異彩の漫画家・バロン吉元さんのインタビュー後編です(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第112回。(本記事は前後編の後編です。バロンさんの生い立ちから、転機となったギャンブルシリーズ『賭博師たち』の誕生背景までを描い前編の記事はこちら

漫画執筆とギャンブル場を行き来する生活

転機となったギャンブルシリーズ『賭博師たち』。

この作品では、絵のタッチもそれまでのアメリカンコミックの画風から、バタくささは残しつつも、日本風のタッチに変えた。描画にはつけペンではなく主に面相筆を使い、その後も一貫して、ペンのタッチをいかに筆で表現するかを探求した。

綿密な取材をもとに描く漫画はリアリティがあって、すぐに人気を博した。


漫画執筆とギャンブル場を行き来する生活をしていた、ある暑い夏の日。バロンさんはいつも通り、クーラーのないアパートの一室で窓を開けて仕事をしていた。午後6時だが、まだ日は高く暑かった。

アシスタントは3人いたが、1人は買い物に行っていた。

「急に電気を消したみたいに暗くなったの。黒雲が落っこちてきたみたいだと思った。そうしたら横から稲妻がバリバリと鳴って、ブワー!! っと旋風が、アラレまじりの突風が部屋の中に吹きまくった」

竜巻だった。息をするのがやっとだったという。

狙いすましたように、バロンさんの高台にあったアパートにだけ、竜巻が発生した。

「雨戸を閉めようと思ったけど、閉まらない。仕方ないからガラスドアを閉めたら、ガラスがバーン!! と割れて。天井に2メートルぐらいの穴が空いて、ブワーッ!! と原稿が舞い上がっていった。


『賭博師たち』

アシスタントに向かって、『原稿に毛布をかけろ!!』と言ったんだけど、原稿という言葉が届かなかったみたいで、2人とも自分たちが毛布をかぶっちゃって、タンスの陰に避難している。後から思えば、結果的には良かったと思います。私はなんとか原稿を掴もうと四苦八苦するんだけど、破れて散らかるガラスの上を歩いたり何かにぶつかったり。怪我をしていても、その時は痛みを感じなかった」

30秒ほどで竜巻は去っていった。

すぐに周りも明るくなり、風も雨も上がって上天気になった。

茫然自失で周りを見ると、柱はねじ切れていた。アパートから200メートルくらい離れた場所に、屋根が落ちていた。原稿は路上にまで飛ばされ、色々な場所に散らばっていた。

「近所の人が原稿拾って届けてくれたけど、汚れて使えなかった。ちょうど締切日で、急いで編集部に電話したら、『竜巻で原稿が全部吹き飛んだ!? そんなの信じられるわけないじゃない!寝ぼけてんの?』って怒鳴られました」

駆けつけた編集者も、惨状を目前にすると茫然としていた。

その後、会社が経営している旅館に泊めてもらったが「締切日なんだから原稿は描け」と言われ、旅館で作業をすることに。8枚くらい描いたところでタイムアップになった。

雑誌には8ページだけ載って休載が発表された。

「私は、竜巻を罰のように受け止めたんですよ。それでギャンブルから手を引くようになりました。ちょうど30になった頃かな」

手塚治虫さんの提案に大賛成


『現代柔侠伝』

その後、代表作である『柔侠伝』をはじめ、様々な漫画を描き、双葉社のエース的な存在になっていった。

そんな折、アメリカで開催されたサンディエゴ・コミコンに参加することになった。

手塚治虫さん、永井豪さん、モンキー・パンチさん、他には女性漫画家や編集者という、総勢10名ほどの豪華なメンバーでの旅になった。

「コミコンからの帰りの飛行機で手塚先生の隣の席になったんですよ。フライトは11時間あるから、11時間も話ができる!! と思ったけど、手塚先生は機内でも原稿を描き始めたんです。実際に話せたのは1〜2時間でした」


