松田宣浩インタビュー(前編)

 ソフトバンクで17年、巨人で1年プレーし、明るいパフォーマンスでファンから愛された松田宣浩。松田に対して並々ならぬ想いを抱くライターの菊地高弘氏が、今季限りでユニホームを脱いだ松田に「熱男」の原点を聞いた。


松田宣浩氏の代名詞となった「熱男」ポーズ photo by Sankei Visual

【中学時代は声を出した記憶がない】

 今から3年前、自宅のリビングでソフトバンク対巨人の日本シリーズのテレビ中継を見ていると、当時5歳の息子が急に笑い始めた。

「なんでこのひと、ケンケンするの?」

 テレビ画面には、ソフトバンクの松田宣浩がファウルを打った拍子に右足でたたらを踏むシーンが映し出されていた。

「この松田って選手は、ファウルを打ったあとにケンケンするんだよ」

 そう教えると、息子は身を乗り出してテレビ画面に見入った。ほかの打者がファウルを打つたびに、「なんでこの人はケンケンしないの?」と不満をこぼしながら。

 その日を境に、息子は野球に興味を持つようになった。おもちゃのバットでゴムボールをかっ飛ばすと、豪快に右手を振り上げ「あつお〜!」と叫ぶ。3年が経った今、小学3年生になった息子は学童野球チームで野球を楽しみ続けている。

 松田をきっかけに野球に興味を持つようになったのは息子だけではなく、全国に無数にいるのではないだろうか。いつか会う機会があれば、お礼がしたい。そう思っていたところへ、今季限りで現役引退した松田のインタビュー企画を提案された。

 インタビュー当日、「のっけから私的な話で恐縮ですが」と前置きしつつ、息子が野球に興味を持った話とお礼をさせてもらった。すると松田は「それはよかったです」と笑い、こう続けた。

「もう、この話で今日は終わりでいいんじゃないですか?」

 だが、こちらには松田に聞きたいことが山ほどあった。

 私は松田のことを中京商(現・中京)、亜細亜大に在籍したアマチュア時代から見ていたが、当時は球場内に響き渡るような大声を飛ばすキャラクターではなかった。そんな印象を伝えると、松田は淡々とこう答えた。

「昔を知ってる人は、みんな言いますよ。本人もそんな感じです。当時は『声を出してやる必要はないやろ』と思っていましたから」

 松田は当時の自分を「寒男(さむお)」と表現する。野球人生で一番「寒男」だったのは、栗東ボーイズに所属した中学時代だったという。

「中学時代は声を出した記憶がないですからね」

 所属するチーム内には絶えず声でベンチを鼓舞するムードメーカー役がいたが、松田は「頑張っとるな」と見ていた。といっても小ばかにしているわけではなく、「チームにとって大事な存在」とリスペクトしていたという。

【熱男はやってよかった】

 ソフトバンクに入団して6年目のシーズン終了後が転機だった。チームのムードメーカーだった川粼宗則(現・栃木ゴールデンブレーブス)がMLBに移籍するため退団。その際に、川粼は後釜として松田を指名している。

 松田は当時を「タイミングがよかったんです」と振り返る。

「その年(2011年)は初めてフルイニングで出られて、キャリアハイの成績を残せたシーズンでした。そのオフに言われたので、次の年から切り替えてやれましたね」

 とはいえ、いきなり"キャラ変"するのは難しいはずだ。そこで松田に「『ムードメーカーになりたい』と悩む人がいたら、どんなアドバイスを送りますか?」と聞いてみた。松田は間髪入れずに「やると決めたら、とことんやること」と答えた。

「変身するというか、なりきって演じることも大事です。僕の場合はユニホームを着たら、もうスイッチが入るので簡単でした。といってもムネさん(川粼)にはなれないので、自分らしくひとりのムードメーカーになれればいいと考えていました」

 2015年にはチームスローガンだった「熱男」のフレーズを浸透させるため、パフォーマンスを始めた。松田が本塁打を打つたびに、多くのファンと声を合わせて「熱男〜!」と叫ぶのが定番となり、「熱男」は今や松田の代名詞になっている。

「どうせ野球をやるなら、違うところで記憶に残りたいなと思っていました。だから『熱男』はやってよかったなと」

 ただし、光があれば影がある。松田が派手なパフォーマンスをすることで、ネガティブな反応もあったのではないか。ファンの批判の声がSNSを介して選手へダイレクトに伝わりやすい現代では、平穏な精神状態を保つのは難しい。だが、松田はそうした批判に対しては「結果を出せばいい」と自分に言い聞かせていたという。

 2017年のWBCでは、準決勝のアメリカ戦で三塁ゴロをファンブルして決勝点を許す手痛いミスを犯した。それでも、松田が絶望することはなかったという。

「失敗したからといって、命までとられることはありませんから。勝負には絶対に勝ちと負けがあります。もちろん、自分の技術のなさ、準備不足が招いたミスなので申し訳なさはありました。でも、負けることもあるのが野球。好きな野球のことなので、人生に絶望することはなかったですね」

 練習が厳しいことで有名な亜細亜大での4年間も、松田は「きついとはまったく思わなかった」と振り返る。

「4年間頑張ったらプロを目指せると思ったら、全然きついとは思わないし、野球をやめる必要ないなと思っていました。目標があったからこそ、1日1日頑張れたので。むしろプロに入ってから練習が苦しく感じなかったので、よかったと思ったくらいです」

 そして、話題は大学時代にはしていなかった「ケンケン」へと移っていった。

後編へつづく>>


松田宣浩(まつだ・のぶひろ)/1983年5月17日、滋賀県出身。小学2年生から野球を始め、中京高2年の時に双子の兄とともに夏の甲子園に出場。亜細亜大を経て、2005年の大学・社会人ドラフトにて希望枠でソフトバンクに入団。08年から三塁手のレギュラーに定着すると、ゴールデングラブ賞8回、ベストナイン1回など、長きにわたり主力としてチームを牽引。侍ジャパンのメンバーにも選出され、第3回、第4回WBCに出場した。22年オフに巨人移籍を発表。23年限りで現役引退を発表した。