【文楽太夫】豊竹呂太夫改め豊竹若太夫襲名インタビュー 半生と文楽への思いを聞く
六代目豊竹呂太夫が、十一代目豊竹若太夫を襲名する。竹本座と並んで今日の文楽の礎を築いた豊竹座の創設者を初代とする大名跡だ。2017年、70歳での呂太夫襲名から7年。22年には最高峰の「切語り」に昇格した。そしてこの4月、豪快な語りで知られた偉大な祖父からその名を引き継いだ新若太夫は、どのような足跡を辿り、これから新たな足跡をどう記していくのだろうか。その半生と文楽への思いを聞いた。
小説家を目指し、自由に憧れた青年時代
新若太夫は1947年、大阪生まれ。祖父である先代若太夫とは幼い頃から同じ家に住み、2階からは毎日、稽古の声が聞こえてくるという環境に育った。当時の内弟子には、いずれも人間国宝となるのちの八代目豊竹嶋太夫や2000年に惜しまれつつ他界した五代目豊竹呂太夫といった錚々たる顔ぶれがいる。女流義太夫の人間国宝・竹本駒之助も春駒師匠につきそって通っていた。しかし、文楽のことを「古臭い芸」と思うばかりで、ほとんど関心は抱かなかった。
「ただなんか唸っているなという印象でしたね。流行らない、訳のわからないものというのが、当時の偽らざる本音だったんです。内弟子の方々は皆怒られていて、気の毒やなと思っていました。祖父はとにかく芸に厳しい人だったんです。嶋太夫兄さんにはおむつを替えてもらったりおぶったりしてもらって。呂太夫兄さんは小学生の頃から、女流義太夫のお母さんに連れられて稽古に来ていたのですが、よく叱られて、ご飯を食べながら『師匠には言わないでください』と泣いていましたし、駒之助さんもあれこれ気を遣っていて本当に可哀想で、まさかのちにあんなに立派になられるなんて思いませんでした(笑)。祖父は素人に対しても厳しくて、色々なところの社長さんや旦那さんが稽古に来ても、ボロカス。祖母が『お父さん、あんまり怒らないで』と。だから、文楽の楽屋に行ってお菓子をもらうくらいのことはありましたが、自分もやりたいなんて全く考えませんでした」
東大を二浪し、上京して目指したのは小説家。
「大江健三郎、倉橋由美子、庄野潤三、海外ではアラン・ロブ=グリエなんかに憧れて。中でも庄野の小説に感じるようなシュールレアリズムを追い求めていました。とはいえ、私が書いていたのはストーリーのある、現代のお話だったんですけれども。現代詩もやっていて、多摩美術大学や京都市立芸術大学の学長も務めた詩人の建畠晢とは、一緒に同人誌を作っていました。ただ小説は、文學界や群像や文藝などの新人賞に応募しても一次選考にも通らないので、辞めましたけれども」
無頼を気取り、自由な人生に憧れていた青年時代。転機が訪れたのは祖父の通夜の日。幼い時から自分を知る先代呂太夫と行った銭湯で「太夫になれ」としきりに言われ、小説の糧になるかもしれないと考えて帰阪する。
「文楽は1年くらいで辞めて長野辺りへ行って、アルバイトでもしながら狭いアパートのみかん箱の上で小説書くような、そんな生活を夢見ていたんです。ところが、文楽を観に行ったら、客席ガラガラの朝日座で、(四代目竹本)津太夫師匠が汗水たらしてギャーッと唸っていて、三味線は(六代目鶴澤)寛治師匠がベンベンベンと弾いて、人形は大の男が三人で一つの人形を扱って、人形の隣に顔があるのも邪魔やなと(笑)。ただ、大道具などの配色が面白いなと感じたんです。舞台全体が抽象画に思えて、これこそシュールレアリズムや! アブストラクトや! アバンギャルドや! と、そんなふうに思ったんです。そう考えると、太夫も三味線もソウルミュージックや! 待てよ、こんな、すごい芸能、ないやんか!! と衝撃を受けました。それで、祖父の仕事を見てきて大変な世界だということはある程度分かっていたので、昔気質の怖い人達を人間だと思ったら耐えられないだろうから、動物園に行くつもりで入って。やっぱりシュールレアリズムというか、現実と違う世界をいつも夢見ていたから、その延長ですね(笑)」
