中国人エリートたちが、福島第一原発の「処理水」に対して過敏に反応するのはなぜなのか(写真:Qilai Shen/Bloomgerg)

8月24日に東京電力が福島第一原子力発電所の処理水の海洋放出を開始し、中国がこれに水産物全面禁輸措置などで強く反発している。おりしも10日に中国団体旅行が解禁されたばかりで、インバウンドの本格回復が期待される中、業界関係者は「また逆風が来たか」「訪日中国人はもう来なくなるか」との懸念を募らせている。実際、筆者はこの2週間で3回講演や取材に応じたが、この質問を毎回受けた。

そこで本稿では、中国の生活者がなぜ「処理水」に強く反応しているかについて、彼らの深層心理に迫り、インバウンド業界が持つべき視点を提供したい。

「見えない不安」に追われる人々

インバウンド戦略を練る際には、まず中国で暮らしている人々がどういう生活をしているのかを知ることが重要である。なぜなら現代中国人の多くはさまざまなストレスにより不安を抱いているからだ。

38歳の男性Aさんは北京で暮らしているが、出身は北西部の小さな町だ。親と親戚のほとんどは農民である。故郷と大都市で激しい格差があることを学校で習い、衝撃を受けた。現状から脱出しもっとよい生活を送るための唯一の機会はいい大学に入ることだともわかっていた。

勉強に没頭した青春時代が報われ、北京にある一流大学のエンジニア専攻に合格。大学院まで成績がよく、卒業する頃は、ちょうどIT人材が求められている時期だった。学校からの推薦もあり、北京の戸籍がなかったが(企業所在地の戸籍がないと就職に不利だといわれる)、日本人でもよく知っている中国大企業に就職した。

Aさんの能力と996(朝9時から夜9時、週6出勤)を超えた働きぶりが評価され、30代初めに管理職に昇進し、年収1500万円以上となった。大学時代に知り合った同じ町出身の女性と結婚し子供2人に恵まれている。北京の住まいは両家が一生かけて貯めた貯金を頭金と、自分の貯金を頭金として購入した。古いマンションだが、車もあって不自由はない。

貧しい暮らしから大都市で著名な企業で管理職に就き、理想な家族を持つ、まさに現代のチャイナドリームを実現したのだ。だが、筆者は彼と知り合って15年以上となるが、彼は会うたび「僕は、いつも不安だ」と話す。

将来に対する不安が尽きない

中国の社会は競争が異常に激しく、コネがなければ、欲しいものは奪い合いになる。特にIT業界だと、「コスパ」のよい若者が重宝される傾向があるため、30代後半で給料の高い彼は、「いつクビになってもおかしくない」と毎日ドキドキしているという。

その結果、自分のパフォーマンスを維持し、周囲にアピールするために、今でも新人と同じぐらい働き、連日の徹夜もよくあることだ。Aさんの同僚によると、通常6人体制で行う短期的プロジェクトを、Aさんは自らが猛烈に働くことで、2.5人で完成したそうだ。「Aさんは働きすぎだ。すごいと思う。でも我々にはできない。身体も心も持たないよ」と同僚は心配と不安を口にする。

Aさんに「何でここまでするの?」と聞くと、「不安だ。とにかく不安なんだ」といつも返してくる。

「今のマンションは何とか買えたが、住宅ローンの完済まで何十年もかかる。子供たちも大きくなったので、よい学校に近いもっと大きな家を買い替えたい。だが、いつまでこの仕事(給料)でやっていけるかがわからない。妻は一般大学卒だし北京の戸籍がないので働いてもたいした給料しかもらえない。今は専業主婦で私1人の収入で何とかやり繰りしている。

何より、子供の教育は大きな投資だ。子供の教育費用だけはケチってはいけない。私たちは海外に行ったことがないが、子供を海外留学させたい。競争の激しい国内で彼らのいい将来が見えない。

そして郷里に住む親たちは今も元気だが、これからどうやって遠距離で面倒を見るかの答えが見つからない。だから、働けるときにいっぱい働かないと。とにかく不安で、とにかく心配なんだ」

こうした競争の激しい、ストレスの大きい社会環境に置かれた彼らにとって、「自分の生活に与える不安」は感情の発露のトリガーになる。「仕事でもう精一杯頑張って疲れているから、せめて安心な暮らしをさせてほしい」「子供に健康な環境で生きてほしい」「見えない不安を取り除いてほしい」という心の声が聞こえてくる。

「見えない不安から守るのは何より大事」

中国人の多くは食品安全に関する懸念をつねに抱いている。外食をするときや加工食品を買うとき、「これはそもそも本物の肉を使っているのか」「食品添加物はがんを誘発するものか」「食材をちゃんと洗ってくれているか」などなど、つねに疑問を持ちながら暮らしているのだ。製品になっているものも、原材料はどこから来たのかは不安なので疑ってしまう。

日本ではあまり知られていないかもしれないが、日本の「貝殻で作られた野菜洗剤」が中国ではバカ売れだったのもこの不安から来たものである。日本では野菜や果物を洗剤で洗うのをあまり聞かないが、中国では実はごく普通に行われている。

特に子供がいる家庭では、子供の安全を考慮して何もかも丁寧に洗う。食材だけではなく、子供食器専用食洗機・消毒器、子供服専用洗濯機などさまざまある。農薬は見えないが、食べてしまうと身体に悪そう。

大人は子供よりいろいろなものを食べているし、いろいろなところに行っているから、見えないウイルスや菌をきっといっぱい持っている……。それを子供にうつしてはいけないという発想から、子供専用の食器から洗濯機まで用意するわけだ。

「放射線」が見えないことにも大きな不安を持っている。「電子レンジの放射線は身体に悪いから、電子レンジが稼働するとき、必ず離れて!」と言う人もいるし、持っていない、あるいは、使いたがらない人もいる。胎児に悪いので、1枚何万円もする「放射線防御服」も人気が高い。携帯電話の「電磁放射線」が身体に悪いと、妊娠した息子の妻に携帯電話使用を禁止する姑の話も少なくない。

「見えない」「身体に悪い」には敏感

こうした「見えない」「身体に悪い」「放射線」は中国人の心の不安を引き起こすキーワードであり、今回の処理水は見事に全部当てはまっている。

Aさんもそうした1人で、今回の処理水放出についても懸念を抱いている。「日本ではどう報道されているかわからないし、事実もわからないが、ただ、安心できる魚を食べたいし、子供に健康で安心な食事を取ってほしい。それだけだ。日本は学費が安いし中国にも近いので子供の修学旅行先として考えていたけどやはりやめる。劉さんも帰ったほうがいいのでは?」というスタンスだ。 

冒頭のインバウンドの話に戻ると、放出開始から時間が経っていないため、現段階では、インバウンドへの影響を見定めるのは難しい。時々刻々、状況は変化していくと思われるので、随時にウォッチする必要がある。

ただ、上述の中国国内における不安を乗り越え、今でも来てくれる訪日中国人は、真の日本ファンであり、自治体でも企業でも大事にしたい存在だと言えよう。食事はもちろん、日本に何を求めてきたのか、そこをきちんと把握することが今後の成功につながる「カギ」になるのではないか。
 

(劉 瀟瀟 : 中国若者富裕層ビジネスコンサルティング 代表)