人生100年時代、第二の人生をガラリと変える人もいます。結婚、子育て、離婚、病気の発症を経て、53歳でスペイン留学を決めたRitaさんの連載。今回は、留学を決めるまでの経緯について詳しくつづってくれました。

53歳、スペイン留学を決めるまで

2022年6月からスペインに住み、ちょうど1年が過ぎました。英語も「This is a pen.」から先に進めなかった私が、まさかスペイン語に手を出すことになるとは。まさか持っていた安定のすべてを自ら手放し、リセットしてスペインで暮らすことになるとは。貯金と勇気だけをかき集めて挑んだ、53歳からの挑戦です。

50代過ぎてからのひとり海外生活は、想像以上に浮き沈みしていますが、ただ流される毎日ではなく、生き方を考える毎日となりました。こんな私でも…まだ私でも…きっと私でも…と言い聞かせ、新しい人生をつくり出している様子を、連載としてお届けさせていただきます。

●幸せだったはずの結婚生活も破綻…

20代前半で職場結婚、2人の子どもに恵まれ、一時は絵に描いたような仲よしな時間を送りましたが、30代後半に離婚。夫婦って本当に難しいですよね。結婚を通して私自身の心も大きく変化しました。

当初は夫に尽くすことを幸せに感じ、同じ時間を共にすることがうれしくてたまりませんでしたが、子どもが成長するにつれ意見を合わせることすら困難に。中学受験に向けた教育観、女性に対する仕事観、そしてどんなときでも“8歳年上の夫に従うこと”が基本だった家庭環境…。本来、自由奔放な私は「尽くしていた自分」に疲れ、息苦しさにどうしても耐えられず、無鉄砲に離婚を願い出ました。

その申し出に夫は猛反対。「お前の給与で食べていけるはずないだろ」と怒鳴られ、「どうにか生きてみます。この鳥カゴから出して下さい」と頭を下げました。離婚の言い出しっぺであった私の身は小さく、諸々の配分は、夫の言いなり通りにするしかありませんでした。

●女でひとつで育てるために奮闘するも、ある日、脳梗塞を発症

当時、出産・育児に伴い正社員枠は外れ、長く同じ業種ではあったものの私は契約社員の立場で就業。子どもたち2人は私立校の中・高校学生でした。養育費はもらえましたが、生活費がとても追いつかず、何種類もの副業にトライしました。コールセンター、飲食店、執筆代行、覆面調査・アンケート集計など、時には1日に3種類の仕事をかけ持ちして、なんとか生活を保っていました。

毎日働けばなんとかなると思い込んでいたものの、ある日ツケが回ってきました。仕事終わりに立ち寄ったコンビニで突然、脳梗塞を発症してしまったのです。急に右半身に力が入らなくなり、身体がゆっくり倒れていくのが分かりました。

救急車で運ばれ、数日は半身が動きにくくしびれましたが、大変運がよく左脳の梗塞は壊死し、後遺症もなく完治しました。「人間ってやっぱり休日が必要だよ」と医師にも言われ、これを機に365日働く生活を修正。副業は自宅でできるものに制限しました。そのとき、子どもたちは大学2年生と高校3年生。2人が社会人になるまで、少しずつ先が見えてきた頃でした。

●子どもたちは無事に社会人に。娘のひと言で決断

どうなることかと思った育児でしたが、子どもたちはそれぞれ好きな道に進み独立。肩の荷が下りた私は「だれにも迷惑をかけないように天国に行くこと」が新たな目標となりました。

子育てに使っていた費用は保険の掛金に回し、同じ会社に長く置いてもらえるよう心がけ、娯楽といえば友達とランチに行く程度。大きな喜びも大きな悲しみもないけど、生涯ひとりでなんとか生活が保てる計画。このまま静々と生きていけばいいんだと思い込み、ほかの選択肢を考えようともしていませんでした。

そんなある日、久しぶりに会った娘が、やりたい事を見失い老後の話ばかりをする私を見て、「人生もうやることないって言ってるけど、まだなんだってできるでしょ。留学でもしてみたら?」とひと言。

「留学? 私が?」
正直、好きでもない語学、どちらかといえば外国人恐怖症、今までは海外に興味すらありませんでしたが、「なにかを変えたい!」と思う気持ちがグッと奮い立った瞬間でした。この日から、自分の人生が楽しみになり、身体が急に軽くなったことを覚えています。私、なにかやりたかったんだ! まだなにかやってもいいんだ! そんな感情で心があふれたのです。

「でも、留学とは言ってもどこに行く?」その日から、通勤路でも仕事の休憩時間でも、留学先のことを考える日々が始まりました。