1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:八木裕(後編)

前編:八木裕が明かす「ラッキーゾーン撤去と阪神快進撃の理由」

 前半戦終了時点でチーム防御率は12球団トップの2.94──。1992年の阪神快進撃は投手陣の安定が要因だった。一方、打線もトーマス・オマリー、ジム・パチョレックの両外国人選手が中軸で機能し、若手の台頭で勢いもあった。だが、後半戦の終盤に湿りがちとなる。当時5番打者の八木裕によれば、発端は9月11日のヤクルト戦。自ら放った「サヨナラ2ラン」が幻になったことだという。その一打について八木に聞く。


一度はホームランと判定され、阪神のサヨナラ勝ちと思われたが......

ホームランの弾道ではなかった

「3対3の同点で9回裏、2アウトからパチョレックがセンター前ヒットで出たあとです。相手ピッチャーは岡林(洋一)で、カウント3−2になった。当然、一塁ランナーのパチョレックは走りますし、タイミングが合えば思いきっていくと決めていました。そこにアウトコースのスライダーがきた。完璧に打てました。レフト方向へ、いい当たりでした。

 ただ、弾道が低かったので、スタンドには届かないだろうと。それでも外野の頭を越えてくれれば、パチョレックは走ってましたから点は入る。外野手の頭だけは越えてくれと祈りながら一塁ベースを目指しました。ホームランとは思ってませんので、全力疾走で一塁を回りましたね」
 
 打った本人が一番わかる、ということだろうか。バットを振りきった途端、八木は一塁ランナーの生還を想定した。ホームランとは思わなかったのだ。ところが、平光清塁審が右手をぐるぐる回している。同年から審判は6人制から4人制になり、平光塁審は定位置の三塁後方から外野へと走ってジャッジしていた。

「平光さんのジェスチャーを見た瞬間、『あれで入ったの?』と思いました。高さはわかりますからね。どれくらいの打球を打てば入るか、というのは。よくあの打球でフェンスオーバーしたなと思いながら、三塁コーチャーの島野(育夫)さんと一緒に、バンザイしながら還ってきたわけです。みんなに頭をボンボン叩かれて大変でした」

 手荒い祝福を受けながらも、心の片隅ではまだ「本当に入ったんかな......」と思っていた。だが、すでにスコアボードの9回裏には阪神のサヨナラを示す「2×」が入り、スタンドは大歓声。ヒーローインタビューのお立ち台も出ていた。だがその時、打撃担当の佐々木恭介コーチがレフトのほうを見て「ちょっと、揉めてるな」と言った。

「やっぱりか......と思った記憶があります。入ったか、入ってないか、よくわからない打球だったということはすぐわかりました。それなのに『いいから早くヒーローインタビューしましょう。どうぞ、こちらに。どうぞ』って言われたのには参りました(笑)。『まだ抗議されてんのに無理や』って言うしかなく」

没収試合にはできなかった

 ヤクルト側は「打球はフェンスのラバーに当たったあと、スタンドに入った」と抗議していた。審判団が協議に入った結果、平光塁審が「誤審」を認め、判定を訂正。「エンタイトル二塁打として、二死二、三塁から試合を再開する」と阪神側に伝えた。当然、阪神側は怒り、訂正は「承服できない」と、ベンチ内で審判団と折衝した。

「平光さんがずっと中村監督に説得されていました。その間、ベンチ裏でVTRを観ていると、たしかにフェンスに当たって入っていました。ただ、実際はホームランじゃないかもしれないけど、一度ジャッジしたら、そこで決まりのはずですよ。今みたいにリクエストはないので、ゲームセットじゃないですか」

 リクエストが当たり前になった令和のプロ野球。見慣れた目で当時の映像を見てしまうと、いたたまれない。逆に、映像によるリプレー検証がなかった平成時代に、よく「誤審」を認めて訂正がなされた、と言えなくもない。選手たちはベンチ裏で映像を見ることができても、審判団は見ていないのだから。