辛かった内弟子生活
こうして迷える青年は、幼い頃から馴染みつつも拒絶していた文楽の世界に入る。1967年、三代目竹本春子太夫に入門し、内弟子に。しかしその生活は、自由を味わった20代の若者には辛いものだった。
「春子太夫師匠は私の祖父の弟子、つまり私は師匠の孫やから、優しかったです。大きな家に住んでいて、女中さんがいて、洗濯も女中さんがやってくれて。それでも、師匠と一緒に生活するというのは疲れました。ある時、辞めさせてもらおうと思い、夢遊病者のようにふらふらと師匠の部屋の襖を開けようとしたんです。その時、中から師匠が『雄治(若太夫の本名)!』と呼ぶので慌てて襖から離れて『はい!』。それで言い出せなくなって。あの時声をかけられていなかったら辞めていたでしょうね」
入門間もない1969年頃の写真。 提供:豊竹若太夫
1968年、初舞台。しかし翌1969年に春子太夫が没し、今度は四代目竹本越路太夫に入門して内弟子となる。
「越路師匠は靴下を洗うのもちゃんと裏返して洗えと言うくらい細かい人でした。当時、師匠は独身だったので、私が毎日、お味噌汁を作っていました。赤味噌と白味噌を混ぜて、かつお節削って、月曜はじゃがいも、火曜は茄子……と具を変えながら。もう無理だなと思っていたら、(竹本)貴太夫という同い年の弟弟子が入ってきて、彼が全部やってくれるようになって助かりました(笑)。師匠が用事で家を空けるときは、貴太夫と二人で羽根を伸ばして(笑)。貴太夫が来てくれなかったら続かなかったと思います。私と貴太夫君が内弟子を体験した最後の太夫でしょうね。内弟子時代はあまり稽古をしてはもらいませんでしたが、すごく勉強になりましたよ。太夫は声が大事だから、睡眠も取るようになった。無頼を気取っていた私なんか、文楽をやっていなかったらとっくに死んでいますわ。春子太夫師匠のところに2年、越路師匠のところに4年、“閉じ込められていた”のが、自分のためには良かったんです」
二人の師匠、春子太夫、越路太夫からは、どのような稽古をしてもらったのだろうか。
「春子太夫師匠は三味線が弾けたので、『艶容女舞衣』の酒屋の段のさわりを稽古してもらい、研究生試験で、(十代目竹澤)彌七師匠や(二代目野澤)喜左衛門師匠、寛治師匠といった方々の前で語りました。今思うと、酒屋のさわりって、節を覚えるのが難しいんですが、私は稽古してもらって1週間くらいで覚えたんですよ。越路太夫師匠は、内弟子修業が終わった後、段々と音遣いなどの細かいことや、口伝などを教えてくれました。本当に怖くて、いまだに越路師匠のマンションの近くへ行くたびにそのときの感覚が蘇るくらいですが、愛情が感じられる叱り方でした。でも、一番、細かいことを教えてくれたのは、先代の呂太夫兄さん。自分の基礎を作ってくれたのは、越路師匠と先代の呂太夫兄さんの力が大きいと思います」
信仰を注いだ「ゴスペル・イン・文楽」
英太夫時代には、様々な人物と交流し、ユニークな活動を展開。中でも新作文楽『ゴスペル・イン・文楽 ~イエス・キリスト~』は再演を重ねている。
『ゴスペル・イン・文楽』 より。若太夫(左)と鶴澤清友。人形遣いは桐竹紋寿。 撮影:細川文昌 提供:豊竹若太夫
「色々なことに興味があるというか、好奇心ですね。文楽以外の人とも異業種交流して、そうか、こんな考え方があるのかと知ることができるので。『ゴスペル・イン・文楽』の発端は、私が行っている教会でクリスマスに日本舞踊を踊っていた女性が、太夫の私にキリスト生誕の場面を語ってください、自分もそこで踊りたい、と言ってきたこと。面白いなと思ってやり始め、さらに人形を入れて……と発展していきました」
