フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○襲う落胆

星社長がドイツで買いつけてきた活版輪転印刷機をめぐる主任会議で、石井茂吉は印刷機の組み立て責任者となるのを辞退した。衝動的とも見える星の指名は、茂吉にとって筋の通らないものだった。

しかし会議のあと、茂吉は自分のおかれた立場に落胆した。やはり自分は、海外から無計画に届く製薬機械にその場しのぎで対応するだけの立場なのか。

ただ、茂吉はすぐに不満を爆発させるような性格ではなかった。郷に入れば郷に従えだ。そのなかで、なんとか問題に対処して欠点を取り除き、自分の手で状況を引き上げていくべきだ、と思いなおした。

茂吉が入社するとまもなく、星製薬は社債を発行した。星はそれまでも、社債と増資とで会社を大きくしてきた。[注1]

借り集めた400円の資金で1907年 (明治40) に「イヒチオール」という薬をつくりはじめたところから出発した星製薬は、1923年 (大正12) には5,000万円の資本金を擁するまでになっていた。[注2]

星は株式も社債も、全国3万数千の特約店と、特約店を通じて一般大衆に呼びかけることで、資金を集めた。当時、星製薬の株主は1万人になっていた。なるべくおおぜいのひとに会社の株主や社債権者になってもらい、できるだけ利益をあげて、権利者に奉仕しようというのが星の信念だった。

さらに、翌々年にあたる1925年 (大正14) には1億円に増資する準備も進めていた。[注3]

このため、社債は一部、従業員にも割り当てて、引受先を見つけさせた。茂吉は気が進まなかったが、会社のためと考え、親戚や知人に頼みこみ、これに協力した。

けれどもそれが、おおきく裏切られた。茂吉たち従業員が、そうやって周囲の人々に頼みこんでまで資金を集めているというのに、その金を一部の上級幹部の人間が私的に消費していることがわかったのだ。取引先からリベートをとり、公然と消費している者が何人かいた。さらには、会社の薬局員だった女性を妾にして家を与え、喫茶店を経営させ、それらの費用をすべて、会社の金から出している者までいた。

めったなことでは怒らぬ茂吉も、これには怒った。公にはなっていなかったので、有志を募り数人で、星社長に事態の改善を進言した。会社の腐敗を放ってはおけなかったし、出資してくれた善良な親戚や知人への責任感も強かった。

事実は確認され、星社長は怒った。当事者を呼び、茂吉ら有志グループの前で殴り、怒鳴りつけた。しかし結局はそれだけで、彼らは更迭も解雇もされなかった。

○未練はなく

正義感に燃えて行動を起こした茂吉は、星社長の対応にがっかりした。情熱的にことを進めるのは星のよいところでもあるが、冷静で慎重な茂吉の目には、星のがむしゃらさは経営者のとる態度として疑問に思えた。茂吉の胸のうちにはいつしか、憂鬱の雲が暗くたちこめた。

しばらくすると、星は茂吉に退職を勧告してきた。会社をおもった茂吉の進言は、労働争議の経営介入要求と同じと見なされ、茂吉は首謀者と見られていた。星製薬の顧問をつとめていた大学の先輩からその話を聞いたとき、あまりのばかばかしさに、茂吉には反論する気も起こらなかった。

茂吉は、退職勧告を受け入れることにした。1924年 (大正13) 8月のことだ。茂吉が星製薬に入社して、たった10カ月しか経っていなかった。

志をもって新天地・星製薬にのぞんだ茂吉は、なにひとつまとまった仕事ができなかったことを残念におもいつつも、この会社には未練がないと思った。実家の神明屋は、妻・いくが継いでいる。すぐに生活に困ることはない。次の仕事こそ、自分の手で慎重に探そう。茂吉はそう考えていた。[注4]

星製薬時代の茂吉といく(『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.69より)

茂吉が星製薬に未練をもたなかったのには、もうひとつ理由があった。退職の数カ月前のある日、星製薬で輪転印刷機を組み立てた森澤信夫から、あたらしい機械の構想について、意見を求められた。そして茂吉は、機械設計の正式な基礎教育を受けていない信夫に、図面の引き方や特許について助言した。

未知の機械が生まれようとしていた。

(つづく)

[注1] 星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967 p.278

[注2] 大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997/初出は共和書房、1949 p.141および、星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967 p.9

[注3] 大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997/初出は共和書房、1949 pp.140-145

[注4] 『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)

【おもな参考文献】

『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)

『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965)

馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.185-245

星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967

大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997/初出は共和書房、1949

【資料協力】

株式会社写研、株式会社モリサワ

※特記のない写真は筆者撮影

雪朱里 ゆきあかり 著述業。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。2011年より『デザインのひきだし』 (グラフィック社) レギュラー編集者もつとめる。 著書に『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』 (三省堂) 、『活字地金彫刻師・清水金之助 かつて活字は人の手によって彫られていた』 (Kindleほか電子版、ボイジャー・プレス) 、『時代をひらく書体をつくる。――書体設計士・橋本和夫に聞く 活字・写植・デジタルフォントデザインの舞台裏』、『印刷・紙づくりを支えてきた34人の名工の肖像』、『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』 (以上グラフィック社) 、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』 (誠文堂新光社) ほか。編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』 (小塚昌彦著、グラフィック社) など多数。 この著者の記事一覧はこちら