問題となったセーヌ川 見てる分には美しいが……

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9回嘔吐し、下痢も

 パリ五輪で最も関心を集めたトピックのひとつが、《セーヌ川の水質問題》だ。競技用に使用するにはあまりにも汚いのではないか、と開幕前から疑問の声が上がっていたのだ。

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 そのセーヌ川だが、8月27日に開幕したパリ・パラリンピックのトライアスロンとマラソンスイミングの舞台にもなっている。トライアスロンは9月1日と2日で行われる予定だったが、「パリの不安定な天候がセーヌ川の水質に影響を与える懸念があるため」大会直前に全11種目を同じ日(9月1日)に実施すると変更されていた。これがまたパリの大雨による水質悪化で2日に延期され、無事実施された。

問題となったセーヌ川 見てる分には美しいが……

 オリンピックの男子レースも一度延期になっているため、「そもそもセーヌ川はレース会場として相応しくない、選定に無理があったのではないか」との批判が改めて高まっている。その裏には、肥大化するオリンピック・ビジネスへの批判の意図もあるだろう。パリ五輪期間中にも、マラソンスイミングで9位になったドイツの女子選手が「2時間以上泳いだ後、9回嘔吐し下痢をした」とメディアの取材に答えたコメントが報じられた。

 国内でも、セーヌ川の水質を批判し、セーヌ川での開催を疑問視する報道が世論の共感を得ているように感じる。

道頓堀の4倍の大腸菌

 無論、主催側は、「約2400億円の費用を投じてセーヌ川の上流に貯水槽を建設した。それで競技会場となる水域の水質がかなり改善した」と自信を持って主張している。競技を主管するワールドトライアスロン(トライアスロンの国際競技団体)は、川などの「内陸水」の場合100ミリリットル中に大腸菌が500個以内ならレース可能と定め、「激しい雨が降らなければ現在のセーヌ川はその基準を満たしている」という。それでも「道頓堀の4倍の大腸菌がいる」と聞けば、日本人ならたしかに大半がぎょっとするだろう。

 そのセーヌ川がなぜトライアスロンの会場に決まったのか。それは、IOC(国際オリンピック委員会)、パリ五輪組織委員会、ワールドトライアスロン、三者がいずれもパリ市内での実施を強く望んだからだ。

 トライアスロンが念願のオリンピック種目に採用されたのは2000年シドニー五輪から。その時、トライアスロン関係者そして選手たちは「次のオリンピックでも継続して五輪種目に採用されるか」、そこに大きな不安を感じていた。最初のオリンピックで誰が優勝するかはもちろん関心事に違いなかったが、それ以上に「トライアスロンがオリンピック競技として定着するか」、それがトライアスロン界全体の共通テーマだった。「次のオリンピックでも採用されるために」、競技の魅力を存分にアピールしたかったのだ。

オリンピックになくてはならない競技に

 そのシドニー五輪のトライアスロンは現地を象徴するオペラハウス周辺をスタート&ゴールに実施された。自転車、ランニングは市内を走り、シドニーの風景が世界中に映し出された。そして、あの印象的な建造物オペラハウスに向かって選手たちがゴールする映像は、最終盤での劇的な逆転劇とも相まって鮮烈な感動を与えた。そのレースは、いまも伝説的に語られている。沿道の観衆とレースの臨場感を共有し、開催都市の風景と見事に調和するトライアスロンの魅力はIOCを興奮させたという。

 多くの競技は、室内体育館やスタジアムで行われる。それがどこの都市か、場内の看板を見なければわからない。ところが、トライアスロンは見事にシドニーの風景と調和し、街と一体化して行われた。開催地シドニーにとっても、開催希望都市の減少を懸念するIOCにとっても、それは画期的な出来事だった。その時トライアスロンは、「オリンピックになくてはならない競技」として高い評価を得るに至ったのだ。

 以来、北京でもロンドンでも、トライアスロンは市街で開催されるのが伝統となった。

 2008年ロンドン五輪では市内のハイドパーク内にあるサーペンタイン湖が舞台だった。さすがにテームズ川は汚染がひどく会場にできなかった。もっともこの湖も大会が決まる前はテームズ川から水を引き込んでいたため、沈殿物が堆積し、藻が発生するなど水質はかなり悪かった。そこでテームズ川からの取水をやめ、地下水をくみ上げる方法に変えたほか、沈殿物を中和・分解させるなどの水質改善を図って開催にこぎつけた。

