戦争を始めた世界のエリートは自国民を守らない
2024年5月、ウクライナのハルキウで、ロシア軍のミサイルが住宅に被害を与えた(写真・Svet Jacqueline/ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ)
2024年5月9日、第2次世界大戦勝利を祝う式典が終わった後、ロシアはハルキウ(ハリコフ)への総攻撃を開始した。ウクライナ戦争は、今新しい局面を迎えたともいえる。
これまでの戦場は、ドンバス地域からザポロジエ(ザポリージャ)地域に限定されていた。いわば2014年のミンスク合意をめぐるドンバス、ルガンスク地域の攻防線として展開されていたともいえる。
新局面を迎えたウクライナ戦争
2022年3月末にトルコで合意寸前までいった停戦の前提は、ロシアにとってドンバス地域の独立とウクライナの中立が主たるテーマであった。ウクライナにとってはNATO(北大西洋条約機構)加盟とドンバス地域の維持がテーマであった。
そのころ展開されたキーウ(キエフ)、ハルキウ近辺へのロシアの当初の攻撃は、ドンバスとザポロジエの兵力の集中を避けるための陽動作戦であった。しかし、今回の攻撃はハルキウ占領を視野にいれた攻撃である。
その目的は、ロシアの戦争の目的は、もはやドンバスやザポロジエ地域の維持ではなく、ウクライナ全土をせん滅することに変わったのだともいえる。
今後、キーウやオデーサへのロシア軍の侵攻は避けられないであろう。その目的は、もはやロシア人居住区の保護ではなく、NATOの勢力圏を完全にウクライナの外に押し出すことにある。その意味で、ウクライナ戦争は新しい局面を迎えたのである。
いまやこの戦争は、NATOとロシアとの勢力圏をめぐる直接対決になったということであり、第3次世界大戦の可能性がさらに強まったことを意味する。人類にとっては悲劇というしかない。
ロシアの猛攻に対しもしNATOが本格的に介入すれば、世界大戦は避けられない。そうならないことを祈るが、ウクライナ政権がロシアとの停戦協定に進まない限り、ウクライナでの戦争が終わることはない。これも悲劇だ。
ゼレンスキーは国民を犠牲にしてウクライナ消滅を待つのか、それともNATOを巻き込んで世界大戦へ突き進むのか。世界はこの戦況を不安をもって注目せざるをえない。
国家の自己保存権
ロシアとNATOとの対決は、非西欧と西欧との対決でもある。ではなぜこうした対決が戦争へと至るのか。これまで膨大な学者たちがその解明を行ってきたが、これといった原因究明ができたわけではない。
経済的利益、領土問題、資源問題、支配欲、攻撃性向といった理由をいくらあげても、これといった戦争にいたる決定的原因がつかめたわけではない。
本来人間は理性的で、合理的であり、世界がそれを理解すれば戦争はないという国際均衡論の発想でも、戦争が防げるわけではない。社会主義国は利益の相反がないがゆえに戦争がないという議論や、民主主義国同士は戦争しないという議論も、これまで何度となく戦争によって破られており、今では説得力を失っている。まさに不条理に、突然戦争へと進むこともあるからだ。
こうした議論の中で、きわめて現実主義的であり、なおかつゲーム理論的な戦争論が出てきてもおかしくはない。ジョン・J・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』(奥山真司訳、五月書房、2007年、新装完全版は2019年)は、まさにそうした戦争の原因を追究した、興味深い書物だといえる。
本書には国家は生存願望をもち、そのためならなんでも行うという前提がある。スピノザの時代、17世紀に盛んに議論されていた自己保存権(コナトゥス)を国家に当てはめ、そこから問題を展開するのだ。
そこでは、国家は単体の意思決定をもつ人間個人と同じものとされる。国家を構成するのは国民であるといった問題は、最初から念頭にない、国家の存続という世界が前提される。
自己保存権という考えは、最小限の単位としての個人を設定し、すべての人間は自己を保存する権利を、最初から神によって与件されているのだと考える思想である。だから、人間は自己を守るために集団を形成し、国家をつくり、ひたすら自己の保存を図る戦略をとる。
こうして、国家の成立は、自己保存権を前提として説明されたのである。自己保存のために、個人の上に立つ巨大な権力である国家が人々に承認されたのだ。
「攻撃的現実主義」
この自己保存権を、個人ではなく、国家そのものに適用したところに、ミアシャイマーの議論のユニークさがある。世界を構成する意思をもった最小単位が国家であり、その国家が存在することが当然の権利としてあれば、国家は自らの生存を求めて、戦略を立てる。
