『紫式部日記絵巻』の紫式部が印刷された2000円札(写真:ニングル/PIXTA)

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、『源氏物語』を生み出した紫式部の人生が描かれます。平安時代にこの物語が誕生した背景には何があるのでしょうか。東京大学史料編纂所の本郷和人教授の著書『愛憎の日本史』より一部抜粋・再構成してお届けします。

平安時代は男女関係が政治関係を大きく左右した

日本最高峰の古典文学と言われる『源氏物語』。その主たる題材は、まさに「愛憎」です。男性と女性の間で繰り広げられる恋愛やそこから生まれる憎しみや悲しみが、赤裸々に描かれた作品です。なぜ、平安時代にこの物語が生まれたのか。それは、男女の恋愛が大きく政治に影響を与える時代だったからこそ、です。

政治というものは、基本的にはシステムで動くものなので、「ドロドロとした人間関係が影響するわけがない」「恋愛で政治が変わるわけがない」などと言われてしまうのですが、平安時代は男女関係が政治関係を大きく左右する重要事項だったのです。

『源氏物語』が生まれた一条天皇の時代は、藤原氏の内部で大きな権力闘争が起こっていました。対立していたのは、藤原定子の兄である藤原伊周と藤原彰子の父である藤原道長です。

定子と彰子は共に一条天皇の正妻であり、同じ立場にいるライバルのような存在。決め手となったのが、どちらの女性が天皇により多く愛してもらい、早く子をなすことができるのかでした。

「天皇の子どもを誰が生むかによって、誰が権力を握るか決まる」という権力構造は、偶然性が作用する非常に危ういものですが、これが摂関政治における一つの特徴です。

どこが危ういのかというと、すべてを偶然に頼らねばならない点でしょう。まず、自分に娘が生まれなければならない。しかも、その娘を天皇の妻にして、子どもを産ませなければならない。仮に子どもが生まれても、その子が男の子であるかもわかりません。これは、非常に不安定極まりない。

本来、政治というものは、システムさえ確立されていれば、どんな人が天皇であっても本来は構わないし、言ってしまえばお飾りでも構いません。それを見事に体現したのが、江戸時代の徳川幕府です。徳川家康は「将軍はバカで良い」と割り切り、3代将軍の家光以降は、どんなに無才で問題のある人間であっても長子が跡を継ぐようにと決めていました。

要するに、将軍はお飾りに過ぎず、幕府というシステムでしっかりと政治を運営すれば問題がないと家康は考えていたわけです。実際、徳川家の家臣たちがしっかりとトップを支えていたので、将軍はお飾りでも全く構いませんでした。

しかし、藤原氏の摂関政治においては、誰が天皇の寵愛を受けるか、そして誰が天皇の子どもを先に産むか、という男女の交わりが、政治の行方を決める最大の比重を占めていました。

だからこそ、藤原氏で「自分がナンバーワンになりたい」という権力欲が強い人は、天皇の妻にするにふさわしい年ごろの娘がいることが、最大の武器になります。もしその家に娘が生まれると、息子が生まれたときよりも、一族は喜んだと言われます。

紫式部や清少納言は、妻たちの恋愛を演出する存在だった

でも、娘が生まれたからといって、安心はできません。自分の娘を天皇に嫁がせたからといっても、その娘が子どもを産まなければお話にならないからです。

紫式部の時代にも、藤原氏から嫁いだ定子か彰子のどちらが一条天皇の子どもを産むかでバトルが繰り広げられましたが、彰子が産んだ子どもが次の天皇になったことで、道長の権力が確立されたのです。平安時代では、恋愛関係が政治や権力にそのまま影響することがよくわかります。

仮に結婚しても、天皇が娘の元に通ってくれなければ子どもはできないので、気を引くためにどうしたらよいかを、貴族たちは必死に考えました。そこで、藤原氏をはじめとする貴族たちが行ったのが、教養のある女性たちを娘の周囲に集め、文化的なサロンを作ることでした。

自分の娘のサロンが、華やかで賑やかで知的に洗練されたものであれば、天皇もその評判を聞きつけて、娘のもとに通う傾向があったため、定子の兄である藤原伊周も、彰子の父である藤原道長も、天皇が思わず立ち寄りたくなるようなサロンを一生懸命整えました。

文化的なサロンを支えてくれるであろう文化的な匂いがする教養のある女性たちを探した末、伊周がスカウトしてきたのが『枕草子』の清少納言でした。一方、道長がスカウトしたのは歌の名手である和泉式部や『源氏物語』の紫式部でした。つまり、清少納言や紫式部たちは、天皇に通ってもらえるような良い空間を演出する役割を担っていたのです。

女性が大きな役割を果たす空間では、武力が優位であってはなりません。腕力や暴力といった武力が大きな価値を持つ場では、身体的な差がある以上、男性が大きな権力を持つ空間になりかねない。だから、武力が幅を利かせる世界では、女性は活き活きとは活躍しづらいものでしょう。

