逝去 山田五十鈴が墓場まで持って行った“隠し子説”
戦後、新派の初代・水谷八重子と文学座の杉村春子と並んで、日本の“3大女優”と称され、女優として初の文化勲章を受章した山田五十鈴さんが7月9日、多臓器不全のため都内の病院で死去した。95歳。
山田さんは結婚、離婚を4度繰り返したうえ、不倫でも騒がれ“多情な女”として有名だった。俳優の故・月田一郎さんとの間にできた長女は女優の故・嵯峨三智子さんだった。
「長女とは離婚したあとに離別していたんですが、女優になって再会。嵯峨さんが山田さんを『お母さん』ではなく、『山田さん』と呼んでいたのには驚かされました。その後、松竹に移籍して妖艶な色気と演技力でスターの座についた。血は争えないなと思いましたよ」(元映画記者)
その後、嵯峨さんは俳優の故・岡田真澄さんと婚約するが、婚約解消してから彼女の人生は狂い始めた。
「金銭トラブルや薬物中毒を起こして、失踪を繰り返した。何かと騒動を引き起こす今の沢尻エリカどころではありませんでした。まるで山田さんに反抗しているかのようでしたね。嵯峨さんは芸能界に復帰したものの、'92年8月にタイのバンコクでクモ膜下出血のため死去。57歳の若さだった。偶然にも、その2カ月後には、山田さんの隠し子説があった個性派女優の太地喜和子さんまで後を追うようにして亡くなったんです。彼女はもっと若く48歳でした」(芸能記者)
'92年10月、太地さんは『唐人お吉』の舞台公演先である静岡県伊東市の桟橋から酒気帯び運転で転落。不慮の事故死だった。
太地さんは自らの出生について「自分はある事情で、生後すぐに実母との別れを余儀なくされ、養父母に育てられたと高校在学中に知った」と語っている。
「喜和子は文学座の演劇研究所に入った当時、まだ悠木千帆という芸名だった先輩の樹木希林に『あたしを誰だと思ってんの。あたしの母親は山田五十鈴なのよ』と言っていた。喜和子は酔うとよく“母親は山田五十鈴”と口走っていた。その話を入手した女性誌記者が裏を取ろうとした。父親は新派の俳優H・Kではないかという情報まで掴んだんですが、結局、裏は取れませんでしたね」(太地が父親と慕っていた銀座のバーのオーナー)
“隠し子伝説”は太地さんの虚言だったのか? 山田さんも真相を墓場まで持って行った。
■沢尻エリカの写真ギャラリー
山田さんは結婚、離婚を4度繰り返したうえ、不倫でも騒がれ“多情な女”として有名だった。俳優の故・月田一郎さんとの間にできた長女は女優の故・嵯峨三智子さんだった。
「長女とは離婚したあとに離別していたんですが、女優になって再会。嵯峨さんが山田さんを『お母さん』ではなく、『山田さん』と呼んでいたのには驚かされました。その後、松竹に移籍して妖艶な色気と演技力でスターの座についた。血は争えないなと思いましたよ」(元映画記者)
「金銭トラブルや薬物中毒を起こして、失踪を繰り返した。何かと騒動を引き起こす今の沢尻エリカどころではありませんでした。まるで山田さんに反抗しているかのようでしたね。嵯峨さんは芸能界に復帰したものの、'92年8月にタイのバンコクでクモ膜下出血のため死去。57歳の若さだった。偶然にも、その2カ月後には、山田さんの隠し子説があった個性派女優の太地喜和子さんまで後を追うようにして亡くなったんです。彼女はもっと若く48歳でした」(芸能記者)
'92年10月、太地さんは『唐人お吉』の舞台公演先である静岡県伊東市の桟橋から酒気帯び運転で転落。不慮の事故死だった。
太地さんは自らの出生について「自分はある事情で、生後すぐに実母との別れを余儀なくされ、養父母に育てられたと高校在学中に知った」と語っている。
「喜和子は文学座の演劇研究所に入った当時、まだ悠木千帆という芸名だった先輩の樹木希林に『あたしを誰だと思ってんの。あたしの母親は山田五十鈴なのよ』と言っていた。喜和子は酔うとよく“母親は山田五十鈴”と口走っていた。その話を入手した女性誌記者が裏を取ろうとした。父親は新派の俳優H・Kではないかという情報まで掴んだんですが、結局、裏は取れませんでしたね」(太地が父親と慕っていた銀座のバーのオーナー)
“隠し子伝説”は太地さんの虚言だったのか? 山田さんも真相を墓場まで持って行った。
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