1950年代末の貸本屋全盛時代から現在まで半世紀を超えて活躍する、異彩の漫画家・バロン吉元さん。どのような人生を送ってきたのか、バロンさん行きつけの銀座の高級クラブでお話を伺った(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第112回。

バロン吉元さんは1950年代末の貸本屋全盛時代から現在まで半世紀を超えて活躍する、異彩の漫画家である。

約10年続いた『柔侠伝』を除くと、連載期間は短いが鮮烈な印象を残すものが多い。

リアルに賭博の世界に迫った『賭博師たち』など、かなり現代的な作品もある。

劇画家として人気を確立したかと思えば、全ての連載を終わらせ渡米してアメコミ誌に持ち込んだり、バロン吉元の名を伏せて絵画を描いたりと、常に新しいことを求める、エネルギッシュな生き方をしている。

バロン吉元さんがどのような人生を送ってきたのか? バロンさんが行きつけの、銀座の高級クラブでお話を伺った。

第2次世界大戦の戦時中に生まれた


バロンさんは、第2次世界大戦の戦時中に満州の奉天(現・中国遼寧省瀋陽)で生まれた。

「父は日満商事で働いていました。転勤が多くて、そのたびに列車に乗って宿舎から宿舎へ移り住んでいたことを覚えています」

汽車による移動が多く、バロンさんは機関車自体に強い興味を引かれた。

描いた絵のうち、一番古い記憶に残っているのも、機関車の絵だ。

「母親たちが目を離したすきに、いつの間にか線路まで降りて、機関車の正面に立って絵を描いてて、大騒ぎになったこともあったそうです。

小さい頃はとにかくヤンチャで、大人泣かせのきかん坊。冒険ごっこが大好きでしたね。鬼ごっこをするんですけど、単に捕まえたら終わりってかわいいもんじゃなくて、本気で棒でチャンバラをし合うんですよ。あとは日本兵の進軍ラッパの取り合いなど、戦争ごっこばかりだった。その頃から遊びに一生懸命でした。

家でも裕福な暮らしをしていたので、戦時中に苦労した思い出は実は余りないんです。大きな箱に沢山のおもちゃが入っていたことも覚えています。父が大切にしていたピカピカの拳銃を、こっそりと抱いて寝たこともあります」

戦争が終わり、父親は当局に銃火器隠匿の容疑で逮捕されてしまった。捜査の途中で、父の友人たちに助けられ貨車に乗り込み、大連まで逃げた。

「引揚者の中でも、私たち家族は本当にギリギリのタイミングだった。父と母は手に持てるだけの荷物を持って、私はまだ小さな弟の手をひいて……私もまだ十分幼い未就学児でしたが。弟と双子の妹がいたのですが、彼女は既に亡くなっていました。手元に彼女が生まれたばかりの頃に撮られた写真は残っていますが、一緒に過ごした記憶は残念ながらありません。

あと少しで取り残される、間一髪のタイミングでなんとか間に合って列車に乗ることができました。でも石炭を運ぶような天蓋のない貨車です。途中天気が悪くなって雹(ひょう)が振ってきたんですよ。かぼちゃに穴が空くくらいの大きな雹です。同じく貨車に乗っていた乗客みんなで毛布を広げて雹を防いだのを覚えてますね。ずいぶんと長い間乗車していました。

日本までは輸送船の船底に詰め込まれて行くんだけど、人数が多すぎて常に酸欠状態なんです。あと油の臭いと糞尿の臭いと海水の臭いが入り混じって充満してる。外の空気が吸いたくてデッキに出ようと階段を上るんだけど、力尽きて下まで落ちて、頭を強くうったことを覚えています。食べ物は何が入ってるかよくわからない雑炊で、食べては吐いて、食べては吐いて、を繰り返してました。でも、そういうのも冒険の1つ、遊びの1つとして捉えて、楽しんでましたね。本当はギリギリの状況でしたけど……」

漫画家なんて夢にも思っていなかった

日本へ帰国したあとは、両親の故郷である鹿児島県の指宿市に住むことになった。

海岸に建てられた建物やコンクリート塀には、米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射による弾痕が至る所に生々しく残っていた。

「日本に帰ってきても、冒険ごっこばかり真剣にしてました。友人の影響で漫画も描き始めてはいましたが、主に当時の映画スターや古い人気漫画のキャラクターの似顔絵を描いていました。『冒険ダン吉』とか『蛸の八ちゃん』など」

バロンさんの友人に貸本屋の息子がいて、彼は漫画を描く帳面を作っていた。

当時のバロンさんよりずっと上手くて、ショックを受けた。

「それから意識して描くようになりましたけど……。それでも『漫画家になろう』とかそういう気持ちは全然なかったんですよ。なれるわけがない。そんなの夢にも思えなかった。本当に、読むだけ、楽しむだけでした」