スイム・キャップにヘドロが……

 それでも、「マラソンスイミングから上がった選手のスイム・キャップにヘドロか藻のような汚れがぶら下がっていて思わず目を背けた」と関係者から聞いたことがある。決して理想の水質ではなかった。それでも市街地が会場に選ばれ、喝采を浴びた。

 東京2020でも、当初は皇居周辺での開催が検討された。セキュリティー等の理由で見送られたが、選ばれたのはお台場海浜公園だった。お台場の海も水質が案じられたが、懸命の努力で開催を実現している。

 ワールドトライアスロンの大塚眞一郎副会長によれば、「東京2020のお台場での成功が、セーヌ川で実施するパリ五輪の大きな後押しになった。勇気を与えられたと今回もパリで賞賛されました」という。

 そうした歴史的経緯やオリンピック・ビジネスの実情を考えたら、今後もトライアスロンは開催地の中心部で行われるだろう。2028年ロサンゼルス五輪は、海岸を持つ都市だから、さほど心配はないだろう。サンタモニカのビーチから主会場と想定されるメモリアル・コロシアムまでは約20キロメートルだから、都市の風景と調和したコースがいくつも想像できる。

 だが、今回のパリ五輪・パラリンピック、そして将来の大会を見据え、「アスリートの健康が二の次にされていいのか」という課題は避けて通れない。この点は実際どうだったのか。五輪後、パリから帰国した大塚副会長に改めて現地の実情を聞いた。

2種目のレースに変更も

「パリ五輪男子のレースが延期されたのは、雨の影響で水質が悪化し、 基準値を上回ったからです 。幸い基準値を下回ったので、3種目で実施できました」

 本当に下回っていたのか、疑う向きもあったが、大塚副会長ははっきりと答えた。

「もちろん私は数値を全部見ています。実施した日は間違いなく基準値以下でした。いずれ公表されると思います。それに、もし基準を超えたままなら、自転車とラン、2種目で実施する予定でしたから」

 水泳がなければトライアスロンにならないだろう。だが、その点もトライアスロン界では予め了解があるという。

「水泳が実施できない場合、2種目のレースになることはルールブックに書いてあるので、選手たちも承知しています」

 メディアでは、「夜中の2時に水質をチェックし、未明の4時に決定を下すのは選手に対して過酷ではないか」との批判も語られていた。これを質問すると、

「一般の方々にはそう感じられるかもしれませんが、これもすべてアスリート・マニュアルに明記してあります。事前のミーティングでも十分に説明し確認済みですから、選手たちに戸惑いはないはずです」

競技団体へのクレームはゼロ

 確かに、早朝4時の通達と聞けば驚きもするだろうが、私自身もトライアスロン競技に関わった経験があるから、トライアスロン界の慣例を思えばそれほど違和感はない。なぜなら、トライアスロンレースのスタートは朝6時台が珍しくない。朝4時はもう選手たちがスタートに向けて準備する時間だからだ。

 報道では、健康被害を訴えるアスリートが多数いたとされる。それについてはどうか?

「アメリカのドクターが、『選手の1割が健康被害を起こした』というコメントも見ましたが、アメリカ選手でセーヌ川を泳いだのは、トライアスロン選手6名とマラソンスイミングの4名、計10名です。その1割って何人ですか?」

 そして、続けた。

「ワールドトライアスロンには、選手からの要望や不満を自由に通報できるシステムがあります。いまのところ、選手、指導者からのクレームは1件もありません。ゼロです」

安心できる基準に

 団体にクレームはないというが、メディアは盛んに健康被害の実情を訴えている。

「レース後に嘔吐した選手の映像なども出ましたが、あれが実際に水質汚染による影響なのか、調べる必要があります。ここ数年、深部体温を下げるために、事前に胃の中に入れるジェルが流行しているのをご存じですか。トライアスロンでも多くの選手が使っています。レース中やレース後の嘔吐が、この影響ではないかという見方もあるので、嘔吐の原因が水質かどうか、まだ断定はできないと思います」

 たしかに、セーヌ川の水質を突破口にIOCや五輪のあり方を非難したいメディアが、それらしい材料をすべて水質汚染のせいにしている傾向も否めない。この点はさらに冷静な調査と判断が必要だろう。

 ただひとつ、レース実施を許可する基準値自体が高すぎるのではないか、という提言はしておきたい。「大腸菌が道頓堀川の4倍でもOK」という基準は安心して許容できるレベルではないと感じる。その他のウイルスや感染症対策も含め、選手と家族、応援する人々が安心できる基準に定め、実施してほしい。

スポーツライター・小林信也

デイリー新潮編集部