距離的にも離れているし、商習慣も違いました。目が届かないので、日本の商社が入って展開することは理にかなっていた。その後、インターネットの発達とともにグローバリズムが進んで、非常に世界が小さくなった。自分たちのブランドを全世界で同じように表現していく方向に進みました。ライセンスを現地に任せるというかたちだと、本社の意図と変わってしまう可能性があります。それならば自分たちで資本を投資して、自らの会社を設立するというのは当然の動きだったのでしょう。

■前社長が急死、事業を引き継ぐ

【弘兼】その流れの中で、冨田さんも商社からニューバランスというブランド側に転職することになりました。どのような経緯だったのですか?

【冨田】兼松の同じ課の先輩がすでにニューバランス ジャパンに転職していました。彼とは年齢も12歳離れており、家も近かったので、よく飲みにいったり、いろいろと相談にのってもらったりしていました。

【弘兼】後にニューバランス ジャパンの社長になる林喜弘さんですね。林さんから来ないかと誘われたのですか?

【冨田】商社はアパレル業界ではいわば黒子のような存在です。自分たちで消費者に直接売っていくというよりも、メーカーがいかに上手くビジネスをしていくのかというのを考えます。

【弘兼】林さんは、黒子から脱して自分でやってみたいと思った。

【冨田】そうです。そして私にこう言ったんです。「おまえも、お客さんと接触できるビジネスをやったらいいんじゃないか。ブランド自体をいかにしてお客さんに届けていくかというビジネスに切り替えたほうがいいのでは」と。

【弘兼】その言葉に冨田さんはぐらりときて、2007年に転職します。いきなり営業本部副本部長という要職についています。

【冨田】05年に林が社長に就任していました。彼が社長兼任の営業本部長でした。私が副本部長で入った数カ月後、林は社長に専念、私が営業本部長となりました。

【弘兼】自分の信頼できる部下を呼び寄せたということですね。僕の漫画『島耕作』シリーズに出てくる、課長時代の島耕作と中沢部長の関係を思い出しました。林さんは冨田さんに、何を一番期待していたのでしょうか?

【冨田】ニューバランス ジャパンの社員というのは、ニューバランスの靴が好きで入ってきたという人が多い。靴好きで自分のブランドに誇りを持っています。そこから一つ突き抜けて、総合的なスポーツブランドとしてやっていくとなると、マインド、手法を変えなければなりませんでした。

ニューバランスの原点は、アーチサポートや偏平足などを治す矯正靴のメーカー「ニューバランス・アーチ」が1906年、米国ボストンに設立されたことに遡る。38年、同社はランニングシューズの製造をスタート。72年、同社をニューバランス現・取締役会長を務めるジェームス・S・デービスが買収。以後、矯正靴で培った技術を生かし、履き心地のよさと機能性を追求したランニングシューズを積極的に展開し、現在の地位を確立。88年12月には、日本法人であるニューバランス ジャパンが設立された。

【弘兼】12年11月、林さんが急逝したことで、冨田さんが社長を引き継ぐことになりました。

【冨田】林が亡くなったのは急でしたから。その日は、ゴルフ場で数十人が参加するコンペをしているときでした。

【弘兼】冨田さんも一緒にいらっしゃったのですか?

【冨田】はい。コンペの日は参加者のために観光バスを借り切っていました。ラウンドが終わり移動しようとしたとき、林がいきなりその場に倒れました。ほぼ即死状態でした。

【弘兼】では、冨田さんと林さんの間で「会社の次はおまえに頼む」などという会話はなかった。

【冨田】まったくないです。突然だったので、社内は動揺。私にとっては公私ともに世話になっていたので、ショックはありました。

【弘兼】社長を引き継いだのはどのような経緯なのですか?

【冨田】アメリカ本社との話し合いの中で、「次の社長はおまえがやれ」と。入社5年目でした。

【弘兼】当時、冨田さんは48歳。若い社長です。転職して間もない人間が社長になったことで、周囲の反発はありませんでしたか。

【冨田】(苦笑しながら)面白くないと思った人もいたかもしれません。ただそれよりも、私にとって大切な先輩が一生懸命やってきたこの会社をどう引き継ぐか。そういった意味では、オフタイムに林と長い時間を過ごしていたことが役に立ちました。私が考えたのは、この会社をいかに次のステージに引き上げるかということでした。

■自社工場はアジア圏でなく米英

【弘兼】つまり「シューズブランド」から「スポーツブランド」へ変わることですね。現在、全世界のスポーツブランドの売り上げを見ると、3兆円台のナイキ、2兆円台のアディダスと、1位、2位が突出しています。ニューバランスは、アンダーアーマー、プーマ、アシックスなどと3位グループの中にいます。

【冨田】3位グループは、5000億円前後の売り上げですね。

【弘兼】その中でニューバランスの強みはどのようなところでしょうか?

【冨田】ニューバランスの特徴の一つは、他のメーカーと違って株式上場をしていないプライベートカンパニーなので、オーナーの意向が経営方針に反映されるということです。それは、クラフトマンシップであったり、フィッティングであったりを重視することに表れています。

【弘兼】世界的企業は、工場を中国や東南アジアに集中させて同じ商品を大量生産し、全世界で販売するという効率的な経営手法をとっています。ニューバランスはそうではない、と。

【冨田】我々が同業他社と違うのは、アメリカ生産、そしてイギリス生産にこだわっているところです。これらの工場は協力工場ではなくて、すべて自社工場です。コストを下げて安く大量に売るのではなく、質の高い製品、フィッティングを追い求めているのです。

【弘兼】フィッティングといえば、正確に測ると左右の足の大きさが0.5センチほど違うことも少なくないそうですね。

【冨田】はい。足は甲の広さ、高さによっても様々です。足の長さは一緒でも横幅が広い人、狭い人もいます。我々はランニングなどのパフォーマンスシューズでは長さのサイズだけでなく足幅のサイズも選べるように「D」「2E」「4E」といった複数のサイズを用意しています。

【弘兼】細かなところにまで気遣いがあるというのは、日本人気質に合っている気がしますね。日本発の製品というのも存在するのでしょうか。

【冨田】ええ。わが社では「クリエーションセンター」と呼んでいる開発企画の部署があります。これがあるのは世界に3カ所です。1つはボストンの本社、2つ目は工場のあるイギリス、そして日本。もともと、ニューバランス ジャパンは本社にライセンス権を付与され、日本国内で企画・製造・販売できるという契約から始まっています。後にそのニューバランス ジャパンの株式を本社が全部買い上げて、100%の子会社になった。そういった場合、クリエーションセンターは通常本国に吸収され、閉鎖するものですが、日本の場合は残したのです。

【弘兼】日本が世界的にも少し特殊な市場だったからでしょうか?

【冨田】はっきりわかりませんが、すでに日本のマーケットでニューバランスは非常に受け入れられていました。ブランドイメージを損なっているのではなく、問題ないという判断だったのでしょう。ニューバランス本社の体質として、アメリカの方針を強引に押しつけるということはありません。

【弘兼】日本での開発はどれくらいなのでしょうか?

【冨田】アパレルの5割は日本で商品開発しています。シューズに関しても3割程度。外資のスポーツメーカーの中で、シューズを日本で開発しているところはほとんどない。その一つの象徴がウオーキングシューズです。矢野経済研究所の調査では、日本国内のウオーキングシューズ販売足数・金額で3年連続トップ、シェアは30%となっています(※)。これほど受け入れられたのは、日本人に合わせて日本で開発した商品だったからでしょう。

【弘兼】現在、中国・韓国市場はかなり大きくなっています。東アジアへは日本企画の商品が入っているということでしょうか?

【冨田】もちろん。中国・韓国にはクリエーションセンターが存在しませんから。日本企画の商品は中国・韓国でよく売れますね。

※矢野経済研究所「YPS スポーツシューズデータ:2013年、14年、15年ウォーキングシューズ販売足数・金額ベース」(全国主要スポーツ店をはじめとした計2031店舗のスポーツブランドを対象とした定点観測調査2016年1月時点)

■30〜40代に刺さるメイド・イン・USA

【弘兼】日本の独自性といえば、ニューバランスは16年7月からゴルフ製品を展開しています。これは日本だけです。ゴルフの分野では、ナイキやアディダスが撤退しています。縮小気味な分野にあえて手を広げたのはどうしてでしょうか?

