現在91歳、驚異の体力と肉体を持つ稲田弘さん。「世界一過酷」と言われるアイアンマンレースに出場する現役の選手だ(撮影:風間仁一郎)

今年、厚生労働省が発表した「令和5年簡易生命表」 によると、65歳を迎えた人のその後の平均余命は、男性19.52歳、女性は24.38歳だった。

また、90歳を迎える人の割合は男性26%、女性に至っては50.1%にもなる。超高齢化が進み、「人生100年時代」を迎えている現代、長い老後はもはや余生ではなく、人生のセカンドステージであろう。

【写真】驚異の肉体を持つ91歳! 77歳の時と肉体のピークだったという85歳の時の身体を見比べる(7枚)

70歳のとき、最愛の妻を失った

今秋92歳を迎える稲田さんにとって、人生のセカンドステージで迎えた転機は、70歳のときだった。その後の人生そのものとなるトライアスロンに挑戦した歳であり(前記事)、43年間連れ添った最愛の妻を失った歳である。

3歳年下だった妻は42歳のときに、血小板減少性紫斑病という国の指定難病を発症。自宅療養と入退院をくり返しながら、長い闘病の末、入院先の病院で稲田さんに見守られながら、静かに息を引き取った。享年67。

「亡くなる2日前は妻の誕生日だったんです。僕が小さなバースデーケーキと花束を買って病室を訪れると、にっこりと笑ってベッドからゆっくりと体を起こしてくれました。寝たきりの入院生活でしたが、その日は調子がよさそうで、2人でケーキを食べてお祝いをして、他愛のないおしゃべりを楽しみました」

稲田さんが自宅に帰り着いた頃、妻の容体が急変。2日後に亡くなった。病室の花瓶に生けた誕生祝いの花は、小さなつぼみがきれいに咲き始めていた。

闘病生活二十数年の年月の重みに比べたら、その最期はあまりにも唐突で、現実のこととは思えなかった。長い年月の折々で、その日を迎える覚悟もそれなりに持った。しかし、稲田さんにとってのリアルは、「覚悟」よりも、今日を生き、明日を迎える妻の命の積み重ねのほうだった。

茫然自失となった稲田さんはその後の3カ月間をどうやって暮らしていたのか、ほとんど記憶がない。顔から表情が消えて、うわごとばかりつぶやいている稲田さんの様子に、息子は「親父、ボケたか?」とたいそう心配したという。

そんな稲田さんを現実の世界に引き戻したのが、トライアスロンの大会出場だった。妻に内緒でトライアスロンの大会に初めて出場したのは、妻が亡くなる3カ月前のこと。

「トライアスロンへの挑戦を伝えたとき、妻は寝たきりのベッドで『パパが一生懸命になれることを見つけて、私はうれしい。私ができないぶんもがんばって』と言ってくれたんです。僕は妻の言葉がうれしくて泣きました。だから、やっぱりトライアスロンをがんばらなきゃいけないなと思ったんです」


トライアスロンを始めて7年。77歳当時の稲田さん。現在はさらに体が締まっている(写真:稲田弘さん提供)

偶然が重なった妻との出会い

新卒でNHKに入局し、記者として飛び回っていた稲田さんが妻と結婚したのは27歳のとき。彼女とは取材先の和歌山県白浜海岸で出会った。観光バスのバスガイドをしていて、稲田さんが取材した民謡コンクールに出場していたのだった。

「ものすごく声がよかったけれど、歌がまったくだめ(笑)。アンバランスなところが印象に残りました」

その数カ月後、再び和歌山県に新しくできた温泉施設を取材することになり、観光バスに乗ったら、偶然、バスガイドが妻だった。

「この前、お会いしましたね」と話しかけると、「私も稲田さんを覚えています」とはにかむ。やっぱりいい声だった。

数カ月後に初めてデートらしいことをして付き合いが始まり、2年後に「結婚してくれないか?」とプロポーズした。

「妻は本当にやさしくて人を思いやる気持ちを持っている女性。結果的に僕が惚れちゃったんですね」

結婚後の新居は、現在も暮らす千葉県八千代市にかまえたが、稲田さんは転勤が多く、トータルで8年間の単身赴任をくり返した。正直、家庭のことは妻に任せっぱなしだったかもしれない。

