かつての天才少女・奈良くるみが引退、独占インタビュー。「がんばれているから、辞めてもいいのかな」
天才少女----。
そう呼ばれていたことに触れると、彼女はいつも、「そんなふうに言われたこともありましたよねぇ」と、小首をかしげて、不思議そうにつぶやいていた。
小・中学生時代は、国内敵なし。それも、体格で有利だったわけではない。ただでさえ小柄なことに加え、誕生日も12月30日と遅い。それにもかかわらず彼女は、高いスキルと卓越した戦術で年長者をも退けていった。
ジュニア時代には国際大会でも、次々に結果を出す。2007年にはウィンブルドン・ジュニアのダブルス部門で、土居美咲と組み準優勝。同年の世界スーパージュニアテニス選手権では、シングルスでジュニア界の頂点に立った。
奈良くるみ、当時15歳。
東レ大会を最後に現役引退した奈良くるみ
それから、15年----。30歳になったかつての天才少女は、東レパンパシフィックオープンを最後に、競技者生活から退いた。最後の試合は、初戦敗退となったダブルス。パートナーは、12歳の頃から知る同期の土居だった。
プロ転向後はランキングや戦績で奈良と伍する土居だが、小学生時代は「奈良くるみ選手は、雲の上の存在だった」と回想する。土居が鮮明に覚えている奈良の第一印象は、「白のウェア着用が義務づけられている小学生の全国大会で、真っ赤なウェアでウォームアップしていた」姿。
「プロになるすごい人は、ウォームアップウェアからして違う!」
驚きとともに、そんな畏敬の念を抱いたという。
今になって奈良は、「あの頃は天狗になっていたというか、勝つのが当たり前だと思ってました」と、恥ずかしそうに振り返る。
対して、この10年ほど奈良が繰り返してきたのは、「私は才能がないから」「がんばることだけが取り柄なので」という謙虚な言葉。しかもその口調に、謙遜と表裏の自己顕示欲や自尊心の響きはない。「あまり負けず嫌いではない」自分に、微かなコンプレックスを示したこともあった。
元天才少女の自負と葛藤「生意気だった」という天才少女が、「がんばっている自分を認めてあげることができたから」と自ら幕を引いた、そのキャリアの転換期とは?
「やっぱり一番挫折を感じたのは、トップ100に入るところです。101位まで行ったのかな? そこまでは順調だったと思いますが、ちょっとそこで壁にぶつかったというか。自分のテニスにコンプレックスを感じ始めていました。パワーもないし......って」
17歳でプロになった奈良は、18歳の初夏に全仏オープン予選を突破すると、続くウインブルドンでは本戦初勝利をも掴み取る。同年8月に世界ランキング101位まで駆け上がった足跡は、天才少女にふさわしいものだった。
だが、最後の一段でつまずくと、途端に目の前で重い扉が閉ざされる。単なる数字であるはずの"100"が、強固な壁として立ちはだかった。
以降の2年間、ランキング100位台にとどまった奈良は、2012年に新たな指導者の門を叩く。それが、引退の日まで師事し続けた原田夏希コーチだ。
若くして「完成度の高いテニス」と称賛された奈良の武器は、相手に応じて自分のプレーや戦術を変えられる、柔軟性だったろう。その適応力はしかし、原田の目には「ベースとなるテニスがない」と映る。そこで原田は、フットワークからフォアハンドの打ち方に至るまで、徹底的にメスを入れた。
ただ、「ずっとこのテニスで勝ってきた」との自負もある"元天才少女"にとって、それは受け入れがたい指摘でもあった。
「時間はかかりましたね。自分の内面的にも、まだちゃんとプロでなかったと思います。(原田)夏希さんにお願いして就いてもらったのに、反抗したり話を聞き入れられなかったり。
ある時、そんな今までの自分が、すごく恥ずかしいと思ったんです。夏希さんといろいろ模索してたのに、それを信じきれていない。夏希さんの方向性と自分の想いが一致してなかったし、『何をしているんだろ』って自分が情けなくなって。
そこからは、もちろんトップ100に入るのは一番の目標にしていましたが、結果が出なくても自分でがんばっているなとか、プロとしてやるべきことはやれているなとか、人間として成長しなくちゃいけないとすごく感じたんです。そのためには本当に今がんばって、先を見すぎず、自分を変えていくことに集中しようって思ったんです」
