会社を辞めて単身タンザニアへ 作家のユニークなプロフィール
出版界の最重要人物にフォーカスする『ベストセラーズインタビュー』!
第55回目となる今回は、1月22日に新刊『手のひらの音符』(新潮社/刊)を上梓した、小説家の藤岡陽子さんです。
この作品は、バブル期から現在までを仕事に生きてきた女性が、キャリアの転換点となるある出来事をきっかけに幼少時からの人生を振り返る半生記であり、一組の男女のとても不器用で切ない(校閲者が何度も泣きそうになってしまったとか…)恋の物語でもあります。
この感動長編がどのようにできあがったのか、また作家になろうと思ったきっかけや少し風変わりなプロフィールまで藤岡さんにたっぷりと語っていただきました!注目の最終回です。
■新聞記者を辞めて、単身タンザニアへ
―藤岡さんご本人についてもお話を伺えればと思いますが、ちょっと変わったプロフィールをお持ちですよね。最初に就いた仕事がスポーツ新聞の記者だということですが、どんなことをされていたのでしょうか。
藤岡:「一般スポーツ」といって、プロ野球以外のスポーツ全般を扱う部署にいました。長く担当していたのはゴルフなんですけど、ちょっと合わなかった……(笑)。他には高校・大学野球など、アマチュア野球の取材もしました。プロ野球は担当の先輩の代わりに取材に行ったことはありましたが、やはりずっと張りついていないといけない部署なので、女性は少なかった気がします。
―そして目をひくのが「タンザニア留学」です。どんなことを勉強されていたんですか?
藤岡:ダルエスサラーム大学のスワヒリ語科に入ったんですけど、留学生は留学生のクラスがあって、そこでひたすらスワヒリ語の勉強をしていました。
―どうしてスワヒリ語を?
藤岡:すごく興味があったわけではなく、留学生の入れる科が決まっていたので。それに、語学を覚えてしまえば大使館で採用してもらえたりと、就職の可能性は広がるのかなという想いもありました。
でも、卒業までいたわけではないんです。日本人ではそれまで一人だけ卒業できた人がいたみたいですが、卒業までに6年かかったっていうのを聞いて、それはさすがに無理やろと思って途中で辞めてしまったんです。
―帰国した後は大阪文学学校に行かれたわけですね。
藤岡:そうです。帰ってきて、さあ本格的に小説を書きたいと思いまして。そもそも、小説家になろうと思って新聞社を退社したのですが、何を書こうかと考えた時に、もっと広い世界を見た方がいいだろうということでタンザニアに行ったんです。それと同時に、とにかく一人になって自分の人生をもう一度考え直さないといけないという気持ちもありました。若いですよね、就職難の時期にようやく入れた会社だったのに(笑)。
―会社を辞めてまで小説家になりたかった理由はどんなことだったんですか?
藤岡:結局、スポーツ新聞の仕事がものすごく好きになれなかったということだと思います。全身全霊を注いでやりたい仕事とは言いきれなかった。白か黒かしかない、灰色が許せない性格だったので、「ちょっとこれ違うな」と思いながら続けることができなかったんです。
新聞記者になるくらいですから、文章を書くことはもともと好きでした。ただ小説を書くには自分の引き出しが少ないということも自覚していて、引き出しを増やすことはもちろん、もっと強い人間になりたいという気持ちもつよくあって留学を決めたのだと思います。
おそらく、当時はあまり自分のことが好きではなくて、「変わりたい」と願っていたんでしょう。その方法がタンザニアだった(笑)。
―タンザニアに行って、変わることはできましたか?
藤岡:すごく変わったと思います。事故があっても救急車が来なくて、ケガをした人がそのまま亡くなってしまった場面に居合わせたこともありました。タンザニアは「死」がすごく近くにあるところです。それまでは日々をいい加減に過ごしていたところがあったんですけど、タンザニアで生活したことで、生きることに貪欲になったように感じています。
―また、先ほどお話にも出たように現在は作家業の傍ら看護師さんもされているということですが、どちらも心身共に疲れる大変なお仕事です。どのようにバランスを取っていらっしゃいますか?
藤岡:看護師の方は働く曜日が決まっていて、多くても週に2日だけです。その時間はもう完全に看護師の頭になり、それ以外の日はずっと文章のことを考えるというように、うまく頭を切り替えることはできています。
でも、看護師の仕事をしていると、時々患者さんの言葉などにハッとさせられることや、感動して泣きそうになることもあります。そういう時は、この気持ちを忘れないようにと、手があいた時にメモ帳に書き残しておくこともあります。
―今後、どんな作品を創っていきたいとお考えですか?
藤岡:看護師ということで、医師や助産師、看護師など医療従事者の友人がとても多いのですが、同じ業界にいるということで「これ公には言えないから小説に書いて」「うちの病院ではこんなことがあったよ」という声が結構聞こえてくるんです。
そういうことは同業者として書いてはいけないことなのかな、と迷いもあるのですが、現場の人たちはそれぞれが目にしている現状を知ってほしいという気持ちが強くありますし、医療の現状の「ほんとうのところ」を知ってほしいので、この世界についても書いていきたいです。
―そういうアプローチは新聞出身の方らしいですね。
藤岡:そうですね。事実を出して知ってもらう、事実を書いて驚いてもらうっていうのは新聞記者としてやってきたことと無関係ではないのかもしれません。
―藤岡さんが人生で影響を受けた本がありましたら、3冊ほどご紹介いただければと思います。
藤岡:一つは宮本輝さんの『青が散る』です。青春モノなんですけど、いま一つイケてない登場人物たちが、閉そく感を抱えながらも楽しんで生きている感じが好きです。
もう一冊は小川洋子さんの『博士の愛した数式』。あまりにも有名な本ですけど、愛が溢れていて、初めて読んだ時に「こういう小説を書きたい!」と思った記憶があります。
最後は沢木耕太郎さんの『深夜特急』ですね。この作品のせいで会社員を辞めてしまったといってもいいくらいです(笑)。 これを読まなかったら、記者を続けながら合間に小説を書くというような折衷案を選んでいたのかもしれませんが、読み終えた途端に「大きな世界を見なきゃ!」と熱い気持ちがこみ上げて、すぐ新聞社を辞めてました。そういう意味では人生を変えられてしまった1冊で、とにかく主人公がかっこよかったんです。
―最後になりますが、読者の方々にメッセージをお願いします。
藤岡:最初の話に戻りますが、「今できないことがあっても、それはずっとできないわけではない」というのが、私の支えになっている信念です。
できないからといって諦めずに、時間をかけて1年、2年じゃなくて10年、20年とコツコツやっていれば、きっとできるようになる――そんな気持ちをこの小説にはこめました。読んで頂けたら、何より嬉しいです。
■取材後記
作家の人生経験は、確実に作品を厚く、豊かにすることを実感したインタビューでした。
小説家になるべく会社を辞め、10年かけてそれを達成した意思の強さと、単身タンザニアに留学する行動力には脱帽。この2つはどんな立場にあっても大事なことですよね。
(取材・記事/山田洋介)
第55回目となる今回は、1月22日に新刊『手のひらの音符』(新潮社/刊)を上梓した、小説家の藤岡陽子さんです。
この作品は、バブル期から現在までを仕事に生きてきた女性が、キャリアの転換点となるある出来事をきっかけに幼少時からの人生を振り返る半生記であり、一組の男女のとても不器用で切ない(校閲者が何度も泣きそうになってしまったとか…)恋の物語でもあります。
この感動長編がどのようにできあがったのか、また作家になろうと思ったきっかけや少し風変わりなプロフィールまで藤岡さんにたっぷりと語っていただきました!注目の最終回です。
―藤岡さんご本人についてもお話を伺えればと思いますが、ちょっと変わったプロフィールをお持ちですよね。最初に就いた仕事がスポーツ新聞の記者だということですが、どんなことをされていたのでしょうか。
藤岡:「一般スポーツ」といって、プロ野球以外のスポーツ全般を扱う部署にいました。長く担当していたのはゴルフなんですけど、ちょっと合わなかった……(笑)。他には高校・大学野球など、アマチュア野球の取材もしました。プロ野球は担当の先輩の代わりに取材に行ったことはありましたが、やはりずっと張りついていないといけない部署なので、女性は少なかった気がします。
―そして目をひくのが「タンザニア留学」です。どんなことを勉強されていたんですか?
藤岡:ダルエスサラーム大学のスワヒリ語科に入ったんですけど、留学生は留学生のクラスがあって、そこでひたすらスワヒリ語の勉強をしていました。
―どうしてスワヒリ語を?
藤岡:すごく興味があったわけではなく、留学生の入れる科が決まっていたので。それに、語学を覚えてしまえば大使館で採用してもらえたりと、就職の可能性は広がるのかなという想いもありました。
でも、卒業までいたわけではないんです。日本人ではそれまで一人だけ卒業できた人がいたみたいですが、卒業までに6年かかったっていうのを聞いて、それはさすがに無理やろと思って途中で辞めてしまったんです。
―帰国した後は大阪文学学校に行かれたわけですね。
藤岡:そうです。帰ってきて、さあ本格的に小説を書きたいと思いまして。そもそも、小説家になろうと思って新聞社を退社したのですが、何を書こうかと考えた時に、もっと広い世界を見た方がいいだろうということでタンザニアに行ったんです。それと同時に、とにかく一人になって自分の人生をもう一度考え直さないといけないという気持ちもありました。若いですよね、就職難の時期にようやく入れた会社だったのに(笑)。
―会社を辞めてまで小説家になりたかった理由はどんなことだったんですか?
