石川県七尾市の祖父の家。写真は地震後、1月1日夜(記者撮影)

1月1日、石川県能登地方を中心に最大震度7をはじめとする地震が断続的に北陸を襲った。記者は、石川県の七尾市の祖父宅で大地震に遭遇した。

「ヒロト、お前もついに就職かぁ」。 そんなたわいもない会話をしながら、昨年9月に大学を卒業した従兄弟と日本酒を酌み交わしていたところ、祖母特製のおせち料理が詰まった重箱がカタカタと揺れ出した。

1月1日16時ごろ、筆者は5年ぶりに帰省した石川県七尾市の祖父宅で大地震に遭遇した。 当時、集まっていたのは筆者の妻子や父、祖父母ら計9人。最初の振動から若干遅れて各々のスマートフォンがけたたましいアラート音を発する。緊急地震速報だ。

数秒で揺れは収まり、このときは特に被害はなかった。 「ビックリしたね」などと話しながら、筆者はまぁ大丈夫だろうと考え、畳に腰を下ろして盃をまた手にした。

姿勢を保てなくなる激しい揺れ

すると突然、誰かに激しく揺さぶられたように、姿勢を保てなくなった。座布団に手をつき、土下座するような格好で動けなくなる。熱燗は飛び散り、ガッシャンガッシャンと何かが割れるような音も聞こえる。

「ミオを隠して!」 妻の叫び声を聞き、驚き立ちすくむ1歳9ヶ月の娘を1メートルほど先に見つける。はって近付き、腕をつかんで思い切り引っ張る。そのまま、皿や料理が散乱してグチャグチャになったテーブルの下に頭を突っ込ませた。はみ出た下半身に覆い被さり、ひたすら落ち着くのを待った。

どれぐらい時間がたったのか分からない。 ようやく揺れがおさまり、「大丈夫か」と声を掛け合う。 トイレに入っていたという82歳の祖母が右腕を押さえながら出てきた。落ちてきた棚で手首を切ったらしく、5センチほどの裂傷がパックリと開いていた。 買ったばかりだったという祖父自慢の65インチのテレビは無惨に倒れ、液晶の左半分がバキバキに割れていた。

照明も割れ、破片が部屋中に飛び散っている。幸いにも築約50年の木造家屋が潰れることはなかったが、部屋の中はメチャクチャだ。 祖父宅は七尾港から約1キロほどの位置にある。押し寄せた海水が街を飲み込む、3.11の映像が頭の中で蘇った。

「早く逃げるぞ!」 筆者がそう声をかけると、祖父母は我に返ったかのように身支度を始めた。 せんべいや飲料水のペットボトルなど、目についたものを片っ端からバッグに詰め込み、全員で家を出た。 水道管が破裂したのか、あたりは水浸しで土砂が噴き出てぬかるんでいる。 筆者に抱かれた娘は顔を胸に埋め、外を見ようとしない。


石川県七尾市、地震後の1月1日夜(記者撮影)

倒れた石垣や傾いた家屋を横目に、近所の小学校へ向かった。 大津波警報が出ていた。とにかく上へ上へ逃げなければならない。 校内にはすでに多くの避難者が集まっていた。懐かしい地元の旧友や恩師の姿もある。だが、再会を懐かしんでいる余裕はお互いになかった。 娘を抱き抱えながら、階段を登っていく。最上階の3階にたどり着いたが、まだ不安だ。 屋上へ続く道を探し、また階段を登った。

屋上から低い場所に降りるのは怖い

普段は施錠されているのだろうが、地震の被害だろう。窓ガラスは全面割れていて、窓枠をくぐるようにして外へ出た。 靴底でジャリジャリとガラスの破片が砕ける感触がした。 屋上からは七尾湾を一望できた。 海は穏やかで、いつもと変わらないように見えた。 その静けさがかえって不気味で、筆者は海から最も遠い端の方に親族を誘導した。

叔母が持ってきた毛布を敷き、そこに並んで座った。 30分から1時間ほど、じっとしていただろうか。 日は暮れ始め、だんだんと冷え込んできた。 屋上へ逃げてきていた人たちも校舎内へ戻っていき、いつの間にか筆者と親族だけになった。 父や叔父と話し合い、寒さをしのぐために屋内へ移動することにした。

とはいえ、低い場所へ降りるのは怖い。 筆者たちは3階の踊り場付近で座り込んだ。 水道はまだかろうじて生きていた。今のうちに用を足し、親族にもそうするように勧めた。

「負傷者は1階の保健室へ来てください」と校内放送があった。 祖母は疲れているのか、パニックになっているのか、座椅子に腰を下ろしたまま微動だにしない。 「腕の傷を見てもらいなよ」と声をかけても、「嫌や!動きたくない!」と言って聞かない。 筆者の妻がどうにかなだめすかし、ようやく立ち上がらせた。幸いにも軽傷だった。

この間も余震は断続的に襲ってきた。 ガタガタと校舎は震え、掲示物の紙やポスターがカサカサと音を立てる。 その度に緊急地震速報のアラートがあちこちで鳴り響く。 サイレンが何層も重なり合い、不協和音を奏でる。仕方のないことではあるが、ただでさえ過敏になった神経を余計に苛立たせられた。音が鳴るたびに娘は怖がり、筆者か妻にしがみついてしばらく離れなかった。

日が落ち切ったころ、金沢市から帰省していた叔父が自宅へ帰ることを決めた。 NHKニュースを見ると、七尾港には50センチの津波が既に到達した後だった。 祖父宅へ車を取りに戻るという叔父に妻子とついて行き、荷物をまとめることにした。 娘のオムツやら着替えやらを確保しなければならないからだ。

「いつ断水するかわかりませんよ」

一帯に街灯は少ない。スマートフォンのライトでぬかるんだ道を照らしながら歩いた。 祖父宅のリビングは、棚に飾ってあった置物やゴルフコンペの優勝カップが散乱していた。 この日の夜、筆者と妻子は七尾駅近くのビジネスホテルに宿泊する予定だった。 だが、いくら掛けてもホテルと電話が繋がらない。 仕方ないので、歩いてホテルまで行き、宿泊できるのか確認することにした。

道路はあちこちが陥没したり隆起したりしていて、パックリと地割れが起きている箇所もあった。 妻子を祖父宅に残し、それらを横目に15分ほど歩く。 パトカーや消防車がサイレンを鳴らしながら、せわしなく街中を駆け回っていた。

ホテルのインターホンを押すと、こわばった表情の中年女性スタッフが現れ、動かなくなった自動ドアを力ずくで開いた。 「シャワーは使えないし、いつ断水するか分かりませんよ」。 宿泊客だと告げると、そう念押ししたうえでチェックインの手続きをしてくれた。

「避難者も来ているんですか?」と尋ねると、女性スタッフは「はい。廊下とかにも…」と言葉少なだった。疲れ切った様子の背後で、電話機は絶えず着信音を鳴らせていた。

ひとまず、この日の避難先は確保できた。 妻子を迎えに祖父宅へ歩いて戻る。 途中、陥没した道に差しかかる黒のSUVが見えた。 とっさに「危ないですよ!」と声をかけたが、聞こえない。 穴の手前にあった隆起した道路の破片に乗り上げ、「ドスン」という音と共に車体がバウンドする。 そのまま走り去っていったが、タイヤがパンクしていないことを祈るばかりだ。


1日1日夜、七尾市内のコンビニ(記者撮影)

祖父宅へ着き、妻子と共に父が運転する車へ乗り込む。 壊れた道路を迂回しながら、ホテルまで送ってもらった。 食料確保のためにコンビニへ立ち寄ると、店内は買い物客であふれかえっていた。 棚は倒れ、床にはペットボトルや酒類の瓶が散乱し、人々は無事そうなものを拾って競うようにカゴへ放り込む。 パンやおにぎり、お惣菜はほとんど残っていなかった。

しかたなくカップラーメンや魚肉ソーセージを持てるだけ手に取る。 レジは動かず、女性店員は「お代はお気持ちだけで結構です」と小さなカゴを差し出す。 そこには紙幣が何枚も折り重なっていた。 筆者は財布から1万円札を取り出し、「お釣りはいりません」と手渡した。 「こんなに受け取れません」。女性はそう言って、小カゴから5千円札1枚と千円札2枚を引っ張り出し、筆者の手に握らせた。

小さな揺れが何度も襲ってくる


宿泊予定だったビジネスホテルのエレベーターは停止しており、6階まで非常階段を使った(記者撮影)

妻に抱かれた娘の姿を認めると、女性はまだ温かい肉まんとあんまんを紙に包んでビニール袋に入れてくれた。 ホテルで通された部屋は6階。 エレベーターは停止していて、非常階段を登って向かった。 ようやく一息つき、セミダブルのベッドへ娘を寝かせた。 不安なのか、少しでも離れると泣き叫ぶ。首の下に腕をまわし、両手を握っていないと落ち着かない。

「もう大丈夫だよ」と語りかけていると、いつしか娘は眠りに落ちた。 叔父からLINEで金沢市の自宅へ着いたと連絡があった。 従兄弟が集めていたガンダムのプラモデルが壊れたぐらいで、大きな被害はなかったという。 父と祖父母は自宅へ戻った。妻がホテルへ来いと誘ったが聞かない。 しかたないので、肉まんをかじった後、筆者は妻と娘と3人、川の字で横になった。

震度3ほどの小さな揺れが何度も襲ってくる。 その度に筆者や妻が娘に覆い被さり、その小さな手を握る。 救急車や消防車のものとみられるサイレンも夜通し鳴り響いていた。 ほとんど寝られないまま夜明けを迎えた。顔を洗いたいが、水道から水は出ない。しかたなくテレビをつける。 明らかになりつつある被害の全貌をNHKのニュースで知り、呆然とする。 今はただ、これ以上の犠牲者が出ないことを祈るしかできない。

(石川 陽一 : 東洋経済 記者)