玉木氏の不倫騒動が「国民民主の躍進」に繋がる訳
今回の不倫騒動に対して、SNS上では「玉木潰し」「国民民主党潰し」「露骨な財務省の陰謀」と書かれた投稿に数十万ないし数百万単位のインプレッションが表示されている(画像:本人の公式Xより)
先日の衆議院選挙で大きく議席数を伸ばした国民民主党。11日には、玉木雄一郎代表に関する不倫報道が写真週刊誌に掲載(同日に会見を実施し、事実関係をおおむね認める)されるなど、色んな意味でニュースの中心となっています。
イメージ低下につながることもある不倫ですが、玉木氏の場合は、ネットを見る限り声援のほうが多い状況です。なぜなのでしょうか。新著『人生は心の持ち方で変えられる? 〈自己啓発文化〉の深層を解く』も話題の評論家、真鍋厚氏が解説します。
衆院選で大躍進した国民民主党に激震が走った。
玉木雄一郎代表が「高松市観光大使」を務める元グラビアアイドルの女性と不倫関係にあることなどを一部週刊誌が伝えたためだ。同日、玉木代表は「報道された内容については、おおむね事実」と認め、家族・支持者に対する謝罪の言葉を述べた。
ただ、榛葉賀津也幹事長は、記者団に「党のために私自身が玉木氏を今は支える時だ」として代表の続投を求め、国民民主党の両院議員総会でも続投を了承した。
SNSでは「政治家としての資質が重要」の声
SNSでは、不倫は信用問題であり、政治家としての資質を問う声が上がる一方で、不倫はプライベートの問題であり、家族内で解決すべきことで、政治とは切り離して考えるべきとの論調が多い印象だ。
スキャンダルで失速せずに政策推進に努めてほしいという投稿も少なくなく、特にX(旧Twitter)上では、後述するが「玉木潰し」がトレンド入りし、応援するユーザーが目立っている。
前回の記事(玉木氏「不倫報道」も無傷? 国民民主が大躍進の訳)で筆者は、国民民主党を「ハイブリッド型のポピュリズム」であると分析したが、このような視点で見ると、今回の不倫騒動はかえってポピュリズムという運動の火に油を注ぐ結果になる可能性が高いと思われる。
まずポピュリズムには2つの定義がある。「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える」タイプと、「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」タイプだ(水島治郎『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』中公新書)。
前者の例は、最近だと2017年の希望の党や枝野フィーバーによる立憲民主党など、後者の例は、れいわ新選組、参政党、日本保守党などの台頭が該当するが、とりわけ後者のポピュリズムは抵抗勢力との闘争が燃料になりやすい。
後者のポピュリズムは、前掲書によれば、自らが「人民」を直接代表すると主張して正統化し、広く支持の獲得を試みる、「人民」重視の裏返しとしてのエリート批判、「カリスマ的リーダー」の存在、イデオロギーにおける「薄さ」に特徴がある。
その点を踏まえて、筆者は、「103万円の壁」の見直しを事実上のシングルイシュー(単一論点)政策として掲げ、「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴え」つつ、「人民」重視の裏返しとしての(政策に反対する、あるいは疑問視する)メディアや政党などに対する批判を展開していく絶妙なスタンスと評した。
つまり、ポピュリズムの2つのタイプをうまく組み合わせた「ハイブリッド型のポピュリズム」を実践していると考えたのである。なぜなら、後者のポピュリズムにおける「エリート批判」と「カリスマ的リーダー」という要素が弱いことにより、急進化する傾向が比較的抑制されると推測されるからだ。
実際、国民民主党は「政策優先」で、政権交代のような「政党優先」の立場を取らないことを表明しており、玉木氏の「政権の延命に協力しない」発言は好意的に受け止められた。そういう意味で「ソフトなポピュリズム」と言い換えることができる。
不倫騒動がポピュリズムを加速させる
だが、今回の騒動は、後者のポピュリズムに付きものの「敵対勢力」「既得権益」からの攻撃や裏工作のようなものと認識され、むしろ玉木代表や国民民主党の支持層の結束を強めることになるかもしれない。