「タイガースのベンチ裏は、ゲームセットになったらもう抗議は受けつけないという考えでした。中村監督としては『一度、ホームランとジャッジして、それで終わっている試合をもう1回やりましょう、みたいなことはダメだ』と」


スコアボードには阪神のサヨナラ勝ちを示す「2×」が灯っていた

 中断が長引き、スタンドから物が投げ込まれ、10人近い観客がグラウンドに乱入し、甲子園は騒然となった。阪神ベンチにフロントの人間が来て、中村監督に「没収試合という雰囲気になったらいけない。なったら負けになるので、どうしてもそれは困る」と伝えた。すると監督がベンチ裏に選手たちを集めて言った。

「没収試合で負けになるといけないから、すまんけど、もう1回、再開してくれるか?」

 37分間の中断を経て、阪神側の連盟提訴を前提に試合再開となった。二死二、三塁で残ったサヨナラのチャンスは、新庄剛志が四球で出たあと、久慈照嘉が中飛。シーズン15度目の延長戦に臨むことになった。

痛恨となった6時間26分の死闘

「切り替えられたかどうかと言ったら、難しいですよ。『サヨナラだ!』って騒いで、もう上がって、風呂に入りかけた人もいたんでね。それでまた帰ってきて、もう1回やるのはなかなか大変ですけど、しょうがない。それで再開はしたんですけど、岡林、それだけ中断したのにまだ投げて。7回から15回まで9イニング、完封されてしまいました(笑)。ありえないですよ」

 延長15回を終えて3対3。史上最長の6時間26分を戦って、規定により引き分け再試合となった。セ・リーグが90年から導入した規定だったが、阪神にとってはこの再戦がのちに響くことになる。

「結局、1勝差でヤクルトに負けて優勝を逃したので。そこで勝っていたら当然、大きいですし、最後、長い遠征になりましたんで、すごく大きなアドバンテージを持って甲子園を離れられたわけです。遠征に行く前までは、当然、優勝できると思っていて、中村監督も『大きなお土産を持って帰る』って言われましたけど、もっとラクにいけたと思います」

 中村監督の「大きなお土産」発言に関して、一軍経験の少ない若手には「プレッシャーになった」という証言もある。だが、八木にとっては普通の発言だったようだ。

「至極、当然だと思いましたね。我々もできると思っていましたし、よしよしと思って遠征に行きましたから。それがまさか、遠征に出て、13試合で3勝10敗ですか、そんなに負けるとは思ってなかったです」

 それこそ、八木が言うように「幻のホームラン後に打線が湿り出した」ことが敗因だったのか。あるいは、投手陣が疲れていたのか。

「一番は打線が湿り出したことです。なんで『幻のホームラン』のあとにそうなったのか、原因はわかりません。ただ結果論ですけど、引き分けた9月11日の試合に勝って、9日の広島戦から8連勝していたら、本当にラクに戦えたはずです。となれば、若い人にもプレッシャーはかからないで、得点能力も落ちなかったと思うんです」

 遠征で10敗したうち、10月7日のヤクルト戦でサヨナラ負けしたことが「決定打」になった。八木はそう述懐するが、同9日の中日戦は優勝を争う相手ではなかっただけに、0対1で負けた記憶が強く残っているという。最後、同10日の甲子園でヤクルト戦に敗れ、野村克也監督が胴上げされたときの心境はどうだったのか。

「私自身、初めて優勝争いをして、盛り上がって、ファンの皆さんが喜んでくれた。残念さは当然あるんですけど、いいシーズンだったな、また来年も頑張れるという充実感はありました」

 93年以降、八木はケガが多くなり出番を減らしていったなか、晩年は「代打の神様」と呼ばれる活躍。そして、2004年限りで現役引退となったが、03年には、92年に果たせなかった優勝を経験することできた。

「それはもう私自身、運がよくて、そこまで現役でいられたというだけです。残してくれた球団に感謝しなきゃいけない。ただ、2003年に優勝の喜びを味わえたことで、92年の負けがただ悔しいだけではなくなったんです。自分のプロ野球生活の歴史のなかで、92年は惜しかったけど『そういうのもありだな』って割り切れて、救われました」

(=敬称略)