クリスチャンでもある若太夫。キリスト教との出会いは高校生の頃に遡る。
「数人の友達と銭湯巡りをしていたんですよ。夕方4時頃に行くと空いているでしょう? ところが、入ったら目の前にいたのが、中学の時、隣の中学の人間とチェーン巻いて決闘したり、教師をどついたりしていた“番長”のM君。逃げようとしたら、『林、お前シカトしたな。湯に入れ』。私の友達は皆逃げてしまっていました。で、彼は『お前頭良かったな。三位一体って知ってるか』。そういえば聞いたことあったなと思ったんです。子供の頃、クリスマス近くになると、教会の日曜学校に行っていたんですよ。牧師の先生がサンタクロースの格好をしていたり、紅茶やショートケーキやチョコレートをくれたりするのが楽しみで。もらう前に女の先生から聖書の話を聞く時間があって、そこで三位一体の話をしてくれたのを思い出して、『神様、イエス・キリスト、精霊』って答えたら『えらい! 僕の行ってる教会に来い』。クリスマスの劇で、キリスト誕生を祝福する三人の博士のうち一人足りないからやれ、と言うわけです。そこから通うようになって、でもM君も真面目になっていたし、3月で辞めようかなと思った矢先、高校生クラスに可愛い女の子が入ってきたんですよ。タイプやなと思ってもうちょっと行き続けて、それが私の家内です」
教会へのお誘いといい祖父の通夜の日といい、どうやら転機はしばしば銭湯で訪れるようだ。さらに、英太夫として活動中、こんな体験をした。
「C型肝炎になったんですよ。生検といって、入院する前に仮入院して組織を取ってから、一回退院して、正式入院の前に休みがあったので教会の祈祷会に行ったんです。その時、家内が私に『明日から入院だから祈ってもらったら』と。前に出て祈ってもらわなきゃいけないから恥ずかしかったのですが、私を真ん中にして、牧師先生をはじめみんなで手を当てて祈ってくれた。このやり方は宗派によって様々なんですけれども。そうしたら、肝臓の辺りが真っ赤になって、肝臓の形がはっきりわかるくらいになったんです。で、次の日に病院に行って病院に行って、インターフェロン3本打って血液検査をしたら、次の日にウイルスが消えていた。普通はインターフェロンを半年間打つのに、3本で無くなったと。それで祈祷会のことを話したら医者はあり得ないと言ったけれど、3本でウイルスが消えるのもあり得ないわけです。文楽では、先代呂太夫さんも、(四代目竹本)相生太夫さんも、同僚だった(竹本)緑太夫君も、C型肝炎で亡くなっています。私だけが生き残った。これは神癒の奇跡だから『ゴスペル・イン・文楽』を成功させようと思いました」
二つの襲名、そしてその先へ
多彩な活動を展開した英太夫時代は「毎日を楽しく過ごしていたい」と思っていたという若太夫。本気で文楽を志すようになった時期を問うと、意外な答えが返ってきた。
「70歳ぐらいかな。声の出し方が分かってきたんですよ。文楽の人形には色々なかしらがあって、その頭に応じて音程がきっちり決まっている。それが、この世界に入って50年くらい経った時にやっと整理できて、語っていても浮かんでくる。そうすると、ストーリーに没頭できて、お客さんと一緒に行きましょう、楽しみましょうね、となってきます。昔は語るにあたって力が入っていたけれど、普段の会話と一緒の発声でいいと思うようになりました。ある競輪選手が言っていたのですが、ペダルを漕ぐにしても、いい選手は足だけではなく体幹で漕ぐんですって、義太夫もそうだなと思いました。スッと自然に語る。そのほうが、お客さんも聞きやすいじゃないですか。そう思って私の祖父とか、越路太夫師匠とか、(七代目竹本)住太夫さんの録音を聴くと、みんな体幹で語ってるんですよ。今年1月に亡くなられた(豊竹)咲太夫さん、先代呂太夫さんもそう。だから、思いっきり、渾身の力を込めて、軽く語りたいんです」
六代目豊竹呂太夫襲名披露公演より。若太夫(左)と鶴澤清介。 提供:国立劇場
「私は、(先代)呂太夫さんの片腕でいいと思っていたんです。呂太夫さんは天才的な人で、芸が良くて、ハンサムで、この人についていこう、と。だから、切り語りになろう、若太夫になろう、なんて考えていませんでした。ところが、呂太夫さんが55歳で亡くなった。さらに越路師匠も亡くなって。そこから苦労しましたよ。沢山、怒られて。住大夫兄さんからは勘平腹切りを1週間、毎回2時間くらい、床本1枚めくる毎に怒られました。本当にしんどかったですね。でも考えたら、そんな2時間もお稽古してくださる人、いません。今頃になって有難いなと思っています。そしてその住太夫兄さんが、私の呂太夫襲名の段取りを全部してくださいました。さらにその呂太夫襲名時の口上で咲太夫兄さんが、『五十音では“ろ”の次は“わ”です』、つまり呂太夫の次は若太夫だとおっしゃった。私は咲太夫さんのライバルだった先代呂太夫の陣営の人間でしたから意外というか、ああ、そういうふうに思ってくださったのだと感謝しましたね。で、満77歳で継ごうと考えました。去年の春に咲太夫兄さんのところへ電話したところ『頑張れ。わしが了承した』と言ってくださって」
襲名披露狂言は『和田合戦女舞鶴』市若初陣の段。4月、大阪の国立文楽劇場で公演が始まっており、続く5月には東京で披露する。三代将軍源実朝時代の鎌倉幕府を舞台に、北条氏が和田氏を滅ぼす和田合戦の勃発を防ごうと奮闘する人々を描いた物語で、「市若初陣の段」では、女武者として名高い板額が、主君の忘れ形見の命を助けるため、初陣に臨もうとする我が子・市若に自害を促すまでの苦悩や、市若の健気な姿が涙を誘う。
「初代若太夫が有名にし、祖父が十代目を継いだ時にも襲名披露狂言にした演目です。私は、祖父の若太夫を認めてくれていた内山美樹子先生のご提案で、2009年に早稲田大学の小野記念講堂で素浄瑠璃として初挑戦し、その後、国立劇場や国立文楽劇場でも語り、さらにはNHKFMで録音もしましたが、襲名を前に去年12月、大阪と東京で素浄瑠璃の会で語りました。その時、改めて勉強し直したわけですが、15年前には分からなかったことが色々と理解できたんです。祖父の録音を聞いても、ああ、こういう仕掛けがあったのかとか、ここで矢声を使っているのか、とか、あるいは録音毎の、年代による違いもよく分かるようになっていました」
主君のために犠牲を払うという、一見すると現代では受け入れがたい物語。大切なのは、そこから溢れ出る思いだ。
「主従は三世(親子は一世、夫婦は二世の繋がりなのに対して、主従は前世・現世・来世の三世にわたって因縁があるという考え方)という時代。まずお主のために尽くすということが決まっていて、子供もそう教育されていて、そこに感情なんか挟めません。ただ、実際には感情はあるんですよ。ここが面白いところ。その感情が、最後のほうの板額の『ほんの/\ほん本の子ぢゃ』のところで爆発する。初めて早稲田でやった時、あの頃はこちらも力を入れて語っていたけれど、そこで拍手があったんですよ。ついてきてくれる人、おったなと本当に嬉しかったです。今回の襲名でもお客さんの気持ちがそこで盛り上がるように語りたいですね」
自らが強く望んだと言うより、運命に導かれるようにして現在の場所にいる若太夫。孫の文楽入りすら予想していなかったであろう祖父は今頃、どう思っているだろうか。
「お前、なんじゃ、その芸は。もっと勉強せんかい。そう言っていますよ(笑)」
取材・文=高橋彩子