国内最大の暴力団「山口組」にも、弁護士資格を持った「顧問弁護士」がいるのをご存じだろうか。近年はユーチューバー、作家として活動している山之内幸夫氏は長年にわたり、この特異な仕事を務めてきた。

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「ヤクザとは何か」「なぜヤクザになる人がいるのか」といったテーマについてYouTubeや著作で発信を続けている山之内氏は、貧しい生い立ちから猛勉強で弁護士になり、なぜ暴力団の顧問弁護士を引き受けることになったのか――。(全3回の1回目/続きを読む)

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山之内幸夫氏 ©深野未季/文藝春秋

ーー山口組の弁護士を長く務められた山内さんですが、子供のころはどんなお子さんだったのでしょう。

山之内 母の故郷の(香川県の)小豆島で昭和21(1946)年4月に生まれ、その後、大阪に移りました。父は魚店を営んでいましたが、儲かる商売ではなく貧しかった。裕福ではなかったですが、父と母、兄と妹の5人家族で不幸ではありませんでした。

ーー工業高校に進学した理由は。

山之内 大学なんて無駄飯を食いに行くところで手に職を付けた方がよいという感覚でした。両親にはまともに学歴がなく、子供をどのように指導していけばいいか分からなかった。高校を卒業して家計を助けるまでではなくとも、自立して自分で食っていこうと考えていました。

“劣等生”から早稲田大学法学部に合格

ーー高校時代に大学で法律の勉強をしようと目覚めたのでしょうか。

山之内 全くないです。勉強するのが嫌で本当に劣等生に成り下がってしまった。よく卒業証書をもらえたなと。

ーーそれで難関とされている早稲田大学の法学部に合格するというのは意外です。

山之内 高校3年の時に自転車で約1カ月間、北海道を回ったことがありました。道中でサイクリングをやっている同志社大学の学生たちと知り合って、20日間ほど一緒に北海道を回りました。彼らとの毎日の生活で私も大学に行きたいなとの気持ちが芽生えたのです。兄は優秀で、すでに早大商学部に行っていたので後を追いたいと思いました。そこから猛勉強して1年間、浪人して合格しました。

ーー法学部に進学しようとした動機は。

山之内 京都の予備校で浪人の時に下宿先の息子さんが司法試験を受けていました。日本で最も難しい試験だと聞いて挑戦したい気持ちになったのです。弁護士になりたいという気持ちではなく、困難な道を突破したい。若い時のエネルギーをぶつけたいという考えですね。

司法試験に合格するため1日14時間以上の猛勉強

ーー先ほど子供のころは、「貧しかった」とのお話でした。経済的に苦しかった家庭で子供2人を東京の大学に進学させて、ご両親は大変だったのでは。

山之内 本当に感謝しています。特に母ですね。母は無学なのですよ。読み書きができませんでした。それでも、子供に対する愛情がありました。昼間の商売だけでなく、夜は日本橋の黒門市場で、てっちりの夜店をやっていまして。夜、寝ないで店の前で屋台を作ってそこで商売をして。父の魚屋だけでは十分ではなかったので。

ーー大学に合格してご両親は喜ばれたのではないですか。

山之内 息子たちの進学はすごいことだと喜んでくれましたが、どれほどの意義があるのか、将来性があるかは分かっていなかった。長男が合格し次男も続いた。ただ、東京で勉強するための生活を支えようという強い愛情はありました。兄は後に公認会計士の試験に合格したのですが、会計士や弁護士がどういう仕事かも分かっていませんでしたね。

ーー学生生活の4年間はどのように過ごしていたのでしょうか。

山之内 勉強は毎日、狂ったようにやっていましたね。法学部の読書室で朝の8時半から夜の7時まで。下宿でまた12時近くまで勉強です。大学の授業にはほとんど出席せず、ギリギリ(単位を)取れるだけ。後は徹底的に司法試験の勉強でした。日曜日だけは休んで、高田馬場の安い映画館で3本立てとかを観るのが楽しみでした。

ーー友人やアルバイトの思い出は。

山之内 友達を作ったらダメだというのが分かっていたのでいませんでした。楽しくなってしまって、そっちに流れて気が散ってしまうので。アルバイトもしませんでした。アルバイトをしていた人は(司法試験に)通りにくかった。

大学を卒業後、1年半で司法試験に合格

ーー仕送りの恩に応えるためにも必ず司法試験に合格するという気持ちだったのですか。

山之内 大学の目標はそれひとつでした。大学を卒業後、司法試験の浪人を1年半して合格しました。弁護士になってからは、ずっと(両親に)生活費を渡していました。亡くなるまで。

