甲冑工房丸武 豊臣秀吉の甲冑(写真: 清十郎 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第38回は、家康が秀吉に従った背景を解説する。

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とまらない秀吉の要求

「小牧・長久手の戦い」が終わると、徳川家康は羽柴秀吉の要求に従って、次男の於義伊(おぎい)を養子として差し出したが、それでも相手の要求はとどまるところを知らなかった。

上洛を求めてきたうえに、さらなる人質を要求してきたのだ。秀吉は家康を上洛させて、自身への臣従を誓わせようとしていたのである。

秀吉に従うべきか否か――。酒井忠次や本多忠勝が秀吉との対決も辞さずとするなかで、石川数正は「秀吉と融和すべき」と主張して、家臣団のなかで孤立。妻子とともに出奔して、秀吉のもとへと向かってしまった。

もはや、関白まで上り詰めた秀吉に従うほかないのではないか。そんなムードも漂ってくるなか、秀吉は自分から家康に人質を送ることでプレッシャーをかけている。自分の妹の朝日姫を夫と離縁させてまで、家康の正室に差し出した。そのうえ、生母の大政所も、朝日姫の見舞いということで、送り込んでいる。

相手から人質を得られれば、本来であれば、有利な立場になるはずだ。だが今回の場合は、秀吉が興隆を極めるなかでの「上洛してほしい」というメッセージ付きで、人質が送られてくるので、なかなか厄介である。秀吉らしい老獪な手段に、家康も強硬な姿勢がとりづらくなってきた。

決断の際には家臣の意見に耳を傾ける

『徳川実紀』によると、家康は重臣たちを集めてこう尋ねたという。

「関白が母を人質に差し出してまで私を招くのを、今そうむやみに断るのは、あまりに思いやりのないことだ。お前たちの考えはどうであろうか」

かつての家康は重臣たちが止めるなか、独断で行動に踏み切ることがたびたびあった。寺院から強引に兵糧を徴収したことで、三河一向一揆を引き起こし、家臣が二分する大規模な内乱を発生させたこともある。

また「三方ヶ原合戦」においては、浜松城を素通りする武田信玄に対して、重臣たちの制止を聞かずに追撃。惨敗を喫して、徳川軍は壊滅状態へと追い込まれることとなった。

その反省からだろうか。家康は重臣たちの意見を重視するようになる。
信長と連合軍を組みながら、武田勝頼と対峙した「長篠・設楽原の合戦」では、酒井忠次の案を実行して、奇襲攻撃に成功。また、本能寺の変のあとも、家臣たちの意見を聞き入れて、自決を思いとどまり、過酷な伊賀越えに踏み切って見事に生還している。

大きな決断をする際には、重臣たちの意見を踏まえようと、家康は考えるようになったのではないだろうか。秀吉のもとに上洛すべきか否かという判断についても、家康は家臣たちと丁寧に対話しようとしていることがわかる。

そんな家康の問いかけに対して、重臣たちはどう答えたのか。やはり秀吉のもとに家康が上洛することへの抵抗感は強かったようだ。『三河物語』によると、酒井忠次ら重臣はこう訴えている。

「上洛なさるのは、道理に合わないお考えです。ぜひ、お考え直してください。断交することになっても、かまわないではありませんか」

断交もやむなしとは穏やかではない。これでは、外交役として秀吉の恐ろしさをよく知っている石川数正は、さぞ居心地が悪かったことだろう。

『徳川実紀』のほうでは、家臣たちの訴えはもう少し詳しいものになっており、秀吉と戦うことになったときの想定についても言及している。

「秀吉の心中はまだわかりません。上洛しないことを憤った秀吉が大軍で攻めてきたとしても、秀吉のやり方は姉川、長久手で見知ったのでそう恐れることはありません」(『徳川実紀』)

大きなビジョンを示して重臣たちを説得

強気な家臣たちだが、家康の腹はすでに決まっていたようだ。それでも独断専行はできるだけ避けたい。『三河物語』では、次のように家臣たちを説得しようとしてる。

「私1人が腹を切って、多くの人の命を助ける。お前たちも、決してなんだかだといわないで、謝罪をして多くの人の命を助けよ」

『徳川実紀』では、家康の上洛を決意した理由がより詳細に書かれている。「お前たちの忠告は非常に感心である」といったん受けとめてから、次のように言ったという。

「日本国内の乱はすでに100年あまりに及んでいる。天下の人民は1日も安らぐことはなかった。けれども、今日、世の中はようやく静かになろうとしているが、そこでまた私が秀吉との戦いにおよべば、東西にまた戦が起きて、人民が数多く亡くなることは、とても痛ましいことだ。ならば、今、罪がないのに失われようとする天下の人民のため、私の命を落とすのは大したことではない」

これには家臣たちも「そうお考えでしたら、もっともでございます。ご上洛なさってください」(『三河物語』)、「そこまでお考えが定まっているのであれば、私たちなどがまた何か申し上げることがあるでしょうか」(『徳川実紀』)などと応じたという。

以上のように『三河物語』や『徳川実紀』にしたがえば、強大な秀吉と戦えば、民衆に甚大な被害が及ぶことを家康は危惧。秀吉が妹や生母まで差し出したこともあり、上洛については自分が譲ったほうがよいと判断したことになる。

2016年に発刊された『徳川家康』 (笠谷和比古著、ミネルヴァ書房)には、「われ一人腹を切て、万民を助くべし」というサブタイトルがつけられており、上記の『三河物語』での家康の言葉からとっていることがわかる。本書では、家康が上洛に応じた理由として、従来の見方ではなく、「三位中将」という朝廷の官位が秀吉側から提示されたから、としている。

すでに秀吉が最高位である「従一位関白」を手に入れているなかで、官位だけを理由に上洛を決めたとは考えにくいようにも思うが、家康が、朝廷官位制度を重視していたことも確かだ。なにしろ、家康はかなり早い段階から正式な叙位任官を受けていた。上洛を決める後押しにはなったのかもしれない。

上洛を決意して大阪城で秀吉と対面

そんな紆余曲折を経て、家康は天正14(1586)年10月20日に岡崎城を出発。27日に上洛を果たし、大阪城で秀吉と謁見。長篠の戦いから実に11年ぶりの対面……と思いきや、実はその前日の26日、家康はあてがわれた豊臣秀長の別邸を宿所とした。


大阪城(写真: shiii / PIXTA)

『家忠日記』によると、そこに秀吉がふいに訪れて、家康を奥座席につれていき、存分に話し合ったという。

『徳川実紀』では、何を話したかまで記されている。秀吉は家康に「心から本当に自分に従っている者はいない」と胸中を吐露。胸襟を開いて本音を覗かせるのは、秀吉のいつものやり口だが、家康にこんな懇願をしている。

「秀吉に天下を取らせるのも失わせるのも、家康殿の御心一つにかかっている」

だから、みなの前でどうか恭順の姿勢を示してほしいと、秀吉は頼み込んでいるのだ。どこまで本当にあった話かはわからないが、確かに人心掌握に長けた秀吉ならば、そんなことを言い出しかねない。

翌日、家康は改めて秀吉と対面。ついに秀吉に臣従することになった。家康が44歳、秀吉が50歳のときのことである。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
野田浩子『井伊家 彦根藩』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)