国家の自己保存本能を、ミアシャイマーは「攻撃的現実主義」という言葉で表現している。国家が最も安全に保てる方法は、その国家の周りにある地域の覇権を獲得することである。
しかしそれは国家の規模や世界の情勢に左右されているので、覇権国家であることは必然ではない。時に、弱い国家は同盟を結び、覇権国家の衛星国になるなど、なんとか生き延びる術を考える。
時と状況によって、国家は生き延びる戦法を変えるわけである。米ソ冷戦時代のように二極対立構造の場合、2つの覇権国家ががっぷり四つに組むことで比較的安定を生み出し、米ソは直接戦うことはないし、その衛星国も同盟の中で戦争も起こらない。
あえて戦争があるとすれば、対立の最前線に立つ、弱小国家の代理戦争という名の地域戦争である。だから皮肉なことだが、核戦争の危機をはらんでいた冷戦時代は、二極に覇権国家が対立していたことで、きわめて安定した平和な時代であったということになる。
しかし問題は、冷戦が終わった多極化の時代である。当初は、アメリカ1国の覇権主義が存在し、世界はグローバル化の中で、統一した価値観と国際基準で支配される時代であるかのように見えた。
ところが21世紀になって、アメリカの力は政治、経済、軍事において相対的に低下し、今や多極化時代を迎えている。そして中心を失った世界は不安定な多極化へと進んでいるのである。
多極化時代の危険さ
この多極化時代が、もっとも危険な時代といえる。ミアシャイマーは18世紀以来の世界の戦争史を分析しながら、多極化時代について分析している。国家は多極化時代を生き延びるために、地域の覇権を獲得しようとあらゆる手段をとるからである。
そこで用いられている手段は意味深長である。バック・パッシング(責任転嫁)という手段である。これは、覇権を狙う国家同士が直接対決することを避ける方法で、覇権を狙う国家に対しその近傍の国をそそのかし、代わって戦うようにさせる方法だ。
いわゆる代理戦争である。ウクライナやイスラエルの戦争は、まさにそのバック・パッシングともいえるものだ。
とりわけバック・パッシングを行うことで、相手国を戦争という名の消耗戦に誘い込み、長期化させることで、覇権を狙う国の経済力、軍事力、政治力などを衰退さえ、覇権への願望をくじくことである。そのために、戦争以外の経済制裁などあらゆる手段が使われる。
しかし問題は、今回のウクライナ戦争のように、逆にそそのかされた国を覇権を望む国家が圧倒的兵力で打ち負かしてしまえば、そそのかした国でさえも逆に覇権を失ってしまう可能性があるということである。
これは、諸刃の剣であるということだ。ヤブ蛇という言葉もあるが、まさにヤブをつついて、危険な蛇に襲われる結果となるのだ。
ミアシャイマーは、ウクライナ戦争が起こったころからユーチューブといったネットメディアにさかんに登場してきたが、けっしてマスメディアで評価されることはなかった。
おそらく、それは彼のバック・パッシングといった議論が持つヤブ蛇効果の部分を指摘し、アメリカの好戦的な政府や大手メディアの意向を逆なでしたからであろう。
彼はこう語っている。
「多極構造が持つ究極の問題は、国家の誤算が発生しやすい点にある。多極構造は「ライバル国家の決意の強さ」や「相手側の同盟の強さ」などを国家に過少評価させてしまうことが多いからだ。このシステムの中の国家は、自国が敵に意思を強要するだけの軍事力を持っているとか、それが失敗したとしてもとりあえず戦闘で勝つことができると勘違いしてしまいがちなのだ。戦争は、ある国家が違う意見をもつ相手側の固い決意を過小評価した時に発生しやすい。国家がこのような勘違いをしたまま自分の意見を相手におしつけすぎ、そろそろ相手が降参するだろうと思ったときにはすでに不可避になっている、ということだ」(440ページ)
ウクライナ戦争が始まって2年が過ぎ、弱いと思ったロシア、そしてその背後にいるアジア、アフリカ諸国の同盟が意外に強いことにアメリカも気づいたはずだ。なぜアメリカは、このことにもっと早く気づかなかったのか。
そして実は今でも、それに気づいていないふしがある。それは長い間君臨してきた覇権国家が陥る慢心でもある。世界は21世紀になって大きく変わってしまったのである。
そして国家を構成する国民にとって不幸なことに、いずれの戦争においても、一度戦争を始めてしまえば始めた側の国家のエリートたちは国民が何人殺されようと停戦へと動きだすことはないということである。
国家は自己保存のために、国民という生き血を絞り出し、わが身を守るということなのである。この不幸な戦争がこのまま続くのだとすれば、これほど絶望的なことはない。
(的場 昭弘 : 神奈川大学 名誉教授)