当たり前だが、明確な証拠がない限りは陰謀論の域を出ない。けれども、直近の国政選挙で急伸した党の代表、しかも国民生活に直結する減税などの実現を左右する重要な人物が、首相指名選挙直前のタイミングで「不倫報道がなされた」という事実だけで十分なのだ。
すでに田中真紀子元外相は、不倫報道についてある情報番組で「やっぱりマスコミと、政界の反玉木か知らないですけど、反国民(民主)か、そういう癒着がえらく分かりやすく出てきて」などとコメントしているが、同様の思考はX上に溢れ返っている。
「玉木潰し」「国民民主党潰し」「露骨な財務省の陰謀」と書かれた投稿に数十万ないし数百万単位のインプレッションが表示されている。
「出る杭は打たれる」――同党に降りかかるスキャンダルは、旧態依然とした体制に固執し続ける守旧派の悪だくみの疑いが濃厚であり、そうでなくても彼らはそれを最大限利用して信頼を失墜させようとする――という善と悪の闘争の物語に火をつけるのだ。
国際政治学者のP・W・シンガーとアメリカ外交問題評議会客員研究員のエマーソン・T・ブルッキングは、SNSの「注目争奪戦」において、物語が定着するかどうかを決定するのは「シンプルさ」「共鳴」「目新しさ」の3つだと述べた(『「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア』小林由香利訳、NHK出版)。
「政治家、ポップスター、ヘイト集団、反ヘイト集団の誰であれ、『物語』を自分のものとし、観察者の感情を呼び込み、信憑性を与え、その結果コミュニティを構築できた者が新たな勝利者となる」と。
しかし、これは自分から注目に値する事件を積極的に作り出していくような自作自演の側面が強い。今回の騒動は、予期せぬスキャンダルによって結果的に「物語の新たな一章」が紡がれたところに大きな違いがある。
ネット上では、スピーディな謝罪会見の開催と謝罪の潔さを評価する声が意外にも多く、SNSでは動画とともにシェアされるなどしている。
また、前述したように善と悪の闘争の物語として人々の興味を呼び起こす起爆剤となりつつある。これもシンガー=ブルッキング的な「物語」に人々を巻き込んでいく感情の動員となり得る。
そして、それはポピュリズムと非常に相性がいい。選挙後、国民民主党の公認キャラクター「こくみんうさぎ」のぬいぐるみの売り切れが続出したように、アテンション・エコノミー(注目経済)は、出来事そのものの評価などお構いなしに予想外のムーブメントを引き起こすのである。
とは言え、消去法的な支持者も少なくない
もちろん、それでも国民民主党に期待が集まるのは、現実的な消去法でしかない面もある。
「失われた30年」どころか「失われた40年」に向かって、日本を地の底に引きずり込むかもしれない自公連立政権もトラウマだが、かつて公約にない消費増税を強行した野田佳彦代表率いる立憲民主党もトラウマである。
要は、与党にも野党にも「庶民の声」が届いていないと多くの国民が感じているのだ。ならば、政治家の資質についても、私生活上の問題よりも「政策優先」で判断するのは合理的といえるだろう。
そもそも政治家も人間なのだから、聖人君子を求めるほうがどうかしている。世界的に見ても、日本のような不倫報道による謝罪文化は異様である。
では、不倫バッシングと有名人の社会的な抹殺にいい加減嫌気が差し、ほどよいリアリズムへの転換を表しているのかといえば、それはまったく違うだろう。
現在起こっているのは、「なるだけ早期に自らの非を認めて、誠意を込めて謝罪する」という、いかにも日本的な禊(みそぎ)の儀式を経た上での受容に過ぎないからだ。
魅力的な物語、ゆえに注意が必要だ
ポピュリズムを含めた政治的な熱狂は、わたしたちの日々の不安と不満の表れである。それゆえ、善と悪の闘争の物語はエンターテインメントとしても魅力的であり、ついつい感情の動員に無防備になりやすい。
だが、今やこのアテンション(注目)なくしては新興政党の支持が広がらないのもまた事実なのである。何が正しくて何が間違っているのか。
わたしたちにとってこの自問自答は瞬間瞬間に生まれては消えるものであると同時に、いつ終わるとも知れない長い道のりの始まりでもあるのだ。
(真鍋 厚 : 評論家、著述家)