『男柔侠伝』

その中で手塚さんは、

「アメリカに時々行く漫画家4〜5人で、1人1000万円づつ出し合ってプール付きの豪邸を買わないか?」

と話を持ちかけた。それが実現すればアメリカに拠点ができ、現地でも漫画を発表できる。

「私は、もう大賛成しました。『手塚先生。そのアイデアをぜひ実現しましょう』って。話が終わると手塚先生は、『バロンすまんな』と言って飛行機の小さいテーブルで、ネームをドンドン描き始めました」


『現代柔侠伝2』/Ⓒバロン吉元

以降、バロンさんの中でアメリカで家を買う計画はどんどん膨れていった。しかしそれぞれに様々な事情があり、結局人が集まらなかった。そもそも売れっ子の漫画家は日本で需要があって忙しいから、アメリカに家を買おうとは思わない。

「ただ、私の中ではもう夢が育ってしまっていて。じゃあ1人でアメリカに家を買おう!! ってなりました」

アメリカの豪邸を1人で購入

1980年。医者や弁護士などが多く住む、「ドクターヒルズ」と呼ばれる場所「ランチョ・パロス・ベルデス」に家を買った。

「孤独な生活で、スカンクやアリと格闘する日々でした。でも何より、アメリカにいること自体が楽しかった」

ランチスタイルの少し古い建物だったが、プールもついた535坪の豪邸だった。


『柔侠伝』

「その後ニューヨークへ赴き、コミコンで知り合いになったマーベルの編集長に原稿を持ち込みました。子供の頃に進駐軍からもらった10セントコミックの『バットマン』のように、自分の作品がいつか出版されないかなという思いがあったんです。結果として仕事はもらえた。でも中々連載がこなかったね。」

持ち込んだ漫画は、バロンさんが新人時代に双葉社へ持ち込んだようなアメコミタッチの作品で、『西遊記』をもとにした冒険ものだった。バロンさんの絵を見た編集者は、

「君の絵は上手いが、アメリカ人の描く漫画の絵と同じじゃないか。スタイルが同じなのはいらないね。君は日本人なんだろ? サムライのハラキリモノとか、派手な芸者の話、富士山をバックにしたヤクザの話、特攻隊の話とか、そういうのを描いて持ってきてほしい」

と言った。更に、

「普通はまず遠景から始めて、それから段々とアップに近づくんだよ」

と、漫画の基礎的な描き方を説明されたという。

バロンさんの持ち込み作品はキャラクターのアップから始まるものだった。アメコミの絵柄を継承しつつも、漫画の構成は日本で劇画を描いて培ってきた手法を取り入れていた。

「当時は完全にバカにされたと思った。世界的にジャパンバッシングの激しい時代だったから、アメリカでは日本人に対する差別も結構あって、私は反動的に『そんなの描けるか!』と断ってしまった。スタン・リーは呼んでくれていたのだけど」

スタン・リーといえば『ハルク』『マイティー・ソー』『アイアンマン』『アメイジング・スパイダーマン』『X-メン』『アベンジャーズ』などなど、現在でも愛されているマーベル・コミックの原作を書いた漫画原作者だ。

「彼とは随分仲良くなったんですよね。今から思えば、スタンも歓迎してくれていたし、マーベルの編集長もアメリカでウケるには……と考えた上で意見を言ってくれていたんだと思う。振り返れば、『ハラキリモノ』『特攻モノ』の漫画を描いたら面白かったかもね。日本では散々描いていたんだし(笑)」

そうなれば、ひょっとしたらアベンジャーズにバロンさんの描いたキャラクターが加わっていたかもしれない。

残念ながらハラキリ漫画の掲載はなかったが、それでも仕事はもらい、マーベルで作品を発表した初めての日本人になった。

マーベル以外からも仕事は来たし、原稿料は日本よりはるかに高かった。ただバロンさんは、連載でなければ生活は続けられないと判断して日本へ帰国した。

帰国後もすぐに劇画家として活動を再開した。

当時の売れっ子漫画家は、様々な漫画誌に連載を掛け持ちする人が多かったが、バロンさんも同じく、「週刊漫画アクション」以外にも、「ビッグコミック」や「少年サンデー」などに同時に連載を持っていた。とはいえ、どんな時も、一週間のうち3日は必ず休みにしていたという。

