『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、首里城と尚泰王です。

2019年に首里城が全焼

いま、この首里城の写真を見るのがつらいです。「私たちにとって神様みたいな首里城が燃えている。涙も言葉も出ない」―――近所の人は、首里城を包む炎を見ながら呆然と語っていました。

2019年10月31日深更、首里城が全焼しました。首里城は沖縄の方々の「心」そのもの。正殿は太平洋戦争・沖縄戦で消失、1992年に復元され、漆の塗り直し作業が完了して、まだ一年もたっていません。無念です。

守礼門 Photo by Adobe Stock

琉球は海洋国家

さて沖縄の歴史は、たいへんにわかりにくいものです。明治維新以前は琉球王国があり、尚氏が治めていました。1429年、尚巴志(しょうはし)が琉球を統一し、琉球王国が誕生します。琉球王国は大和(日本本土)や明、朝鮮、ジャワ、マラッカなどとの交易で栄えた海洋国家でした。

ところが1469年、伊是名島(いぜなじま)の農民出身である金丸が、クーデターによって政権を奪取、尚円王として王位を継承します。琉球王国の歴史を見る場合、政権交代以前の王朝を第一尚氏王統、尚円王以降を第二尚氏王統と分けて呼んでいます。

中国の冊封使を迎えていた琉球

琉球は尚氏の統一以前から、中国の冊封使(さくほうし)を迎えていて、明の永楽帝が冊封使を送った記録も残っています。冊封とは中国の皇帝に貢ぎ物を出し服従を誓い、王として認めてもらうことです。つまり冊封使は、琉球国王が新たに即位する時、中国皇帝が国王として認める使いということです。

これは琉球王国にかぎったことではなく、東アジアの各国は、明や清の皇帝と冊封体制を作っていました。

首里城から眺めた市内 Photo by Adobe Stock

薩摩に降伏

ところが慶長14(1609)年、薩摩の島津軍が3000人を超える大軍で琉球に侵入し、首里城も陥落。尚寧王(しょうねいおう)は降伏します。当時の薩摩藩は秀吉の朝鮮出兵による疲弊に加え、関ヶ原で西軍についたことから家康に睨まれ、江戸城普請を命じられるなど財政的にたいへん苦しい時でした。

いっぽう、徳川幕府も明との交易を望んでいました。鎖国のイメージが強い徳川幕府ですが、家康の頃は秀吉の時代に悪化した明との関係を見直し、貿易によって国を富ませようとしたのです。

そして、琉球を介し、16世紀半ばから途絶えていた日明貿易の再開を目論んでいたのです。そういった背景のもと、慶長11(1606)年、家康から島津家の当主・忠恒が諱(いみな)をもらって家久と改名した際に、琉球出兵の許可が下りました。

しかしこれは、家康側にすれば「貿易を可能にするためには武力を使ってもいい」というニュアンスであったのに対して、島津側はダイレクトに「戦争によって屈服させる」ととらえていました。

首里城の城壁 Photo by Adobe Stock

「琉球征伐」と「薩摩の侵攻」

薩摩軍は琉球王国の領土である奄美大島、徳之島、沖永良部島を攻略し、沖縄本島の運天港に上陸、今帰仁城を落とし、首里城も占領します。この薩摩の軍事行動を「琉球征伐」と呼びますが、琉球側は「薩摩の侵攻」と呼んでいます。

尚寧王は徳川幕府への臣従を誓うよう求められ、駿府城で大御所となっていた徳川家康と、江戸城では第2代将軍徳川秀忠に謁見し、琉球王として認めてもらう代わりに、徳川幕府への従属を余儀なくされます。

これ以降、琉球王国は明(後に清)、徳川幕府、薩摩藩と三国に従属させられるかたちとなります。特に薩摩藩は奄美諸島を直轄地にし、サトウキビの栽培を奨励し、黒糖貿易で大きな利益を上げるなど、厳しい搾取を続けていくのです。

首里城まで押しかけたペリー

嘉永6(1853)年、アメリカ海軍のペリー提督は、浦賀に向かう前に琉球に立ち寄って、開港を求めています。翌年、日米和親条約が結ばれると、琉米修好条約も結ばれました。琉球はかたちとしては独立国だったからです。

当時の琉球王国は第二尚氏王統第19代の尚泰王が治めていましたが、首里城まで押しかけたペリーをどんな目で見たでしょう。

首里城公園の様子 Photo by Adobe Stock

明治政府は尚泰王を琉球藩王とした

明治維新の後、全国で廃藩置県が断行されると、明治5(1872)年、明治政府は尚泰王を琉球藩王としました。さらに明治12(1879)年には琉球藩の代わりに沖縄県が設置されて王の地位を奪われ、家族ともども首里城から追い出されて東京移住を命じられます。この明治政府の政策を「琉球処分」と呼びますが、尚泰は侯爵に列せられたものの、死ぬまで琉球には戻れませんでした。亡骸は琉球王家の陵墓、玉陵(たまうどぅん)に葬られています。

現代にも横たわる沖縄の複雑な問題を考えるうえで、江戸時代、明治時代、昭和の太平洋戦争、そして平成の米軍基地と、いつの時代も日本は琉球に犠牲を強いてきたことに思いをいたさねばなりません。それにしても、一刻も早い首里城の再(々)建を、読者の皆様と一緒に、祈るばかりです。

歓会門(かんかいもん) Photo by Adobe Stock

【首里城】
1429年から1879年までの450年間琉球地方を治めた琉球王国の政治と文化の中心が首里城。国王とその家族の住居であり、行政機関「首里王府」の本部でもある。もう一点重要なのは各地の神女(しんじょ)を介して王国の祭祀を司った中心地でもあったこと。明治12(1879)年、首里城から最後の王・尚泰王が追放され琉球国は滅んだ(琉球処分)。その後首里城は太平洋戦争で灰燼に帰し、平成4(1992)年に再建され、平成12(2000)年、世界遺産となった。2019年10月31日未明の火災で全焼、多くの募金が寄せられ、一日も早い再建が期待される(トップの画像は、消失前のもの)。
住所:沖縄県那覇市首里金城町1-2
電話:098-886-2020(首里城公園管理センター)

【尚泰王】(しょうたいおう)
1843〜1901年。琉球国最後の国王。1848年、わずか4歳で即位した。1853年には、ペリーが琉球に来航し、翌1854年、琉米修好通商条約を締結。このあとペリーは浦賀に向かい、「黒船来航」と大騒ぎになる。琉球は清の朝貢国であり、薩摩と江戸幕府の従属国でもあったが、明治維新後の明治5(1872)年、琉球王国は琉球藩8万900石となり、尚泰王も琉球藩王となった。明治12(1879)年、明治政府は尚泰王を東京へ連行、琉球藩はなくなり、沖縄県となった。その後、尚家は国王であったことから、当時15万石以上の大藩知事に与えられた侯爵に列せられた。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は、焼失前の正殿(「Webサイト 日本の城写真集」より)