妻は単身赴任先にもよく会いに来てくれて、一緒にテニスを楽しんだり、大学時代に山岳部だった稲田さんの手ほどきを受けて、山に登ったりした。

「ハイキング程度の山登りでしたが、初心者の妻のほうが岩場なんかもパパパッと登っていくんです。僕は仕事が忙しくて万年運動不足だったから、『おーい、ちょっと待ってくれや』なんて叫んだりしてね」

妻の病気が見つかったきっかけは、自転車で転倒したことだった。

「転倒してできた傷口の出血が止まらないため血液検査をしたところ、血小板減少性紫斑病という難病を発症していることがわかりました。血小板が減少し、出血しやすくなる病気です。すぐに大きな病院に変えて、しばらくは通院治療をしていましたが、だんだん病状が重くなり入退院をくり返すようになりました」


2018年、85歳のときにアメリカ・ハワイ州のコナで行われたトライアスロンの大会で優勝した。この6年前の大会でも優勝している(写真:稲田弘さん提供)

定年退職後の人生は介護を選択

発症当時も稲田さんは単身赴任中だった。介護保険制度もなかった昭和の時代。稲田さんは少しでも妻のそばにいられるように、自宅に近い千葉の支局に異動させてもらって妻の闘病を支え続け、定年を迎えた。

65歳まで定年を延長する選択もあったが、稲田さんは自宅で療養する妻の介護に専念するため、迷うことなく60歳で退職する

こうして60歳から妻の在宅介護の日々が始まった。

単身赴任の8年間は自炊していたので、食事作りはもちろん、掃除、洗濯、ごみ出しといった家事全般は苦痛ではなかった。料理教室に通って病人食の作り方を覚えて、妻のために料理をした。自分の身のまわりのことも自分でできる。

その一方で、「自分の給料がいくらなのかも知らなかった」という稲田さんは、退職後、妻がコツコツと貯めた預金や老後に備えた各種の保険などがあることを初めて知る。

「妻も仕事をしていたのに、僕は家のことは全部妻に丸投げしていたんです。40年のサラリーマン生活を全うできたのは、妻が僕に仕事だけをさせてくれたから。感謝しかありませんでした」

自宅介護が始まった頃は比較的病状が安定していて、稲田さんは運動不足を解消するため、近所のスポーツジムに泳ぎにいく余裕もあったし、妻が寝ているときは自室で趣味のギターの弾き語りをするひとときもあった。


愛車を置いているリビングで、ギターの腕前を披露した稲田さん(撮影:風間仁一郎)

「あるとき、妻に『パパ、あの歌はうまいわね』とほめられたこともありました。寝ていると思っていたら、聞こえていたんですね。妻の前では歌ったことは一度もありませんよ。だって、恥ずかしいじゃない(笑)」

しかし、徐々に妻の血小板の数値が下がり続け、帯状疱疹を発症する。

自宅のベッドで皮膚が焼けるような痛みに苦しむ妻を見ながら、稲田さんは無力感に苛まれるようになっていく。痛みを代わってあげられない。どのくらいの痛みなのか、感じることもできない。「痛がっていてかわいそうだ」と思うことしかできない……。

やがて、病状が悪化して自宅療養から入院になると、稲田さんは持て余すほどの時間ができた。一人でいると、どんどん気持ちがつらくなっていく。

「結婚生活を振り返って、毎晩帰りが遅かったり、単身赴任で8年間も放っておいたりして、あんまり一緒にいてあげられなかったことをものすごく後悔しているんです。結婚するとき、妻と妻の両親に『絶対に幸せにします』と約束したのに、はたしてそれを守れただろうかって……」