「週のうち3日で16〜24枚くらい描いていたから、あと4日残る。4日あれば、本当はあと2つくらい連載できる。無理をすればもっと原稿料を稼げたけど、全部断っていたんですよ」

ただ、例外もあった。

「週刊少年ジャンプ」の初代編集長、長野規さんは、執念深くバロンさんを追跡したという。

どうしても捕まらなかったので、長野さんは、バロンさんが行きつけの店のママに直筆で嘆願が綴られた30ページほどの原稿用紙を渡し、伝言を託したという。

「集英社の社員がこんなの書いてきたのか!って驚いて。こういう人は無下にはできないと思い、仕事しましたね。とはいえ、少年マンガに合わない作品を描いちゃって、あいにく連載自体は長くは続かなかったけど。

それでも編集長は可愛がってくれて、自宅で食事を振る舞ってくれたり……特に印象に残っているのは、彼が持ち歩いているカバンの中身を見せてくれた時のことです。ふくらんだカバンの中は全部資料で、彼の仕事の歴史が詰まっていました」

一枚絵も描くように

いつしか漫画ではない一枚絵も描くようになった。


『ロッケンロール』


『カオスvsコスモス』

「劇画が終わったら一枚絵を描いて、一枚絵が描けたら劇画を描いて、というリズムを作っていた時期がありました。劇画を描いてるとすごく一枚絵が描きたくなる。すると絵にものすごく集中できて、その後はすごく劇画が描きたくなるという、良い相乗効果がありました。」


『瞑徨』

1985年頃からバンバン一枚絵を描いていたが、展示をしたり作品を売るという考えは全くなかった。

ただ、プロの画家が集う公募展に応募したらどれくらいの評価が得られるのかは知りたくて、バロン吉元の名は伏せた上で出品した。結構、良い評価を得られて、ますます絵に力が入った。

「絵のキャリアをイチからスタートしたいと思い、龍まんじという雅号を使い始めました。当時のアート界では、今よりも漫画に対する風当たりが強かった。作品を見てもらう上で、漫画家の絵というフィルターがかかってほしくなかったんです」


『安蘭』

販売をせずにひたすらに絵を描いたので、ドンドンと絵がたまっていった。

「日本では展示をしていないのに、アメリカで発表したら面白いかも?というアイデアが湧いて。家族と一緒にアメリカに行って、ワールドトレードセンターで絵を展示したり、2000年にはソーホーで個展を開催したりしました。

会場にお客さんがぎっしり入って、『絵を売ってくれないか?』って言われたけど、売らなかったんだよね。あの時売ってたらかなりの額になっただろうから、相当な馬鹿だと思うよ……(笑)。そんな感じだとギャラリーも手を引いてしまうし。


『玲瓏』

でも、当時は絵が手元から無くなる心配が強かったんです。自分で描いたものは、自分で取っておくという気持ちが非常に強かったんですね。帰国後も相変わらず、絵は見せても友人や限られた範囲で。結局、娘が私のマネジメントを始める2015年まで、龍まんじの名前は使い続けました」

バロンさんは代表作の『柔侠伝』シリーズを除いて、漫画の連載は短いものが多い。画風も、さいとう・たかをさんらに影響を受けた劇画的なタッチから、アメコミ調へと変わり、双方が溶け合った独自の絵柄を確立したかと思えば、バンド・デシネの画風を取り入れたりと、常に貪欲に、しかし執着はせず、フレキシブルに表現と向き合う。一旦人気が出ても、すぐにアメリカへ渡米したり、名前を伏せて絵画制作を始めたりと、あっさりと次のステージに進む。

