「僕にとってはすべてだった」。憧れたダンスカンパニーの最終オーディション2日前に暴走運転の車に轢かれ、左足の膝から下を失ったダンサーの大前光市さん。突然奪われた将来への光と「なんで俺が!」という深い葛藤。「普通」を目指す苦しみを経て、障がい者としての自分を受容できるまでの、決して美談ではない道のりとは。

【写真】義足をつけて必死にダンスの練習に励んだ事故後の大前さん(9枚目/全14枚)

「なんで俺が!」夢の目前で左足を切断

現在は舞台や講演会、ワークショップ等で全国を飛び回っている大前さん

── 義足のダンサーとして2016年リオパラリンピックの閉会式に出演。17年紅白では平井堅さんの歌に合わせてダンスを披露した大前光市さん。しかし、その華やかな活躍に至るまでには、想像を絶する日々を過ごしたと聞きます。そもそもダンスに興味を持ったのは中学2年生のとき、学校の演劇で準主役を務めたことがきっかけだったそうですね。その後の人生にも大きな影響を与えたとか。

大前さん:実は小・中学校でいじめに遭っていたんです。一つ年上の姉に発達障害があったので「お前の姉ちゃんはアホだから、お前もアホだ」と言われていました。それが、中学2年生のときに演劇で準主役を演じたところ、体育館から大きな拍手と歓声を浴びて、その日からいじめがピタッと止んだんですよ。「僕が輝ける場所はここだ!」と確信し、将来は舞台に立つ仕事をしようと思いました。高校は演劇部に入部。家が裕福ではなかったので新聞配達のバイトをしながらダンス教室のレッスン代を稼ぎ、大阪芸術大学・舞台芸術学科舞踊コースに入学しました。

── 大学卒業後はダンサーとして活動を続けていきますが、人生を一変させる出来事が起きます。

大前さん:24歳のとき、ずっと憧れてきた舞踊家の金森穣さんが新たなダンスカンパニー「Noism」を創設すると聞き、メンバーのオーディションを受けました。1次、2次と合格し、最終オーディションにまで辿り着いたんです。その2日前の夜のことでした。雨の中、道を歩いていたら、暴走運転の車にはねられたんです。

「バーン!」というものすごい衝撃音とともに空中に飛ばされ、一瞬真っ暗になって何が起きたのかわからない。左足を見ると血が溢れ、肉から骨が見え、左足を上げようとしても動きませんでした。状況を理解した瞬間、どうしようもない悔しさが込み上げてきて「なんで俺が!」と、思わず叫びました。

救急車で病院に運ばれると医師が来て、「大前くん、この足ね、切断しなきゃダメかもね」と言われました。神経が切れ、綺麗に洗って繋ぎ合わせてもいいけど、かなり歩きにくい。それより義足を作ったほうが歩きやすいって言われたのかな。他に選択肢がない状況で。翌日、目が覚めたら左膝の下が切断されていました。

短くなった左足の膝辺りがバスケットボールぐらい腫れあがっていて、麻酔が切れると激痛が走りました。でも、最終オーディションですぐに新潟に行かなきゃいけない。車椅子で現場に向かおうとして看護師さんに止められて…。「何言ってるの?」って思われるかもしれないけど、僕にとってはそれがすべてだったし絶対受かりたかったんです。

「普通に近づいてきたね」の言葉への違和感

初めて義足をつけたときは違和感だらけだった

── 今まで思い描いた夢が目の前に迫っていたところで…。その後、4か月入院して退院すると、義足をつけてダンスを再開することに。しかし、ここでも困難が待ち受けていました。

大前さん:今まで当たり前にできていた動きがまったくできませんでした。簡単なステップでさえ転んでしまうし、足があったときのことを体が覚えているのに動けない。徐々にできなくなったのではなく、ある日突然できなくなる絶望、悔しさ、葛藤…。同じように練習していた人たちが活躍していく姿を見て余計につらくなりましたね。「クッソ!」って。

それでも必死に練習して「Noism」の年1回のオーディションを毎年受け続けました。ここに入れなかったら今までやってきたことが全部否定される気がして、すごく執着していたと思います。でも、4年目のときに「きみはNoismのダンサーにはなれない。これ以上オーディションに来なくていい」と言われてしまったんです。目の前が真っ暗になって、その場で泣いてしまいました。

僕もどこか期待していたんだと思います。たまに代表の金森さんにメールをするといい感じで返信をいただきましたが、そうじゃなかった。プライベートで優しくても自分が使うダンサーとしては違う。僕は頑張ったらなんとか使ってくれるんじゃないかって甘えというか、すがるような気持ちがあって、たぶん見抜かれていたんじゃないかなと思います。

