便が薬に?腸炎などで進む「糞便移植」実態と懸念
健康な人の腸内細菌叢を移植する糞便移植では、近年、便バンクの整備も進んでいます。今後の有望分野である糞便の医療利用を概観してみましょう(写真:ノンタン/PIXTA)
先行き不透明なVUCA時代、ビジネスを取り巻く環境の目まぐるしい変化に対応するには、グローバルな視点と幅広い教養が必須です。そんななか、「ビジネスパーソンこそ、最新の科学トピックスに親しんでいただきたい」と、作家で科学ジャーナリストの茜灯里さんは語ります。
地球環境、生命科学、宇宙、テクノロジーなど多岐にわたる科学技術分野のニュースを国内外の原著論文や背景と共に紹介するコラム連載をまとめた書籍『ビジネス教養としての最新科学トピックス』から抜粋、人気のテーマをいくつか紹介します。
他人の糞便は薬になる?
オーストラリアの医薬品・医療機器の管轄機関である保健省薬品・医薬品行政局(Therapeutic Goods Administration:TGA)が糞便微生物移植(Fecal Microbiota Transplantation:FMT)を承認したと、2022年11月にイギリスの『ガーディアン』紙が報じました。
糞便微生物移植(FMT)は腸内細菌叢移植とも呼ばれており、健康な人の便に含まれている腸内細菌を患者の腸内に移植することによって腸内環境の正常化を目指す治療法です。
『ガーディアン』紙は「国家の規制当局が承認した世界初の事例」としていますが、オーストラリアで認可されたのは再発性のクロストリジウム・ディフィシル感染症(Clostridium Difficile infection:CDI)に対してのみで、これまでもアメリカで同疾患に対する糞便移植が規制当局のアメリカ食品医薬品局(FDA)に認可された事例があります。といっても、ニュースの価値が下落するわけではありません。
アメリカ・シンクタンクは、糞便移植や糞便由来の治療薬の市場は2025年頃までにアメリカ国内だけで500億円規模になると予想しています。アジアやヨーロッパを加えると1000億円規模になると見積もられています。イギリス連邦での初めての承認は、世界的な拡大に拍車をかけると考えられます。
FMTは日本でもCDIに対する先進医療として臨床応用が始まっており、「アイバンク」や「骨髄バンク」のような「便バンク」の整備も進んでいます。今後の有望分野である糞便の医療利用を概観してみましょう。
病気の発生に関わる腸内細菌叢
ヒトの腸内には約1000種類の細菌が生息し、その総数は100兆から数100兆個、重さにして1〜2kgといわれています。これらの腸内細菌の全体を腸内細菌叢(腸内フローラ)と呼び、代謝を通じて細菌同士や宿主であるヒトと複雑なやり取りをすることで、ヒトの健康や病気の発生に大きく関わっていると考えられています。
善玉菌、悪玉菌という呼称や、腸内細菌の健康への影響は、一般ニュースにもよく取り上げられます。ヒトの腸は母親の胎内にいるときは無菌状態ですが、自然分娩では産道、帝王切開では母親の皮膚にいる菌に触れて、最初の腸内細菌となります。
1960年頃までは腸内にいる細菌は大腸菌だけだと思われていましたが、その後、研究が進んで多種多様な細菌が集合体を作っていることがわかりました。
2000年代に入ると、腸内細菌の研究は飛躍的に進みました。1990年にプロジェクトが立ち上げられた「ヒトゲノム計画」は、ヒト遺伝子の全解読という成果のほかに、遺伝子解析用の機器も発展させました。
遺伝子の大量解析ができる「次世代シーケンサー」の開発によって、1つひとつの腸内細菌を培養して観察しなくても、腸内細菌叢にどのような細菌がいるかを網羅的に調べることができるようになり、2007年にはアメリカで「ヒトマイクロバイオーム計画」という人体に棲む細菌を探る国家プロジェクトが立ち上がります。
腸内細菌の研究が進むにつれ、腸内細菌叢の乱れは炎症性腸疾患や過敏性腸症候群などの消化器疾患だけでなく、肥満、糖尿病、関節リウマチ、うつなど、さまざまな疾患に関係していることが明らかになってきました。