【冨田】ゴルフはビジネスとしてまだまだ可能性があると考えています。近年、ゴルフの競技人口は確かに減っています。それでもまだマーケットの規模は大きい。加えて、ゴルフをする方はわが社の顧客層と重なると判断したからです。

【弘兼】比較的裕福な層が多い。

【冨田】ニューバランスの「MADE IN USA」の靴は3万円近い価格が中心になります。それらの靴を好んで買われる層は30代、40代。そうした方がどういうスポーツをやっているかというアンケートをとると、ゴルフが非常に多い。ゴルフというのはよく歩く競技です。そこで我々がいままで大切にしてきたフィット感や履き心地が生きてくるのではないかと考えたのです。実際に、お客さんからの要望も高かった。

【弘兼】9年連続増収見込みと聞いています。この業績好調の中で心がけていることはありますか?

【冨田】ニューバランスのファンの方々は、他のブランドと違うユニークさを買ってくださっています。それが消費者から見て他のブランドと同じように映ってしまうと駄目だと思っています。

【弘兼】お話を伺っていると、ニューバランスが外資系企業であることを忘れてしまいそうです。

【冨田】アメリカのオーナー、ジェームス・S・デービスは従業員を「エンプロイー」(従業員)と呼ぶと怒るんです。社員は家族であって「アソシエイツ」(仲間)であると。外資系といえば、転職が多いという印象があると思うんですが、うちに関していえば離職率が1%を切っているんです。日本の一部上場企業でも3、4%のところが多いはずです。働きやすい環境もあるでしょうし、ニューバランスというブランドが大好きな人が多いのかもしれません。

【弘兼】外資系といえば、本社から外国人社員は何人ぐらい派遣されているのでしょうか?

【冨田】ゼロです。外資系といいながら、西洋人が一人もいない企業は珍しいと思います。もちろん、毎週、アメリカと電話会議は行っています。頻繁に本社から人も訪ねてきています。ただ、前任の林も私も日本人です。ニューバランス ジャパンはずっと日本人が社長を務めてきました。これは日本だけではなく、中国も同じです。ニューバランス チャイナは、うちのほぼ倍の売り上げになっています。他の同業他社ならば役員、社員の多くは外国人でしょうけれど、ニューバランス チャイナは全部中国人。いわゆるローカルスタッフでやっているんです。

【弘兼】ニューバランスは、グローバリゼーションとローカリゼーションの利点を上手く組み合わせているんですね。

■弘兼憲史の着眼点

▼スーツ姿に嵌るスニーカーとは?

スニーカーと聞いて思い出すのは、1988年の映画『ワーキング・ガール』です。ニューヨーク・ウォール街の投資銀行で働く登場人物の女性たちは、通勤途中、スーツ姿にスニーカーでした。

ニューヨークはアスファルトが荒れていたり、石畳があったりと、女性のヒールなどでは歩きにくい。様々な路面に対応できるスニーカーを履くのは実に合理的だと思ったものでした。

とはいえスーツ姿に合うスニーカーは限られています。その点、ニューバランスのスニーカーは主張が強くなく、どんな服装にも溶け込みそうです。

冨田さんと話しているうちに、そうしたスニーカーのイメージはニューバランスという会社の体質を反映しているのではないかと思うようになりました。

家族的で職人的――。

スポーツブランドに限らず、グローバル企業は、人件費の安い発展途上国で大量生産して、世界中で販売しています。しかし、ニューバランスはアメリカ生産、イギリス生産にこだわり続けている。グローバル企業と小規模企業のいいとこ取りをしているのかもしれません。

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弘兼憲史(ひろかね・けんし)
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年『人間交差点』で第30回小学館漫画賞、91年『課長島耕作』で第15回講談社漫画賞、2003年『黄昏流星群』で日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年紫綬褒章受章。

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(田崎健太=構成 門間新弥=撮影)