W杯にまつわる個人的な思いを、シリーズでお伝えしている。
 日本が初めてW杯に出場した1998年は、現地で取材をした。

 アジアカップやアジア大会は、行きたいと手をあげれば取材パスを取得できる。記者としての実績があることは大前提だが、「日本の記者は何人まで」といった上限はない。

 W杯や五輪は違う。世界各国から記者が集まってきて、スタジアムやメディアセンターの収容力には限りがあるから、国ごとに上限が設けられる。

 98年のフランス大会では、僕が務めていた専門誌に記者3人の取材パスが配分された。日本が出場する前から、W杯には特派員を出していた。過去の実績が評価されたのだろう。

 現地で取材をする記者は、できるだけ多くの試合をカバーする。同じ都市で連続して取材をすることは少なく、大会序盤は移動の連続だった。

 移動手段はあらかじめ確保していた。空路は日本で手配していき、高速鉄道のTGVはフランスへ行ってからまとめて予約した。

 当時は明かせない失敗もした。
 7月3日に西部の都市ナントで、ブラジル対デンマークの準々決勝を取材した。21時キックオフで、ホテルに着いた頃には日付が変わっていた。

 仕事が終わったのは5時だったか、6時だったか。その日の10時には空路でマルセイユへ移動して、16時キックオフのオランダ対アルゼンチン戦を取材することになっている。
 ホテルは空港のすぐ近くだった。15分もあればチェックインカウンターに着ける距離だが、ベッドに入るのはやめたほうがいいなと思った。そうかといって、文庫本を読むような気力もない。ベッドの中へ入らない代わりに、ベッドの上に横になってテレビを観ることにした。身体だけでも解すつもりだったのだが……。

 何だか暑いなと思って、目を覚ました。ベッドの上の僕は、強い朝日を浴びていた。
しまった! 時計を探す。10時を過ぎていた。予約していた飛行機は、いままさに飛び立とうとしている。

 狭い部屋の中を、あたふたと歩き回った。時間は無いのになぜかシャワーを浴びて、髪の毛も乾かさずに空港へ走った。

 チェックインカウンターで事情を説明すると、女性の職員は「12時過ぎの便があるけれど、すでに満員よ」と事務的な口調で告げた。「キャンセル待ちをする?」と聞かれたので、力なく「はい」と答えた。

 11時過ぎ頃から、チェックインカウンターが忙しくなってきた。次の飛行機に乗れなかったら、どこかで試合を観て、原稿だけは送らなければならない。7日の準決勝までマルセイユに滞在する予定なので、ホテルにも連絡を入れないといけない。で、今日はどこに泊まるか……。

 面倒な雑務が列をなしている。自分で蒔いた種とはいえ、寝坊の代償は大きかった。この日何十回目かのため息をついていると、チェックインカウンターの女性が手招きをしている。

「キャンセルが一席だけ出たわ。あなたは本当にラッキーよ」

 チケットは正規の金額で買っていたため、追加の料金はかからなかった。マルセイユに14時頃について、空港からタクシーでスタジアムへ向かう。15時には着いたので、記者席のチケットも予定どおりピックアップできた。

 試合はと言えば、1対1で迎えた89分、デニス・ベルカンプの完璧なトラップからのシュートで、オランダが2対1で勝利した。僕が割り当てられた記者席の数列後ろには、ヨハン・クライフが座っていた。オランダのドラマティックな勝利と、母国の勝利を喜ぶクライフを観ることができて、この日の僕は本当にラッキーだった。(以下、次回へ続く)