遠い日の誓いが胸に突き刺さった。


20代の頃から使っているギターの楽譜。思い出の曲ばかりだ(撮影:風間仁一郎)

「ひとりの老後」を支えるもの

このつらい時間を埋めてくれたのが、やがてトライアスロンデビューにつながるアクアスロン(※スイムとランだけ)レースと、大学時代から続けている登山だった。

「山に助けられました。僕は自然の中にいるのが好きで、山道を無心で登っていくうちに悩みや不安から解放されて、気持ちが癒やされていくんです。なるようにしかならない。できることをがんばろうと前向きになれました

人生のセカンドステージは既婚・独身に関係なく、「ひとりの老後」に向かっていく日々である。そこにはやはり、夢中になれる何か、趣味があるほうがいいと稲田さんは言う

現役時代は「仕事一筋」「仕事が趣味」という選択でも構わない。稲田さん自身も仕事人間だった。だが妻の発症、介護、看取りという苦行の年月を自分らしく切り抜けてこられたのは、趣味の登山やトライアスロンのおかげだった。

稲田さんの“人生後半戦”は70歳から、トライアスロンとともに始まった。「パパ、がんばって」と背中を押してくれた妻のお骨は、一緒にいる時間を取り返すように8年間、自宅で保管した後、納骨した。

バイクの練習がてら、毎週、妻のお墓に立ち寄って話しかける。トレーニング日誌の練習ルートには、「ママの墓」と記録する。


日常生活の動作でも、筋肉の動きを意識しているという。思い立ったらすぐ練習できるように、リビングにもバイクを持ち込んでいる(撮影:風間仁一郎)

“人生後半戦”を生き抜く戦略

世界最高齢のアイアンマンとして、世界中に名を轟かせる稲田さんだが、実は「運動の才能にはあまり恵まれていなかった」と苦笑いする。

戦時下だった小学校時代から運動は得意なほうではなかった。

「体操の時間は運動競技というものはなく、すべて軍事訓練。荷物を背中に背負って延々と歩き続ける行軍や、手榴弾のような形をした鉄の塊を投げる投てきの練習ばっかり」

戦時中の反動か、中学校以降はさまざまなスポーツに手を出す。キャプテンに憧れて体操部に入部。鉄棒の大車輪に失敗して砂場に落下後、即退部して陸上部へ。

100m走の補欠が続き、野球部にも所属。投てきでならした肩が活きて、たった一人のピッチャーに抜擢されるも、とある対抗試合で打たれに打たれて、記録的惨敗を喫する。

「あまりにみっともなくて」と大会後に退部。高校では卓球、サッカー、テニスに飛びつくが、長続きしない。

そんな稲田さんは大学時代に登山に出会う。重い荷物を背負って、山道を長い時間、黙々と歩き続ける。これがはまった。

「これまでの運動の歴史を振り返ると、僕は瞬発力や敏捷性が必要なものはどうもダメ。でも登山は長くしぶとくゆっくりと動き続けることが肝要で、せっかちな僕なのにこれがストンと腑に落ちたんです」

長くしぶとくゆっくりと動き続けるーー。老化が進み、気力も体力も衰えていく人生の後半戦をどう生きるか。稲田さんの戦略はこれである。

夢中になれるものを見つけたら、自分のペースでやってみる継続できたら、それが進化なんです。僕は老化の先に自分の進化を見つけると、すごくうれしくて、『俺は生きているぞ〜!』と叫んじゃう。誰もいないところでですよ、もちろん(笑)」


今後も積極的に海外の大会に遠征することを見込んで、今年、パスポートを10年で更新した(撮影:山本淳一)

【写真】驚異の肉体を持つ91歳! 77歳の時と肉体のピークだったという85歳の時の身体を見比べる(7枚)

(桜井 美貴子 : ライター・編集者)