ところが、健康な人の腸内細菌叢を細菌培養によって患者に再現することは、細菌の種類が多く、構成が複雑なことなどからほぼ不可能です。そこで、健康な人の腸内細菌叢を患者の腸内に移植するFMTが注目されるようになりました。
もっとも、FMTによる治療は、東洋医学では予想以上に古くから行われており、4世紀の中国の文献には「下痢が止まらない人に、健康な人の便をお尻から入れたら治った」と書かれています。
西洋医学では、1958年に医師のアイズマンらによって4名の再発性の偽膜性腸炎患者に1〜3回のFMTが施され、全例で副作用なく症状が改善されたと初めて報告されました。
FMTが世界的に広まったきっかけは、2013年に医師のファンノードらが、クロストリジウム・ディフィシル感染症(CDI)に対して1回投与で81%、複数回の投与で94%という顕著な再発抑制効果と腸内細菌叢の多様性が回復されたことを示した報告です。
CDIは、抗菌薬を外科手術で大量に使ったり、長期間使ったりすることで、抗菌薬に耐性を持つクロストリジオイデス・ディフィシル菌だけが異常繁殖して、腸内細菌叢が乱れることが原因で発症し、最悪の場合は命を落とします。アメリカでは毎年50万人が罹患し、3万人が死亡するといわれています。
アメリカなどで「便バンク」が設立
それまでの治療の主流は、なんとか効き目のある抗菌薬を探して投与することでしたが、再発するものは治療が困難でした。
その後、アメリカでCDIに対するFMTが通常医療として認可されると、アメリカ、オランダ、中国などで健康な人の便を集めた「便バンク」が設立され、CDI患者に正常な腸内細菌叢を供給できる体制が整うようになりました。アメリカの最大の便バンク、オープンバイオームOpenBiomeでは、2021年9月までに6万件の提供実績を達成しています。
日本では、外国と比べてCDIが重症化しにくい事実や、保険適用外の時代が長く医師が自由診療のリスクを避ける風潮などがあったため、FMTの普及は遅れています。しかし2013年から大学病院など8つの施設で臨床治験が始まり、便バンクも立ち上がりました。
2020年1月には、順天堂大、東京工業大、慶應義塾大の研究者によって「FMTの社会実装と腸内細菌叢の医療・創薬を推進」を目的としたベンチャー企業、メタジェンセラピューティクス株式会社も設立されています。
日本では、FMTは国の指定難病で約22万人の患者がいる潰瘍性大腸炎への適用が特に期待されています。現在は薬物療法や外科手術が採られていますが、いくつかの臨床試験ではFMTの有効性が示されています。
人の便の中にある腸内細菌叢を溶かした溶液を肛門から注入するので、他人の糞便を直接、体内に入れるわけではありません。けれど、嫌悪感を持つ人もいるようです。
心理的な障壁を越える方法
さらに、未知の部分が多いため、予期せぬ副作用が起こるリスクもゼロではありません。
2019年にアメリカで報告されたFMTによる死亡例は、移植された便に薬剤耐性を持つ大腸菌が含まれていたことが原因でした。また、肥満傾向がある提供者からの便を移植したら太り始めたという例もあります。
近年は美容外科などで、ダイエット目的で痩せ体質の人の便を移植するケースもあるそうですが、リスクがあることは十分に知っておくべきでしょう。
便の提供者にとっては病原性のない腸内細菌でも、患者側には病原性を発現する可能性もあります。
そこで注目されているのが、自分が健康な時の便を保管しておき、将来病気になってしまったときに活用する方法です。心理的な負担もなく、他人の便を使用するよりも適合しやすく、治療効果が高いと期待されています。
腸内細菌叢は「もう1つの臓器」とも呼ばれています。FMTは、これまで投薬や手術でしか対処できなかった疾患を治療する切り札になるかもしれません。まずは、日本での研究や臨床試験が海外並みに進み、知見が積み重ねられることが大切です。
【ポイント】
・健康な人の腸内細菌叢を移植する糞便移植では、近年、便バンクの整備も進んでいる
・腸内細菌叢の乱れは、消化器疾患だけでなく、肥満、糖尿病、うつ等にも関係している
・他人の糞便に対する嫌悪感やリスクから、健康時の自己糞便の保存が注目されている
(茜 灯里 : 作家・科学ジャーナリスト/博士(理学)・獣医師)