選手と握手する栗山さん(写真:時事通信)

日本ハム監督時代、監督就任1年目からチームをリーグ優勝に導き、日本一も経験した栗山監督は、教え子である大谷翔平選手を日本代表に招集した第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも世界一に輝いた。今年3月に開催された大会からおよそ半年が過ぎた今も、監督や選手たちに対する世間の熱視線は止まらない。

元プロ野球選手で現野球解説者の鶴岡慎也氏は、栗山監督が率いる日本ハム時代、チームの要である捕手のポジションを務め、WBCでもブルペン捕手として栗山監督をそばで見てきた。鶴岡氏が見た栗山監督の「言葉の力」「信じる力」を、氏の新著『超一流の思考法』から抜粋するかたちで紹介する。

技術指導ではなく、メンタル面で花開かせる

栗山監督が日本ハム監督に就任した2012年、入れ替わるようにして、ダルビッシュ投手がポスティングシステムを活用してメジャー入りしました。2011年18勝を挙げた「絶対エース」が移籍してしまって、チームの戦力低下は明白でした。

しかし、その2012年に日本ハムはリーグ優勝し、MVPを受賞したのは吉川光夫投手でした。吉川投手は広島・広陵高を卒業したプロ1年目の2007年、いきなり4勝をマークしましたが、翌年2勝。その後3年間無勝利。それがいきなり14勝という大飛躍を遂げたのです。

吉川投手は前年の2011年、ファームながら最多勝、最優秀防御率、最多奪三振と、向かうところ敵なしで、タイトルを独占しました。

「ファームでは無双状態。でも、1軍に上げたら結果が出ない」――そういうタイプの選手でした。しかし、「吉川は絶対に花開く。でも、そこに持っていくのは技術指導じゃなくてメンタルだ」ということを、栗山監督は見抜いていたのです。

10年以上見てきて、栗山監督がとても厳しく接する選手はあまりいませんでした。私の記憶の中では、吉川投手、大谷翔平選手、清宮幸太郎選手の3人ぐらいです。メディアに何度もこう語っていました。

「今年、吉川光夫がダメだったら、私が彼のユニフォームを脱がせます」

選手は、メディアを通して監督の発言を絶対見聞きするものです。それが期待の言葉か、嫌味の言葉か、監督の話し方やニュアンスで選手は敏感に察知します。

あの2012年、プロ入り2年目の開幕投手・斎藤佑樹投手が6月までに5勝を挙げました。同い年の吉川投手は華やかな斎藤投手の陰に隠れていましたが、開幕先発ローテーションの3番手に入ったのです。シーズン初戦、黒星ながら1失点と好投。それがきっかけで自信を持って、何の迷いもなく腕が振れるようになりました。5年ぶりの勝利で波に乗り、セ・パ交流戦で4勝するなど、あとはトントン拍子でした。

左腕から繰り出すMAX150キロ超のストレート、140キロのスライダー、大きく縦に割れる130キロのカーブ……。受けていてまったく打たれる気がしませんでした。

栗山監督の「言葉の力」


栗山監督は相手の性格を見て、言葉をかけるタイミングが絶妙だという(撮影:今井康一)

それでも栗山監督は吉川投手に「まだまだ、お前の力はそんなものじゃない」という言葉をずっとかけていました。そういう選手を奮い立たせる「言葉の力」が、栗山監督にあったと思います。キャスターをやっていただけあって、そのあたりはさすがです。

相手の性格を見て、言葉をかけるタイミングも絶妙でした。出てくる選手というのは、ほうっておいてもいずれは第一線に出てくるでしょう。ただ、言葉かけにより成長速度は上がります。潜在能力を顕在化させる成長曲線は急カーブを描くと思います。

大谷翔平選手には「絶対にほめない」と、最初から決めていたに違いありません。ほめることで伸びる選手もいる一方で、ほめた時点で無限の可能性を秘めた選手の「限界を決める」「伸びしろを否定する」ことになってしまいかねません。ほめられた本人が「こんなものでいいか」と感じてしまうと思うのです。

大谷選手が「投打二刀流」をこなし始めたときでも、「165キロを投げた」ときでも、決して称賛はしませんでした。実際は誰が見ても凄いです。栗山監督の「まだこんなものじゃない」の言葉によって、世間が考える大谷選手のパフォーマンスの上限を取り払い、大谷選手がその期待に応える。その構図を栗山監督が作ったような気がします。

実際、栗山監督の私に対する言葉のスイッチは「ピッチャーを任せる」ばかりか、打撃面にも及びました。私は2011年ごろまであまり打てていませんでした。

「ツル、オレはお前の打撃も信用しているんだよ。あれだけバットにコンタクトできる能力があれば、もっと数字を残せる。今年は2割8分を打ってもらうよ」

「代打を出さないから逃げられないよ(笑)。覚悟を決めてバッターボックスに立ってくれ」

「潜在能力を顕在化させる」スイッチ

シーズン前のオープン戦でも、遠征時の食事会場でも、顔を合わせるたび、ことあるごとに繰り返すのです。「ツル、今年は2割8分だからね」って。聞いていた当時の福良淳一ヘッドコーチ(現・オリックスGM)がさすがに言ったものです。

「栗山監督、ツルは2割8分、難しいですよ」

「福良さんも言っているように、栗山監督、たぶん無理です」

「でも、オレは信じている。お前は2割8分打つ!」

そんなやりとりがあったことを私は今でも鮮明に覚えています。

2012年、斎藤佑樹投手が初完投勝利した開幕の西武戦で私はスタメンで2安打。そのカードの3戦目、岸孝之投手(現・楽天)のスーパーピッチングの前に0対1で敗れました。それこそ吉川投手が投げた試合です。終盤、私に打席が回ってきました。

(あれ、代打じゃないのかな?)

ネクストバッターズ・サークルで打順を待っていた私は、半信半疑でキャッチャーのレガースを外して打席に向かったのです。

(「代打を出さない」って、本当だったんだ。もう、打つしかないじゃん)


2ストライクに追い込まれましたが、外角のチェンジアップに手を伸ばした打球は、遊撃・中島宏之選手の頭上を越えるレフト前ヒットになりました。

そのシーズンはリーグ優勝。打撃に自信が持てた私の打率は2割そこそこから.266まで上昇。2割8分には届かなかったものの「ベストナイン」に初選出されたのです。

今回のWBCで栗山監督が村上宗隆選手に代打を出さずに打たせた状況とは比べようもないですが、「信じてもらえたこと」は同じです。私の打席の場面、代打が出されていたらどうなっていたでしょうね。

一方で私は「自分で自分の限界を作ってはいけない」ことを学びました。翌2013年には代打でも使ってもらいました。そして、規定打席不足ながら打率.295をマークしたのです。

30歳を過ぎた私の打撃面という「潜在能力のスイッチ」を押してもらいました。それまでなかなか打てなかったのが、少し打てるようになりました。大した数字は残していないんですけどね。FA宣言できるような選手になれたのも、40歳まで現役を続けられたのも、言わば栗山監督のおかげなのです。

(鶴岡 慎也 : 元プロ野球選手、野球解説者)