中学になっても冒険ごっこが大好きだった。山に行き、海に行き、暴れまくっていた。家のばあやにターザンのフンドシを作ってもらって、自慢するように海水浴をしていた。だが、ある日休み時間に友達を誘っても、乗ってこなくなった。

「何やってるんだよ! バカヤロウ!!」

と言うと、

「お前こそ何やってんだよ!! バカタレ!」

と返された。

「みんな高校受験の勉強を始めてたんです。高校へ行くのに受験があるなんてそもそも知りませんでした。焦るよりも、みんなが遊んでくれなくなったのが悲しくてね……」

当時、バロンさんの実家は農業、林業、漁業、温泉宿、よろず屋と5つの商売をやっていた。小さい頃から家業を手伝って忙しかった。

温泉宿では、テキ屋、大道芸人、ガマの油売り、占い師、訳アリのカップルなど色々な人に出会った。彼らとの交流は生活の一部であり、時には大人の世界の厳しさも教えられた。

「だから中学を卒業したら進学しないで働こうと思っていたんですよ。でも、親のすすめもあって一夜漬けみたいに勉強して、木材工芸科のある高校(鹿児島県立指宿高等学校)に進学できちゃった」

バロンさんが高1の時、集団就職で横浜の造船所に勤めている友人が正月に帰省していた。スーツをキッチリ着込んで、ポマードでオールバックにしている姿は、ピカピカと輝いて見えた。

「俺も高校辞めて就職するぞ!! って思って本気で親に訴えました。横浜の造船所で働くぞって」

本人は造船所で働くことに決めていたが、ちょうどその頃、日本大学の芸術学部と武蔵野美術大学を卒業した2人の先輩が、吉元さんの両親を訪ねていた。

バロンさん自身はあまり覚えていないが、バロンさんの描く絵はかなり高く評価されていた。県展のコンテストに出され入選もしていた。

2人の先輩は、

「吉元正くんが卒業したら、就職させないでください。絶対に美術学校へ進学させるべきです」

と両親を説得していた。

「美術大学に進学するなんて考えてもいませんでした。就職せずに進学するなら船員学校がいいと思っていたんです。船に乗るのが好きで、船員になり、色々な国へ行ってみたかった。創作を仕事にすることは全然考えてなかった」

中学からずっと柔道部だったが、先輩が訪ねてきたのをきっかけに美術部にも入った。富岡鉄斎やミケランジェロの画集をよく図書室で広げながら、「漫画家は難しくても、挿絵画家だったらなれるかもしれない」と思い始めていたのもこの頃だった。

武蔵野美術大学に進学

先輩の見る目は正しく、吉元さんは現役で武蔵野美術大学西洋画科に進学した。当時の美術大学は今とは比較できないほど高倍率だった。

鹿児島から東京まで、ブルートレインで1日以上かけて上京し臨んだ入学式には学ラン姿に下駄を履いて出たものの、周りの同級生が皆スーツやフォーマルな格好をしていたことに驚いた。

武蔵野美術大学は、当時は東京の武蔵野市吉祥寺に本校があったため、吉祥寺の学生寮に住むようになった。

「寮生活は楽しかったですね。長い流し台でみんなで自炊をして。『お前んところのおかずはなんだ?』とか会話しながら、おかずを交換したりして……」


(筆者撮影)

しかし学生生活は長くは続かなかった。当時は多くの教員が抽象画に傾倒しており、それに関心を持つことができなかった。

一方、時期を同じくして漫画界では辰巳ヨシヒロさんや、さいとう・たかをさんらが中心となった「劇画工房」が結成され、新たな漫画表現「劇画」が誕生。様々な貸本投稿誌において新人漫画家を募集をしていた。バロンさんも同世代が描いた劇画に激しく触発され、オリジナルの作品を描いて応募、入選した。

「当時は周りの人たちより、絵が下手だったと思います。正直、その時点ではプロの漫画家にはなれそうもないって感じてました。だからイラストを描いて出版社に持ち込んだりもしましが、それも門前払いでした。

ただ、劇画という新たなジャンルのもとに、沢山の才能がワッと集まり、花咲いた時代でした。俺も大学に行ってる場合じゃない。今、劇画の世界に飛び込まないと、後々絶対後悔するんじゃないかと思いました」

さいとう・たかを先生と出会い、劇画の世界へ

そんな折、新人賞を受賞して、出版社に初めての原稿料をもらいに行った。

たまたま同い年の男性も原稿料をもらいに来ていた。

「これから、さいとう・たかを先生のところに遊びに行くけど君も行く?」

と誘われ、バロンさんは

「ぜひ連れて行ってください!!」

と同行した。

「今思えば、さいとう先生と会ったのがキッカケでしたね。大学を2年の途中で中退して劇画の世界に飛び込みました」

当時から人気が高かったさいとう・たかをさんの下には既にアシスタントが揃っており、空きがなかったものの、同じく活躍していた漫画家・横山まさみちさんのアシスタントになることができた。

