日本代表「私のベストゲーム」(13)
井原正巳編(前編)

 井原正巳が初めて日本代表に選出されたのは、まだ筑波大学在学中だった1988年のこと。以来、1999年までの12年間に出場した国際Aマッチは通算で122試合を数える。

 その途轍もない数の激闘のなかから、井原が自身の日本代表ベストゲームに選んだ試合は、彼個人にとってだけではなく、日本サッカー界にとっても記念すべき一戦だと言っていい。

「ベストゲームと言っても一番よかった試合という意味がすべてではなく、やはり日本の夢がかなった最初のワールドカップの、その初戦でしたし、自分の夢でも目標でもあった舞台に立ってゲームができた。結果的には敗戦でしたけど、当時の日本代表が持っている力は出しきれたと思いますし、そういう意味でこのゲームを選びました」

 1998年6月14日、フランス・トゥールーズで行なわれたワールドカップ・フランス大会のグループリーグ初戦、日本vsアルゼンチンである。


井原正巳が自らの代表ベストゲームに選んだ1998年フランスW杯のアルゼンチン戦

 日本代表が初めてワールドカップの舞台に立つ――。その歴史的瞬間を前に、当時の日本は異常な盛り上がりを見せていた。

「メディアを見ていても、これがワールドカップなんだなと驚かされたところはありましたし、フランス国内の盛り上がりもすごかったので、ワールドカップって本当にすばらしい大会なんだと改めて体で感じていました」

 そんな過熱ぶりが思わぬ方向に飛び火したのが、チケットの空売り問題だった。

 チケット手配の代行業者が、手元に現物がないにもかかわらず販売をしたため、代金を支払ったはいいが、チケットがないという日本の観戦客が続出したのである。

「こんなことがワールドカップであるのか、という驚きはありましたね。自分の家族に関しては(日本サッカー)協会の方に手配していただいたチケットで観戦することができましたけど、ツアーでフランスに来たのにスタジアムでは試合を見られなかったという友だちはたくさんいました」

 だが、日本中が沸き立つその裏で、井原は思わぬアクシデントに見舞われていた。

 ワールドカップ本番を前に、スイス・ニヨンで行なわれた直前キャンプでのことだ。

「6月2日でしたよね」

 井原がその日のことを、日付まではっきりと記憶しているのには理由がある。

「カズさん(三浦知良)、キーちゃん(北澤豪)、市川(大祐)が(ワールドカップの登録)メンバーから外れるということが発表された日でした。その発表があったあとの練習で、自分が右ヒザの内側靭帯をケガしてしまったんです」

 チーム内に動揺があっても不思議ではない時に、追い討ちをかけるようなキャプテンの負傷。井原は大きな責任を感じていた。

「そういうメンバー選考のことも(影響が)あったのかもしれないですし、自分でもすごくタイミングが悪い時にケガをしてしまったな、と。(初戦まで)残り10日くらいしかないなかで、もしかしたら(登録メンバーを)辞退しなければいけないのか、というくらいのケガでした」

 とはいえ、「一度やったことのあるケガではあったので」と井原。ドクターをはじめとするスタッフのサポートもあり、「アルゼンチン戦にはいけるだろう」との判断が下された。

 そこからは時間との戦いだった。

 最初の3日間は、「それで大丈夫なのかと思いながらも、何もしないことが練習ということで」、ひたすら安静に努め、残る1週間でケガを回復させながら、試合に向けて状態を上げていくことになった。

 井原は、その間に行なわれた本番前最後のテストマッチ、ユーゴスラビア戦も欠場。「初戦から逆算して準備していきました」と語る。

「監督の岡田(武史)さんが、『(アルゼンチン戦に)間に合うんだったらそれに合わせろ』ということで、私を先発で使う決断をしてくれて、自分なりに(リハビリを)やらせてもらえた。監督をはじめ、スタッフの判断やサポートがなければ、初戦には出られなかったと思います。

 自分も指導者になってみて、そのあたりの決断の難しさがわかるようになった分、そこは本当に感謝しかありません。本当に間に合うのかなという不安との戦いもあるなかで、もうギリギリでしたけど、試合当日には100%の状態にはもっていけた、と自分では思っていますし、そういうこともあって、自分のなかではより印象深いゲームになりました」

 こうしてたどり着いたアルゼンチン戦。井原はいつもように左腕にキャプテンマークを巻き、チームの先頭に立ってピッチに入ってきた。

「自分はワールドユースとかに出たことがなく、ワールドカップが初めての世界大会だったので、(それまでの試合とは)全然違いましたね。いろんなものを犠牲にして戦ってきて、ようやく自分が目標にしていた大会のピッチに立ったんだという思いで入場してきましたし、まだゲームもしていないのに気持ちが高ぶって、もう半分涙が出そうになるくらいの、そういう感覚でピッチに入っていったのは覚えています」

 と同時に、遠くフランスまで駆けつけ、スタジアムのほとんどを埋めた日本サポーターの存在が心強かったことも、鮮明な記憶として残っている。

「試合会場が日本のサポーターであふれかえっていて、ワールドカップの一戦ではあるけれど、ホームゲームのような雰囲気を作ってもらえたことで、より勇気を与えてもらえました。守備の時間が長くなる厳しいゲームのなかで、すごく我々の後押しをしてくれたなと思います」

 守備の要となる3バックの中央に入る井原が全体練習に復帰できたのは、初戦のわずか数日前。それでも、井原に大きな不安はなかった。

「(4バックから3バックに変更した)システムも含めて、5月くらいからアルゼンチンを想定した対策がスタートし、国内で何試合かこなして、ある程度やり方の整理はつけながらできていました」

 折しも当時、日本代表に本格的なスカウティングが導入されたことも大きかった。

「ちょうどこの大会の前くらいから、相手チームにどういう特徴があって、どういうやり方をしてくるというスカウティング情報が入って、戦術に落とし込まれるようになった時でした。

 コーチの小野剛さんをはじめ、今の横浜FC監督の四方田(修平)くんや、ユース育成ダイレクターの影山(雅永)だったりがサポートをしてくれていたんですけど、そういうスカウティングの力も大きかったと思います。

 アルゼンチンには、バティストゥータ、クラウディオ・ロペス、オルテガ、ベロンなど、そうそうたるメンバーがいましたが、彼らの特徴を頭に入れながらゲームに臨めた、という状況ではありました。守備の時間が長くなるだろうけど、そこでいかに我慢強く耐えられるか。0−0の時間をいかに長くできるか。そこがひとつのポイントだったと思います」

 実際、試合は立ち上がりからアルゼンチンが攻勢に進めたが、井原にしてみれば、「それも想定内」だった。

 ところが、試合は意外な形で動いてしまう。

 前半28分、中盤で日本のパスをカットしたオルテガが、一度ボールをシメオネに預け、リターンパスを受けるべくゴール前へ走り込む。すると、このリターンパスを意図的にスルーしたのか、あるいはトラップミスだったのか、いずれにせよ、オルテガが触れずに抜けてきたボールが不意を突かれた名波浩に当たり、バティストゥータの足元に転がった。

 いわば、偶発的に生まれたチャンス。だが、世界屈指の点取り屋がそれを見逃すはずはなかった。井原が「ゲームプラン的には、非常に難しくなってしまったことは否めない」と振り返る先制点は、こうして生まれた。

「自分のマークを捨てて、もうひとりの空いた選手にアプローチしにいったところでパスを出されて、それがアンラッキーにもバティのほうにこぼれてしまった。自分があそこで出なければ......、そういう後悔はありました。

 ただ、それも含めて力の差というか、あそこでボールがこぼれてくるのがバティだと思いましたし、それを落ち着いてゴールへ流し込める力に経験値の差を感じました。その他にも危ない場面はありましたが、(GKの川口)能活をはじめ、日本の選手が体を張って抑えていた。でも、やはりああいうところを逃さない。それが世界的なストライカーなのかなと、より強く感じさせられたプレーでした」

 それでも、その後は日本がフィニッシュまで持ち込む場面も何度かあり、井原は「追加点を許さなければ、追いつくチャンスはあるという思いでゲームを進めていました」。結果的にこの1ゴールが決勝点となり、0−1で敗れはしたが、「十分にやれるという手応えのほうが大きかった」と振り返る。

「初めて出たワールドカップで、日本のサッカーを少しは世界にアピールできたと思いますし、現地でもフランスの方々が日本のサッカーを見てビックリされていたという話も聞きました。自分たちのやれることはやったのかなと思います」

 敗れはした。世界との差を見せつけられた。それでもこの試合が、井原のキャリアにおいて、燦然と輝く特別な一戦であったことに変わりはない。

「初めてのワールドカップの初戦というだけでなく、ケガをしてからのリハビリのことや、外れた3名のメンバーのことであったり、あとはドーハの時(前回大会最終予選)の悔しさを晴らすためにという思いもあるなかで、何とか(出場のチャンスを)つかんだ試合でした。

 そういういろんな思いがあって、アルゼンチン戦には臨むことができた。やはりあの試合というのは、自分のなかでは非常に印象深いですし、ベストゲームと言っていい試合だったと思っています」

(つづく)後編はこちら>>

井原正巳(いはら・まさみ)
1967年9月18日生まれ。筑波大卒業後、JSL(日本サッカーリーグ)の日産(現横浜F・マリノス)入り。以降、日本を代表するDFとして名を馳せる。大学在学中に初招集された日本代表でも長年活躍。国際Aマッチ122試合に出場(5得点)。1998年フランスW杯に出場した。現役晩年にはジュビロ磐田、浦和レッズでプレー。引退後は解説者などを務めたあと、2009年に柏レイソルのヘッドコーチに就任。その後、同クラブの監督代行、アビスパ福岡の監督などを経て、2019年より再び柏のヘッドコーチを務めている。