── また、学生時代から「バレエ」を踊っていましたが、そこでも苦しんでしまうことに。

大前さん:当時はどれだけ見本と同じような動きができるかが評価されていました。僕も義足をつけて普通の人が踏むステップに必死で近づこうとしましたが、まったくうまくいかない。しかもみんなと同じように長時間踊ると激痛で持久力ももたない。現実を受け入れられず、「義足をつけても義足と思われたくない。障がい者と思われたくない。なんなら元に戻りたい」。そんなイライラが募って「みんな死ね!」って思ってました。かわいそうと扱われることが耐えらなかったし「そんな目で僕を見ないでよ!」って、周りとの距離感を感じてすごく孤独でしたね。

それでも少しずつ前と同じように動けるようになっていくと、年数回ですが、舞台にも復帰するようになりました。周りの人も「よくなってきてるぞ」って褒めてくれました。

でもあるとき「障がいがあるのにすごいね」「普通の人に近づいてきたね」と言われて、すごく違和感があったんです。普通の人に近づいても普通にはならないし、越えられない。周りが褒めてくれても、プロのバレエダンサーとして見られているかは別なんですよ。レッスンに行くのもだんだん苦痛になって、28歳のときにバレエを辞めました。

「これじゃ障がい者丸見えじゃないか」

── つらいですね。しかし、腐ることなくダンサーとして別の方法を模索し続けたとか。

大前さん:元来負けず嫌いなので、ダンサーとして見返したいってずっと考えてました。バイト生活を続けながら20代後半になったとき、今所属しているアーティスト集団「Alphact」と出会い、参加することに。

あるとき、左足が疲れたので義足を外して右足だけで踊っていたら、みんなが「すごく自然でいいね」と言ってくれたんです。当時の僕は尖っていて、「これじゃあ、障がい者丸出しじゃないか」って思いました。でも、まずは仲間たちの声に従って義足なしで舞台に出てみたら、今までにない評価を得たんです。「これだ…!」と思いました。

その後も日々練習を重ねながら少しずつイメージが見えてくると、僕の表現者としての形が作られていきました。自分が義足をつけてもダンサーとして自立すれば、健常者のダンサーと肩を並べても勝負できるダンスができる。僕にしかできない表現ができると思って、普通になることへの執着も徐々に手放せるようになっていったと思います。

──「Alphact」のメンバーの存在も大きそうですね。

大前さん:かなり大きかったです。それまでずっと孤独だったので、Alphactの仲間たちがいなかったら厳しかったですね。自分のことを「かわいそう」じゃなくて、ひとりの個性的なスキルを持ったダンサーとして見てくれたので、自信を失わずに済みました。

── その後、舞台の経験を積みながら2016年にはリオパラリンピックの閉会式でダンスを披露することに。

大前さん:パラリンピックの方から連絡がきたのですが、最初は何を言われてるか、すぐにわからなかったですね。

いざブラジルに行ってパラリンピックでダンスを披露し、日本に帰国すると、これまで経験したことがないくらい注目されました。今までAlphactのお客さんの前でしか自信が持てませんでしたが、世界から評価されたことで手応えを感じ、個性を認めてもらえたことが確固たる自信に変わりました。

これは決して美談なんかじゃないけれど

── 17年には紅白に出場し、平井堅さんの歌と共にダンスを披露されました。ダンスの振り付けは辻本知彦さんでしたが、辻本さんは大前さんと年齢が近く、Noism出身の方です。複雑な思いはありましたか?

大前さん:正直はじめはありましたよ。米津玄師などの有名なアーティストの振り付けを担当している憧れのダンサーでしたし、何より僕があれだけ入りたかったNoismに彼は入れた人です。勝ち組と負け組、光と影というか。でも、紅白が終わるとここでも大きな反響をいただくことができました。悔しさがゼロになったわけではないけれど、僕の今までの状況を知ったうえで一緒に紅白のダンスを作り上げてくれたおかげというか。この経験で、自分のなかで少し前に進んだような気がします。

事故から20年以上経ちましたが、大きな経験を経て、今はとてもいい環境で過ごさせてもらってます。でも、障がいを受容して自分を認められるようになるまで10年かかりました。悩み、苦しみ、怒り…美談なんかでは、まったくないです。当初、自分が思い描いていた人生とは形も変わりました。

ただ、今となっては方向性が変わってもいい、自分が自分らしくいられる場を見つけたことで、自分を認めることができたと思います。見本に合わせる生き方もありますが、僕は僕らしく、自分のスタイルで生きていることを誇りにもっています。

取材・文:松永怜 写真:大前光市