しかし、平安時代の後宮のように、藤原氏という強い貴族の権力に守られながら、安全と平和が保証された空間であったからこそ、才能ある知的な女性たちが自らの才能を開花させ、『源氏物語』をはじめとする数々の女性文学が生まれたのだと僕は思います。

『蜻蛉日記』に描かれた赤裸々な恨み節

平安時代に生まれたたくさんの女流文学で主題となるテーマは、主に恋愛です。それは、恋愛というものが、この時代に非常に高い価値を持っていたとも言えます。

たとえば、当時の日記文学『蜻蛉日記』の著者として有名なのが、藤原右大将道綱母という人物です。彼女は、道長の兄弟である右大将道綱の母親として知られています。

『蜻蛉日記』で特に僕が気になったのが、右大将道綱母が藤原道長の父でもある藤原兼家への愛憎について綴っている描写です。日記では、兼家が自分の元にちっとも通ってこないことへの不満や、「今日もあの人は来てくれなかった。他の女のところに行っている違いない、ああ悔しい、悔しい」というような恨み節が赤裸々に描かれています。

性に奔放な平安時代なのだから、右大将道綱母にしても兼家を待たず、違う男を見つけて適当にストレス発散するという方法もあったはずです。事実、当時は他の人と付き合うのも、離婚するのも、いまよりずっと簡単でした。でも、それをせずに、ひたすら彼を待ち続けて嫉妬をし続ける。兼家がそんなに良い男だったとは思えませんが、そのあたりもやはり男女の間でないとわからないことなのでしょう。

この人間臭い表現にあふれた日記を読むと、どんなに身分が高くても、時代が変わっても、男女の間柄というのは変わらないのだなと思わざるを得ません。そのあたりは、平安時代の人々の心の動きを知るという意味でも、非常に勉強になるものです。

『源氏物語』では触れられない名もなき庶民の苦しい日常

このように「恋愛が重要視された時代だった」と説明すると、平安時代は誰にとっても平和なのんびりした時代だと思われてしまうかもしれませんが、実態はそんなことはありません。

平安時代の平和は、あくまで一部の貴族たちだけのもの。庶民まで平和の恩恵を受けていたとは、到底言えないものでした。

平安時代をイメージする上でわかりやすいのが、芥川龍之介が書いた『羅生門』という短編です。作中、主人公が羅生門に入っていくと、その中には死体がゴロゴロ転がっていて、痩せた老婆が死体から髪の毛を抜いてかつらを作ろうとしているシーンが描かれます。

この描写は、当時の平安時代を語る上で、決して誇張されたものではありません。貴族たちが優雅な生活を送る一方で、平民たちは住む家もなく、食べるものもない。流行り病で簡単に死んでしまうし、死体がゴロゴロと転がっているような不潔な環境で生きていた。貴族たちが暮らしていた空間とはまったく別ものの世界がそこにありました。

貴族社会の一部ではそうした平和が保たれていたからといって、日本全体が平和な時代だったわけではありません。

『源氏物語』が平安時代を代表する作品だとは言いがたい

『源氏物語』が日本文学の最高峰の作品であることには、僕は異論の余地はありません。しかし、『源氏物語』が平安時代を代表する文学かというと、少しの疑問があります。

同作は平安王朝を代表する文学ではありますが、平安時代の大多数の人々の生活はそこには描かれていません。だから、『源氏物語』が平安時代を代表する作品だとは言いがたい。

平安時代の貴族社会はとにかく狭かったので、僕の推測ではありますが、貴族たちの数はおそらく500人もいなかったのではないでしょうか。

その小さなコミュニティのなかで『源氏物語』の読者となった人々はもっと少なく、藤原道長や彰子、またはその取り巻きをはじめとする、ごく一部のスーパーエリートだけです。朝廷内でも『源氏物語』の名前を知っている人はいたかもしれませんが、実際に読む機会を持てた人というのはほとんどいなかったのではないでしょうか。

『源氏物語』が貴族の教養として定着するのは、室町時代以降で、それまでは一般的にこの作品が読まれることはありませんでした。


室町時代の貴族たちが娯楽や教養として『源氏物語』を愛した裏には、「ああ、昔は自分たち貴族にもこんな華やかで良い時代があったのだ」と失われたかつての栄光を懐かしむ側面が強かったのではないかと僕は思います。

鎌倉時代に入ってから、徐々に貴族の威勢は失われ、暴力で物事を解決する武士の時代へと移行し、以降、貴族は財産もなければ権力もない形骸化した存在でした。かつてはセレブだった昔の時代を偲ぶように、多くの貴族たちが『源氏物語』を愛好したのでしょう。

2024年の大河ドラマでも『源氏物語』が取り上げられます。作中で描かれる華やかな王朝絵巻のような世界は存在したかもしれませんが、あくまで非常に限定的な世界であり、裏には名もなき庶民の苦しい日常があったことを、ぜひみなさんにも知っていただきたいと思います。

(本郷 和人 : 東京大学史料編纂所教授)