2024年2月に発表された決算情報ではNVIDIAの年間売上高は600億ドル(約9兆3500億円)で、時価総額2兆ドル(約312兆円)を超える巨大企業となっていますが、そんなNVIDIAでも創業直後は貧弱な企業であり、かつて入交昭一郎という日本人に救われた歴史があるとWall Street Journalが報じました。

The 84-Year-Old Man Who Saved Nvidia - WSJ

https://www.wsj.com/business/nvidia-stock-jensen-huang-sega-irimajiri-chips-ai-906247db



入交昭一郎 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E4%BA%A4%E6%98%AD%E4%B8%80%E9%83%8E

入交氏は大学卒業後に本田技研工業へ入社し、レース用バイクやF1マシンのエンジンを設計。1979年には39歳で本社の取締役になるなど異例のスピードで出世し、1984年にアメリカ合衆国の製造部門を統括するために渡米しました。

入交氏は4年後の1988年に帰国し、専務や副社長を歴任しましたが、1992年にストレスおよび健康を理由に突然副社長を辞任してしまいます。1993年4月には本田技研工業を退職し、1993年6月にセガの副社長に就任。1996年にセガのアメリカ事業の会長兼CEOに昇進しました。

ソニーのプレイステーションが驚異的な人気を獲得するなか、ヒット商品を生み出す必要に迫られたセガはドリームキャストの開発に着手。ドリームキャストのGPUの開発担当として選ばれたのが1993年にジェンスン・フアン氏と2人の友人によって設立されたばかりのNVIDIAでした。



当時のフアン氏は特徴的なレザージャケットをまだ着用しておらず、記事作成時点のような知名度もありませんでしたが、今と同じような自信に満ちあふれた態度をとっており、入交氏はフアン氏について「とてもとても強い自信を持っていました」と語っています。

当時はゲームが2Dグラフィックから3Dグラフィックへと進化していく途中であり、多くの企業がレンダリング技術を開発していました。多数の企業が三角形に基づく技術を追求していましたが、NVIDIAは四角形を使用するという3Dグラフィックに対して型破りなアプローチを採用。ところが、NVIDIAのアプローチは間違っていることがすぐに明らかになりました。

NVIDIAは1年間にわたってセガのプロジェクトに取り組んでいましたが、フアン氏はプロジェクトを完遂すれば一時的にお金は入るものの、その後競合他社に追いつけないほどの差を付けられてしまうためプロジェクトを放棄しなければならないことに気付きました。

入交氏がNVIDIAのオフィスを訪れ、ドリームキャストに他社製のGPUを搭載すると告げた時、フアン氏は資金がなくなってしまう事態を恐れました。しかしその時までに入交氏はフアン氏のことをよく知るようになっており、失敗はしたものの入交氏はフアン氏のことをまだ信じていました。入交氏は「どうにかNVIDIAを成功させたかった」と語っています。

通常ならNVIDIAは「契約を履行できなかった不安定なスタートアップ」とみなされるところですが、入交氏はセガの経営陣に対して「セガはNVIDIAに投資するべき」と説得。交渉の結果、入交氏はNVIDIAへの追加の投資金500万ドル(約7億8000万円)を確保することに成功しました。

NVIDIAはセガからの資金を元に新たなチップの開発に奔走し、1997年に画期的なチップを開発することに成功。このチップがNVIDIAの窮地を救い1999年の株式公開へと導きました。



入交氏は1998年にセガの社長へと昇進しましたが、ドリームキャストの販売不振などによる3年連続赤字の責任を取り2000年に辞任しました。NVIDIAへの投資に関する入交氏の決断が功を奏したのは辞任後のことで、最終的にセガはNVIDIA株を1500万ドル(約23億円)で売却することに成功しています。

入交氏はセガを辞任した後、個人でコンサルティング事業を経営しています。フアン氏とは全く連絡をとっていませんでしたが、2017年にAIに関するセミナーの開催を依頼された時にフアン氏のメールアドレスを突き止め、「フアン氏もしくはNVIDIAの関係者による講演」を依頼するために20年ぶりに連絡しました。

入交氏は返信を期待していませんでしたが、フアン氏は「あなたからの連絡はなんと素晴らしくうれしいものです」と述べて講演を快諾。借りを返すのは当然だという態度で「あなたのお役に立ててうれしいです」とつづりました。