宮里藍の言葉に救われたそのような意識の変化をもたらしたのは、一冊の本だったと奈良が明かす。今ではどういう経緯か判然としないが、「誰かからの差し入れでいただいた」ものだった。
「それは、ゴルフの宮里藍さんの本で。『I am here.』というタイトルだったと思います。私と比べるのはおこがましいですが、宮里さんもジュニアからすごくて順調に来ていて、でも、壁にぶつかってスランプになり......ということがあって。
それでも、今を大切にという内容で、読んで『すごくかっこいいな、私もこうなりたい』と思ったのがきっかけでした。結果が出なくても、こういうふうになれたらいいなと、自分の未来を描けたのはすごく大きかったです。
宮里さんも自分のゴルフを模索していた時期に出された本で、最後『待っていてください。私は必ずツアー優勝します』で終わったんです。そしたら本当に、そのすぐ後にLPGAツアーで優勝したので、すごく感銘を受けました」
その歩みに、自分と似たものを感じた宮里の抱える苦悩と思想は、奈良の心にもすっと染み込んだのだろう。そこからは、「自分の成長に精一杯だったので、あまり相手がどうとか考えなくなった」とも奈良は言う。
彼女が唯一、負けたくなかった相手......それは、自分自身。「自分を落胆させるのだけは嫌」という信念が、つまりは、「負けず嫌いではない」の言葉の真意だった。
「ひとつ、自分でいつも笑っちゃうのが......」と、彼女は照れた笑みで続ける。
「私、『世界に一つだけの花』を、ジュニアの時は絶対に聞かないようにしてたんです。『No.1にならなくてもいい』という歌詞があるじゃないですか。あの頃は『No.1にならなきゃ意味ないでしょ』って思っていたので聞かなかったんです。
でも今は、『なんていい曲なんだろう!』って。それくらい方向チェンジしました。昔は、あの歌詞が受け入れがたかったので」
こうして、コーチの指示を、苦手だった歌の詞を、そして等身大の自分を受け入れた奈良は、ほどなくトップ100の壁を突破し、さらには「予想もしていなかった」というツアー初優勝も手にした。宮里の本を読んでから、1年未満のことである。
錦織圭に教わった技術で優勝2013年以降トップ100を維持した奈良だが、2019年以降はランキングを落とし、グランドスラム本戦に出られない時期を過ごした。
2020年には「本気で辞める」と決意したとも明かす。ただ「それは逃げ」であることは、本当は自分でもわかっていた。
そこからもう一度気持ちをつなぎ止め、今年5月には錦織圭にリターンの指導も受け、その成果を発揮し直後の韓国開催のITF大会で優勝。
「がんばれているから、辞めてもいいのかな」との思いが「降ってきた」のは、優勝の翌日だった。
錦織に引退の意向を伝えた時、彼は「引き止めたいな」とだけ言ったという。
盟友の土居に打ち明けた時は、奈良いわく「あのドライなみっちゃん(土居の愛称)」が号泣した。
最後の試合後にコートで行なわれたセレモニーには、10人を超える現役日本人選手が集い、観客席には家族や友人に交じり、引退した元選手たちの姿もあった。155cmの小さな身体で妥協せず、自分にも他人にも誠実な姿勢で、誰からも愛された14年のプロキャリアだった。
ひと言で表すと、どんな選手生活でしたか?
ラストマッチから2日後。最後にたずねた漠然としたその問いに、彼女は明るい笑顔と、まっすぐな言葉で答えた。
「つらいこともあったけれど、テニスが嫌いになったことはなかったです。小さい頃から注目されるのは楽しかったし、そのなかで勝てることがモチベーションでした。テニスが自分を輝かせてくれるという思いは、ちっちゃい頃から変わらないので。
苦しいこともありましたが......でもね、ほんっとに楽しい! わいわい楽しいってわけじゃないけれど、ほんっとに今までやっていて、もう一回ちっちゃいころからやり直したいくらい、自分の人生よかったなって。支えてくれる人の縁や出会いにも恵まれてきました。なので生まれ変わっても、絶対にもう一回テニス選手になりたいなって、すごく思います」
あ、ぜんぜん、ひと言じゃなかったですね----。そう言い彼女は、また恥ずかしそうに笑った。