「熱帯の人は楽に生きられるから貧しい」の大誤解
熱帯に多くある貧しい国々の人たちには労働倫理がないというのは、まったくの作り話です。実際、貧しい国の人たちは富裕国の人々よりよっぽど働いています。(写真:bloodua/PIXTA)
「熱帯の国ではバナナやココナッツなど自然の恵みのおかげであまり働く必要がない。そのため彼らは貧しいままなのだ」という言説を聞いたことがないだろうか。
ベストセラー『世界経済を破綻させる23の嘘』などの著書がある経済学者のハジュン・チャン氏の最新刊『経済学レシピ:食いしん坊経済学者がオクラを食べながら資本主義と自由を考えた』から、「熱帯の人は楽に生きられるから貧しいという誤解」について一部抜粋・編集のうえお届けする。
熱帯の人は怠け者?
多くの人たちにとって、ココナッツが熱帯の自然の豊かな恵みを象徴するものであるせいか、その地方に蔓延している貧困の問題を「説明」するときにもしばしばココナッツが用いられる。
富裕国ではよく、貧しい国が貧しさから脱せないのは、その国の人々がまじめに働かないせいだと考えられている。また、大半の貧しい国が熱帯にあることから、その国の人々に労働倫理が欠けているのは、自然の豊かな恵みのおかげで楽に生きていけるせいだという説も、しばしば耳にする。
そのような説によれば、熱帯では食べ物──バナナ、ココナッツ、マンゴーなど、いかにも熱帯の果物の数々──があちこちで育つ一方、気温も高いので、頑丈な建物や立派な服も要らない。したがって、熱帯の国々の人々は生きるために汗を流して働く必要がなく、その結果として、あまり勤勉にはならないのだという。
このような説が語られるときには、(侮蔑的な主張なので、ふつうは私的な場でしか口にされないが)しばしばココナッツが使われる。すなわち、この「熱帯地方には労働倫理がない」説によれば、熱帯の国々が貧しいのは、人々がココナッツの木の下で寝そべって、その実が落ちてくるのを待つばかりで、自分で何かを育てようとか、作ろうとかしないからだというのだ。
もっともらしい説だが、これは完全な誤りだ。
第一に、熱帯の国々には、ココナッツの木の下で寝そべるような愚かな人はめったにいない。たとえ、ただでココナッツを手に入れたくてもだ。そんなことをしたら、落ちてきたココナッツに頭蓋骨を砕かれる危険がある(実際、落下したココナッツに当たって死ぬ人はいる。都市伝説では鮫に殺されるより、ココナッツに殺される人のほうが多いといわれているほどだ。もちろんそれはほんとうではないが)。
だから、「怠け者の原住民」が仮にいたとしても、木の下では寝ない。別の場所で待ち、ときどきココナッツが落ちていないかどうか、木の下に確かめに行くというのがふつうだろう。
貧しい国の人の方が、労働参加率が高い
それは冗談としても、熱帯に多くある貧しい国々の人たちには労働倫理がないというのは、まったくの作り話だ。実際、貧しい国の人たちは富裕国の人々よりよっぽど働いている。
まず、労働年齢人口を比べてみても、貧しい国のほうがはるかに多い。世界銀行のデータによれば、2019年の各国の労働参加率は、タンザニアが87%、ベトナムが77%、ジャマイカが67%であるのに対し、ワーカホリックの国と考えられているドイツは60%、米国は61%、韓国は63%だった。
貧しい国では、学校へ行かずに働いている児童の割合もきわめて高い。
UNICEF(国際連合児童基金)の調査によると、2010〜18年の期間、後発開発途上国(LDC)では5歳から17歳までの子どもの平均29%が働いていたと推測されるという(この数字には家事や、幼い弟や妹の世話や、新聞配達などの「お手伝い」をしている子どもの数は含まれていない)。
エチオピアでは子どもの半数近く(49%)が働き、ブルキナファソ、ベナン、チャド、カメルーン、シエラレオネでは児童労働率(児童労働者の割合)が40%にのぼった。
そのうえ、富裕国では、18〜24歳(人生でいちばん体力がある時期だ)の若者の大多数が高等教育(専門学校、大学、大学院など)を受けている。高等教育を受けている若者の割合は、一部の富裕国では90%にも達する(米国、韓国、フィンランドなど)。一方、貧しいおよそ40の国々ではその数字は10%にも満たない。
これはつまり、富裕国では、若者が成人してからもしばらくは働かず、その多くが経済的な生産性の向上に直接は役立たない勉強をしているということだ。ただし、これにはほかの面では、例えば、文学や、哲学や、人類学や、歴史などの面ではとても大きな意義があると、わたしは思っている。
貧しい国では、富裕国に比べ、定年の年齢(国によって違うが、60歳から67歳)まで生きられる人の割合は低い。しかし元気であれば、富裕国の人よりもはるかに高齢まで働き続けることが多い。退職できるだけの経済的な余裕がない人が多いからだ。かなりの割合の人が肉体的に働けなくなるまで、自営の農家や商店主として、あるいは無報酬の家事や介護の担い手として、働き続けている。
さらに、貧しい国では富裕国に比べ、労働時間もはるかに長い。カンボジア、バングラデシュ、南アフリカ、インドネシアといった貧しく、暑い国の人々の労働時間は、ドイツ人、デンマーク人、フランス人と比べて60〜80%、米国人や日本人と比べても25〜40%長い(かつては「働き蟻」といわれた日本人だが、最近は米国人より労働時間は短い)。
生産性の低さはどこから来るのか
貧しい国の人のほうが富裕国の人よりも実際にはよっぽど働き者であるのなら、その貧しさは勤勉かどうかの問題ではない。これは生産性の問題だ。貧しい国の人々は富裕国の人よりも、はるかに長い時間、人生のはるかに長い期間にわたって働いている。ところが生産性が低いせいで、生産しているものははるかに少ない。
といっても、この生産性の低さは、教育レベルや健康状態といった個々の労働者の質に主な原因があるわけでもない。一部の「ハイエンド」の仕事ではそういうことも関係するだろう。
しかしほとんどの仕事においては、貧しい国の労働者と富裕国の労働者のあいだに、個々の働き手としての生産性に差はない。そのことは、貧しい国の人が富裕国に移り住んで働き始めると、特に新しい技術を習得したわけでも、健康状態が劇的に改善したわけでもないのに、たちまちその生産性が大幅に高まるという事実にも示されている。
移民たちの生産性が急激に高まるのは、突然、優れた生産設備(工場、オフィス、店、農場など)で、優れたテクノロジーを使って働けるようになり、質の高いインフラ(電気、輸送、インターネットなど)と、有効に機能している社会の仕組み(経済政策、法制度など)の助けを借りられるようになるからだ。
それまで栄養不良の驢馬に乗って苦労していた騎手が突然、サラブレッドの競走馬に乗り始めたようなものだ。騎手の能力ももちろん大事だが、レースの勝敗を大きく左右するのは、騎手が乗っている馬(または驢馬)だ。
貧しい国の人々が貧しいのは個人のせいではない
では、なぜ、貧しい国は低い生産性を招くような遅れたテクノロジーや、非効率な社会の仕組みに甘んじているのか。この問題を公平に論じるためには、ここではとうてい扱いきれないほど数多くの要因を検討しなくてはならない。
価値の低い一次産品ばかりを生産するよう宗主国から強いられた植民地支配の歴史もあるし、政治的な深い分断やエリート層の資質の欠如(非生産的な地主、不活発な資本家階級、ビジョンを欠き、汚職にまみれた政治指導者)もある。
富裕国に有利な国際経済体制の不公平さもある。これらは数ある要因の中の最も重要なものにすぎず、ほかにもまだまだある。
しかしはっきりしているのは、貧しい国の人々が貧しいのは、個人の力ではどうしようもない歴史的、政治的、技術的な理由による部分が大きく、それらの人々の何らかの欠点のせいではないということ、ましてやまじめに働こうとする意志がないせいなんかでは、けっしてないということだ。
ココナッツの話に示されているような、貧しい国々の貧しさの原因についての根本的な誤解は、富裕国でも貧しい国でも、グローバルエリート層が貧しい国々の人々の貧しさを個人のせいにするのを助けている。
ココナッツの話が正しく修正されれば、一般の人たちがそれらのエリート層に対して、過去の不正義と賠償の問題や、国際関係の力の不均衡や、国内の経済・政治改革について、きびしい問いを突きつけるきっかけになるだろう。
(翻訳:黒輪篤嗣)
(ハジュン・チャン : ロンドン大学経済学部教授)