藤岡:結局、スポーツ新聞の仕事がものすごく好きになれなかったということだと思います。全身全霊を注いでやりたい仕事とは言いきれなかった。白か黒かしかない、灰色が許せない性格だったので、「ちょっとこれ違うな」と思いながら続けることができなかったんです。
新聞記者になるくらいですから、文章を書くことはもともと好きでした。ただ小説を書くには自分の引き出しが少ないということも自覚していて、引き出しを増やすことはもちろん、もっと強い人間になりたいという気持ちもつよくあって留学を決めたのだと思います。
おそらく、当時はあまり自分のことが好きではなくて、「変わりたい」と願っていたんでしょう。その方法がタンザニアだった(笑)。
―タンザニアに行って、変わることはできましたか?
藤岡:すごく変わったと思います。事故があっても救急車が来なくて、ケガをした人がそのまま亡くなってしまった場面に居合わせたこともありました。タンザニアは「死」がすごく近くにあるところです。それまでは日々をいい加減に過ごしていたところがあったんですけど、タンザニアで生活したことで、生きることに貪欲になったように感じています。
―また、先ほどお話にも出たように現在は作家業の傍ら看護師さんもされているということですが、どちらも心身共に疲れる大変なお仕事です。どのようにバランスを取っていらっしゃいますか?
藤岡:看護師の方は働く曜日が決まっていて、多くても週に2日だけです。その時間はもう完全に看護師の頭になり、それ以外の日はずっと文章のことを考えるというように、うまく頭を切り替えることはできています。
でも、看護師の仕事をしていると、時々患者さんの言葉などにハッとさせられることや、感動して泣きそうになることもあります。そういう時は、この気持ちを忘れないようにと、手があいた時にメモ帳に書き残しておくこともあります。
―今後、どんな作品を創っていきたいとお考えですか?
藤岡:看護師ということで、医師や助産師、看護師など医療従事者の友人がとても多いのですが、同じ業界にいるということで「これ公には言えないから小説に書いて」「うちの病院ではこんなことがあったよ」という声が結構聞こえてくるんです。
そういうことは同業者として書いてはいけないことなのかな、と迷いもあるのですが、現場の人たちはそれぞれが目にしている現状を知ってほしいという気持ちが強くありますし、医療の現状の「ほんとうのところ」を知ってほしいので、この世界についても書いていきたいです。
―そういうアプローチは新聞出身の方らしいですね。
藤岡:そうですね。事実を出して知ってもらう、事実を書いて驚いてもらうっていうのは新聞記者としてやってきたことと無関係ではないのかもしれません。
―藤岡さんが人生で影響を受けた本がありましたら、3冊ほどご紹介いただければと思います。
藤岡:一つは宮本輝さんの『青が散る』です。青春モノなんですけど、いま一つイケてない登場人物たちが、閉そく感を抱えながらも楽しんで生きている感じが好きです。
もう一冊は小川洋子さんの『博士の愛した数式』。あまりにも有名な本ですけど、愛が溢れていて、初めて読んだ時に「こういう小説を書きたい!」と思った記憶があります。
最後は沢木耕太郎さんの『深夜特急』ですね。この作品のせいで会社員を辞めてしまったといってもいいくらいです(笑)。 これを読まなかったら、記者を続けながら合間に小説を書くというような折衷案を選んでいたのかもしれませんが、読み終えた途端に「大きな世界を見なきゃ!」と熱い気持ちがこみ上げて、すぐ新聞社を辞めてました。そういう意味では人生を変えられてしまった1冊で、とにかく主人公がかっこよかったんです。
―最後になりますが、読者の方々にメッセージをお願いします。
藤岡:最初の話に戻りますが、「今できないことがあっても、それはずっとできないわけではない」というのが、私の支えになっている信念です。
できないからといって諦めずに、時間をかけて1年、2年じゃなくて10年、20年とコツコツやっていれば、きっとできるようになる――そんな気持ちをこの小説にはこめました。読んで頂けたら、何より嬉しいです。
■取材後記
作家の人生経験は、確実に作品を厚く、豊かにすることを実感したインタビューでした。
小説家になるべく会社を辞め、10年かけてそれを達成した意思の強さと、単身タンザニアに留学する行動力には脱帽。この2つはどんな立場にあっても大事なことですよね。
(取材・記事/山田洋介)