吉祥寺の学生寮を出て住み始めた練馬区桜台から、ほど近い場所に横山先生の自宅はあった。

「アシスタントというか、弟子でしたね。朝から晩まで働いて、『アシスタント代は出ないんですか?』って先生に聞くと、『何言ってるんだよ。吉元君は弟子なんだから、キミのほうが俺にお金を払うべきだよ』って(笑)。月に何千円かはもらってた気がするけど、それだけじゃ食えないからアルバイトを転々としてました。 キャバレーのボーイをやったり、喫茶店でウェイターをしたり。でもそのアルバイトが結構、漫画の糧に、ひいては人生の為になりました」


『ガンファイター』

持ち込みをしながら、同時に長沢節さんのセツ・モードセミナーに通って、デッサンやファッションイラストを学びもした。また、かつて銀座に存在した洋書店「イエナ書店」へ行っては、海外作家の画集やコミックから大きな刺激を受けていた。

当時バロンさんが描いていたのは、アメコミタッチのアクションもの。出版社へ行っても「もっと売れる絵柄でないと」と門前払いの対応が続く中、双葉社に持ち込むと、当時「漫画ストーリー」の編集長を務めていた清水文人さんが会ってくれた。

「私の絵を見て『あ、これだ。16枚描いてこいよ』って言ったんです。実績がない私に、何も言わずにすんなりと16枚も採用してくれて、ビックリですよ」

しかし、ある日、送られてきた雑誌を見ると、ペンネームがそれまで使用してきた本名の“吉元正”から“バロン吉元”になっていた。


『レッツゴーゲリラ』

「びっくりしましたよ。本当に頭にきたもんだから、すぐに編集部へ怒鳴りこんだんです。人の名前を勝手に変えるんじゃねえよ!! って」

バロンさんはまくしたてたが、清水さんは冷静になって

「ちょっと待て。バロンの意味は知っているのか?」

と聞いた。知らないと答えると、

「バロンとは男爵の意味で、日本で言うところの侍大将クラスなんだぞ。日本には非常に有名な男爵がいたんだ」

フランス陸軍航空隊のエースとして活躍したバロン滋野、1932年ロス五輪で金メダルを取ったバロン西、大富豪で多くの芸術家のパトロンになったバロン薩摩など……。

そうそうたる名前を口々に発する編集部員たち。いつの間にか、吉元さんは感動していた。

「それで“バロン吉元”を受け入れました。ちなみにバロンでダメだったら、ドクロ吉元になる予定だったらしい。当時は酷い名前だなって思ったけど、今思えばドクロ吉元も、インパクトのあるすごいペンネームだと思いますよ。」

同じ時期、のちに『ルパン三世』を生み出すモンキー・パンチさんも、本名の加藤一彦から、清水さんによってペンネームを与えられている。バロンさんにとって、公私共に交流のあったモンキーさんは唯一の“同期”のような存在だと言う。

その後、清水さんは現在も続く「週刊漫画アクション」を創刊。初代編集長となり、水木しげるさんや石ノ森章太郎さん、小島剛夕さんら売れっ子作家を起用しつつも、二枚看板として、当時ほぼ無名であったバロンさんとモンキーさんを大々的に打ち出した。その後は、バロンさんの代表作である『柔侠伝』シリーズの他、『ルパン三世』『じゃりン子チエ』などのヒット作を世に送り出すことになる。

嫌いだった「ギャンブル」漫画を描くことに

バロンさんはバリバリと漫画を描いた。洋画に影響されたウエスタンものやスパイものなどのアクション作品をアメコミタッチで描いていたが、ある日担当編集者から

「社会的なものを描いてみないか」

と提案された。

そこでギャンブルをテーマに漫画を描くことになった。

「元々、作品にはリアリティが必要だからって、原稿執筆にあたっては取材して描いていたんです。例えば馬の話を描くときは、獣医さんを訪ねて『馬はどんな病気をするんですか?』って聞いたりね。蹄鉄の真ん中の皮膚の部分に釘が刺さって破傷風になることがあるらしいんだけど、そういうのを漫画にする。

ただ、ギャンブルは根本的にキライだった。パチンコくらいはやったけど、公営ギャンブル、麻雀、賭博は、人間をだめにするからと反対していた」

反対するバロンさんに清水編集長は言い返した。


『賭博師たち』

「じゃあバロンは、競輪、競馬やったことあるの? 博打やったことあるの? ないのに、なんでそんなにはっきり言い切れるの? まずはやってみたら?」

「それもそうだな、と思って麻雀を覚えて、それから公営競技に。色々なギャンブルをひと通り体験しました」

そうして始まったのが、転機となったギャンブルシリーズ『賭博師たち』だった。(後編に続きます)


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(村田 らむ : ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター)