Aマッソ加納「後悔は芸人の宿命なのかもしれない」
Aマッソの加納愛子さんが語る「最高の仕事」とは?(写真:新潮社)
人気お笑いコンビ・Aマッソの加納愛子さんが綴る、生まれ育った大阪での日々。何にでもなれる気がした無敵の「あの頃」を描くエッセイの、今回のテーマは「最高の仕事」です。
「後悔ばっかだよ」今後も避けられない芸人の宿命
ありふれた言葉だけれど、やはり人生にはさまざまな後悔がつきものだ。その感情をきちんと自分の中で受け止めているかどうかは別にして、どんな道を選んだとしても何ひとつ悔いることなく生きられている人はなかなかいない。
とくに芸人という職業は、舞台の上では目の前の人たちを笑わせることに集中しているものだから、自分でも驚くほど狭い視界での言動をしてしまうことがある。お客さんの前では強気に振る舞っていても、袖にはけた瞬間に「なんであんな事言ったんやろ」「あれも言えばよかった」と後悔に襲われることは日常茶飯事で、ほかのコンビを見てもたいてい楽屋に戻りながら「あそこごめん」「いや俺も」と移動式反省会を始めている。
ウケたときはまだいいのだが、スベった場合は目も当てられない。相方に「なんであんな事言ったん?」と言われても「いやそれは自分が一番思ってるから!」と理不尽に言い返す有様だ。
さらに、その出番が決め打ちではないトークや企画コーナーならば、つい先ほどの自分を恥じるだけですむが、漫才やコントなどのネタがうまくいかなかったときはとくにつらい。ネタを書いた自分や稽古をした自分など、その日に至るまでのいろんな自分を一気に否定しなければならないのだ。そうしてひどいときには「やらなければよかった」まで行き着く。
劇場では大勢のお客さんの前に立って自己顕示欲を満たしている一方で、毎日ジェットコースターのような自己肯定感急降下のリスクにさらされている。テレビで共演させてもらった大ベテランの先輩芸人も「後悔ばっかだよ」と嘆いていたから、これは今後も避けられない芸人の宿命なのであるのかもしれない。
後悔で言えば、私が新人の頃によく思っていたのは「あと少し早く、18歳で芸人を始めていれば」というものである。
今でこそ同期のありがたさを実感したり、大学時代の経験を生かせる機会があるおかげで、この年齢と芸歴で良かったと思えるが、当時はそうはいかなかった。実力が伴っていないのに偉そうに説教してくる先輩に対して、生返事をしながらも、内心「高卒で芸人始めとけばこいつにジュース買いにパシらせられたのに、くそ」と毒づいていた。
芸人の世界では年齢や能力は関係なく、始めた時期で上下関係が決まるので、頭の中でその先輩が自分に敬語を使っているところを想像しては、有り得たかもしれない状況を進学によって逃したことを口惜しがった。今思えばきっとその先輩も、ろくに挨拶もしない生意気な私に対して「こんなやつの後輩じゃなくて良かった」と安堵していたにちがいない。
「芸人にならなければよかった」とは思ったことがない
そんなわけで日々後悔はなくならないが、幸せなことに「芸人にならなければよかった」と思うことは今まで一度もなかった。これは私だけが特別にそう思っているわけではなく、まわりを見渡しても芸人になったこと自体を後悔している人はあまりいないようにみえる。
もちろんシビアな世界だから、ほとんどの人がこの仕事だけでは食べていけてはいないし、結果が出ない間は先が見えずに精神的につらいことも多い。それでもどうやら、芸人は芸人という生き方が好きすぎるようだ。だって、自分の言ったことで、見ている人達が笑うのだ。人を笑わせる以上に素晴らしい行為はない。だから芸人がこの世で一番最高な仕事だと信じてやまない。もはや芸人という職業に片思いしているといっても過言ではない。
漫才の大会であるM-1グランプリが始まった当初の参加規定で「結成10年以内」という項目があった理由が「芸人を辞める踏ん切りをつけさせるため」だというのも頷ける。なにかしらの節目がないと、こんな好きな仕事を自分から辞められるわけはないのだ。みんなできることならずっと芸人を続けていきたい。成功するのはほんのわずかだとわかっていても、自分には芸人が天職なのだと思いたい。
私ももちろんそんな芸人の1人ではあるけれど、これまで10年間この仕事を続けてきて感じることがある。それは自分にとって、芸人が「天職なわけではない」ということである。こう書いてみると身も蓋もないが、実際いろんな芸人に出会うとわかる。
芸人の中には、まるで生まれたときから芸人になることが決まっていたかのような、ほかの仕事に就いている姿が想像できないと思わせる、明らかに天職な奴がいる。売れている売れていないにかかわらず、そんな奴にはどうしたってかなわない。私は悲しいかな、あらゆる職場で働いてる自分がたやすく想像できてしまう。ではなぜ芸人になることを選んだのか。それは性質ではなく環境によるところがとても大きかったと思う。
芸人を目指した要因の大部分は、高校時代の環境や経験にある気がする。
教室内で驚くほど無敵だった高校時代
通っていた学校は大阪市立の商業高校で、私が入った商業科には男子生徒が3人しかいなかったため、ほとんど女子校のような状態だった。しかし真の女子校ではなく、商業高校であったのがミソだ。
親が「かわいい我が子に変な虫がついたら大変」と言って入学させる箱入り娘だらけの私立女子校とは違い、親が「早くそろばんと簿記覚えて働かんかい」と言って放り込む高校だから、品性のかけらもなかった。そして生徒はなぜかうっすら自嘲的な雰囲気があり、誰かが耳にしたある有名歌手の「私の歌の恋愛観は、商業高校の子にはきっとわからない」というような発言を知っても「確かに〜!」とケラケラ笑える奴らばかりだった。
さらに、卒業したらできるだけラクで近所にある福利厚生の整った職場で働きたいとしか考えていない生徒が多く、逆にその野心のなさによって、高校生活をラフに楽しみ尽くそうという空気もあったのかもしれない。高校生活は将来に向けたなにかの前段階ではなく、ただ高校生活であると捉えていたようだった。
思春期という一番異性を意識する年齢のはずである私たちは、教室内で驚くほど無敵だった。私が授業中におならをして「ごめん屁こいた」と言っただけでみんなむせるほど笑ってくれたし、休み時間に、誰かが黒板の横に置いてあるラジカセでシンディ・ローパーの『Time After Time』を流しはじめ、曲の間に各々おしゃべりをしながらも「Time After Time」の部分だけは全力で走って集まるという、わけのわからないノリに夢中になったりもした。
とはいえ年頃の高校生の話題はもちろん恋愛が中心なわけで、例にもれず私たちも毎日そこかしこで色恋話に花を咲かせていたが、女だらけの場ではそれはあまりにも開けっぴろげに行われた。クラスメイトの2人が教室の端と端で昨日の他校の男の子とのデートについて事細かに話しているのを、担任の先生が業を煮やして注意するときも「授業中にしゃべるな!」ではなく「そんな話聞かすな!」と内容の過激さに言及していた。クラスにいる3人の男子は、みんなそろってまっすぐに板書された文字を見つめていた。
お調子者の私にとっては、そういった温室ともいうべき環境でぬくぬくと3年間を過ごしたことが、「この先もずっとこんな感じでアホみたいに過ごせたらええなあ」という感情を積み上げさせた。クラスには自分より面白い奴もいたし、自分より華があって人前に立つのにふさわしい奴もいた。
しかし誰も芸人にならなかった。私だけが芸人になった。きっと少しだけ、自分自身に対する期待値がまわりの友達より大きかったのだ。そして何より、日常の中で交わされる意味をもたないやり取りに固執していた。誰の心にも一瞬しか咲かなかった言葉たちが私の中でだけ沈殿していき、取り出して遊びたいと思ったときには誰もいなくなっていた。
高校卒業間近、友達との会話
高校3年の卒業間近、友達数人で「これからうちら、どうなっていくんやろうなぁ」と不毛な感傷に浸っていたら、そこにいた沙希子が「卒業したら、両親が離婚する予定やねん」と打ち明けた。
沙希子の両親は彼女が中学生の頃からずっと会話がない冷めきった夫婦だったが、彼女の高校卒業までは別れずにお互い「子育ては最後までやりきった」としたいらしかった。
沙希子はつとめて明るく話していたが、ボソッと漏らした「もう卒業せんとダブったろかな」が本音であると思った。それを聞いて、どう反応すればいいかわからず困惑している私たちの空気を察して、沙希子は「でもそうなったら1人だけジャージの色ちがうの耐えられへんか」と言った。するとその場にいた好美が「おい!」と大きい声を出した。好美は留年していて1つ年上であったので、みんなが赤いジャージを穿いている中で、平然と緑のジャージを穿いていた。
その「おい!」の声で、私もほかの友達も笑った。笑いながら、私は笑いの力を目の当たりにして、美しさと悔しさで泣きそうになった。その場を助けた「ジャージの色ちがうの耐えられへん」も「おい!」も、できることなら私が言いたかった。ぼーっとしてないで、自分の言葉で優しい沙希子を救いたかった。
今日もどこかに、沙希子のような子がいるかもしれない。私は多くの後悔にまみれながらも、いつかの後悔に突き動かされるようにして、最高の仕事を続けていく。
(加納 愛子 : 芸人)