ーーこの時代1年半での合格は早い方ですね。

山之内 早い方でした。かなりな年になっても、いまだに受験しているなんていう司法試験浪人という人たちは多くいました。今は合格者が多くなり、逆に弁護士の数が多く飽和状態。稼げない人もいますね。今は弁護士といってもそれほどおカネにならないです。

病院に行ったら果物ナイフを突き出され…弁護士事務所時代に遭遇したヤクザたち

ーー大阪で弁護士登録し損害保険会社の顧問弁護士事務所に就職なさった。どのような仕事だったのでしょうか。

山之内 損保会社が対応しきれない面倒な交通事故の処理をしていました。被害者の代理人と称した、暴力団とか右翼とかを名乗っているような人たちが、実際には何の症状もないのに「むち打ち症になった」と言って賠償請求してきたりするんです。しかも加害者ではなく保険会社に因縁付けて脅しに来る。それに対応するのですが、ほとんどは実態のない賠償請求だったので詐欺か恐喝だと思っていました。

ーーこの時代は暴力団を規制する法律がなく、暴力団による民事介入が日常茶飯事だったのですね。

山之内 警察は民事不介入ですから。後に暴力団対策法で禁止規定が設けられましたが、示談屋の行為、この時代はすごく流行っていました。

ーー弁護士になったとはいえ暴力団に対応するノウハウはない。自分で対処方法を考えたのですか。

山之内 弁護士事務所のボスは忙しすぎて構ってくれないので、自分でやるしかなかったです。そういった面倒な案件を嫌がらずにやっていたらボスに頼りにされて暴力団の案件ばかり回ってくるようになりました。私としては暴力団弁護士が負かされてたまるかと、プライドだけでやっていました。

ーー弁護士になった際、ヤクザと接点がある仕事をすると思っていたのでしょうか。

山之内 全然。それまでヤクザなんて全く関心がなかったですもの。大学時代も若いころも。

ーーヤクザを相手にする怖さは。

山之内 少しヤバいなと思ったことはありましたけどね。電話で散々、言い合ったあと、「お前、来い」というから、入院先の病院に行きました。病室に入ったら果物ナイフで突っかかって来たことがありました。その人は何回も事故を起こしている人物でした。

ーー交通事故処理の仕事をしながら、競売屋ともやり合ったと。

山之内 誰かの不動産が差し押さえられて競売になった時に、ヤクザがその物件を占有して誰も落とせなくしてしまうんです。そうして値段が下がったところでヤクザ自身が安く買いたたいて、転売で儲けるのが「競売屋」です。私は依頼者から頼まれて、ヤクザに明け渡しの交渉に行ったこともあります。本来なら裁判所に仮処分請求をするのですが、時間がかかるため私が直接交渉に出向きました。すると暴力団員がゴロゴロいて『お前、何じゃ』『弁護士がどないした』と凄まれました。

ーーそれは出て行ってくれたのですか。

山之内 全然、全然。

ヤクザとやり合っていたら、いつのまにか信頼を獲得し…

ーー損保会社の仕事でヤクザとやり合いつつ、「強気な弁護士がいる」との噂が広まり、ヤクザから刑事弁護の依頼が増えてきたそうですね。

山之内 そうなんです。(3代目山口組時代の最高幹部の)小田秀臣さんが率いた小田秀組傘下の人が私のウワサを聞きつけて、刑事裁判の弁護を依頼してきました。後に親分の小田秀臣さんに紹介されたんですが、「ヤクザも顧問弁護士を持たなあかん時代や」という考えの人でした。

ーーそれで小田秀組の顧問を引き受けたのですね。仕事内容、顧問料はいかがだったのですか。

山之内 顧問を始めたのは昭和54(1979)年、55(80)年ごろ。顧問料は月に5万円。傘下団体の組員の刑事弁護を引き受けることが多かったです。組員はたくさんいますから。若い衆がケンカしたとかは日常のこと。暴力団にとって弁護士は必要だった。民事介入暴力のような違法な仕事を手伝ってくれと頼まれることもありましたが、あくまで弁護士以外の仕事はきっちり断っていました 。

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 山口組傘下の小田秀組の顧問弁護士から始まった山之内氏の仕事は、さらに巨大組織全体へのアドバイザーとして活動範囲を広げることになる。#2では顧問としての活動だけでなく、山口組最高幹部たちとの知られざる交流についても詳細を明かしていただいた。

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(尾島 正洋)