「私の前にはラッキーが、待ち構えている」


『血蝶』

「一つのことをずっとしてるというより、思いつく端から本当に色々なことをしました。普通なら上手くいかないかもしれないけど、私の前にはラッキーが、待ち構えているんです」

バロンさんが進んでいると、かならず先輩や先生が現れて引き上げてくれるという。

大学に進学すべきだと親を説得した先輩にはじまり、長沢節さん、横山まさみちさん、清水文人さん。

「いきなり小池一夫さんから連絡があってね。『まもなく大阪芸術大学にキャラクター造形学科という学科ができるんで、バロンが教授としてやってくれないか?』


『サクリファイス』

って言われたんですよ。その頃は、私はほとんど漫画から離れて絵を描いていた時期だったから、すぐに引き受けて。教授職を与えられたことがきっかけで、自分の研究室で大きい絵を描けるようになりました。新たな冒険ごっこの場所を見つけたわけです」


バロン吉元/寺田克也『黒龍図・白龍図』 2018年、高台寺所蔵

子供時代から変わらず、好奇心の赴くまま生きている

バロンさんは先輩だけではなく、後輩にも愛されている。

イラストレーターの寺田克也さんとは2018年に京都の高台寺で2人で襖絵の公開制作をし『黒龍図・白龍図』を奉納した。漫画家がお寺へ襖絵を奉納するのは、当時初の試みだった。以降、2人で一緒に活動することも多い。

「寺田さんの展示を見に行った時に、彼が別室でライブドローイングをしているというのが分かってね、会いに行きました。彼の作品はその前から見ていたので、嬉しくて、つい足元の立ち入り禁止の線に気づかず入っちゃった。

『寺田先生、バロン吉元だけど、今展覧会見てきたばっかりだけどすごいね!』

って話しかけたら、すごいびっくりしてたけど。それから仲良しで、一緒に展覧会やライブドローイングをやるようになったね」

話を伺っていると、子供時代から変わらず、好奇心の赴くまま自由に生きていると感じた。

まばゆい才能と自由な生き方に惹かれ、周りの人に愛されているのだと思う。

「それこそ戦時中の幼少期から、いかに遊んで、いかに自由な形で生活できるか?というのが大きなテーマでした。それを私は貫いてます」

とても楽しそうな生き方だが、少し納得がいかない家族もいるという。

今回のインタビューには、バロンさんの娘、エ☆ミリー吉元さんが同行していた。

彼女は自身のアーティスト活動と並行して、バロンさんのマネジメントをしており、リイド社のウェブマガジン「トーチweb」の漫画編集もしている。

「私としては父のこういう自由な生き方を、尊敬しつつも、もどかしく思うところもあって……。現状に執着しない一貫した生き方は、同時にファンを置いていってしまうことにも繋がりますよね。最近の父は絵画制作がメインとなっているので、リアルタイムの読者以外の方々は、漫画家としての父をあまり知らないことを、なんだかなあ……と感じます。マネジメントも、父の作品を幅広い世代の人に知ってほしい気持ちで始めました」

たしかに、例えば『ゴルゴ13』のように、長年連載していたら作品や作者の知名度は残りやすい。バロン吉元の名前も超長期連載があれば今以上に、誰もが知る名前だったかもしれない。

「私は自分勝手にやってるからね。自分勝手=自由=遊び でしょ? そういうのは売れないんですよ(笑)。売れても、それはたまたまのことです。売れている漫画家は、みんな読者を念頭に入れてましたね。

『多くの読者に読んでもらいたい。楽しんでもらいたい』

という気持ちは素晴らしいことだと思います。

でも、私にとって読者というのは不特定多数の人たちではない。私にとって読者は一人、私自身です。私自身が面白ければそれでいい、常にそう思って作品を描いてきました。それは今の絵画制作でも変わりません。バカは死んでも治らない。棺桶は上等なものにしてください」

そういうと、バロンさんは少年のような顔で笑った。


この連載の一覧はこちら

(村田 らむ : ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター)