1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:中込伸(後編)

前編:中込伸が語る92年の覚醒秘話>>

 コーチの指導に恵まれ、捕手との息も合って、プロ4年目でブレイクした先発右腕の中込伸。シーズン初登板で勝利するとトントン拍子に白星を重ね、6月にはあわやノーヒット・ノーランの快投もあった。だが、「すぐ調子に乗る」タイプ。体調管理を怠ったことが夏場の投球に影響したようだが、実際にはどうだったのか。

 成績を見ると、ノーヒッターを逃した6月2日の広島戦で6勝目を挙げたあとも好投を続けている。同7日の大洋戦から前半戦最後となる7月14日のヤクルト戦まで7試合に先発し、5回まで持たなかったのは7月1日の巨人戦だけ。

 あとの6試合は5回1/3で2失点、8回2失点、9回2失点、9回無失点、6回1失点、11回2失点と、十分過ぎるほどに先発投手の役割を果たしていた。しかし打線の援護を得られなかったため、勝ち星がつかなかった代わりに4つの負けがついた。これで前半戦の成績は6勝6敗も、防御率は1.95と安定感は抜群だった。その時の思いを中込に聞く。


2001年で阪神を退団し、その後、台湾でもプレーした中込伸

暴飲暴食がたたり夏バテに

「防御率のタイトルを目標にしていました。だからマイペースじゃないですけど、自分はやるべき仕事をやろうと。ローテーションをきっちり守って、イニングを投げて......ということです。当時は最低7回、常に完投を目指すという時代でしたから、中6日の間、ベンチに入らず自由にさせてもらっているぶん、責任を持って最低7回まで投げようと意識してましたね」
 
 ひたすら自身の役割に集中し、先発投手はベンチに入らない日も多いためだろうか。中込自身、チームが6月の終わりから7月頭にかけて7連敗したことをはっきり覚えていない。個人タイトルは目標のひとつだったが、前半戦終了時点で防御率が1点台だったことは、言われてみればそうだったかな......というほどに記憶が定かではない。

 それでも後半戦、優勝争いの真っ只中、大事な試合で投げたことは忘れようがない。9月11日のヤクルト戦、3対3の同点で迎えた9回裏に飛び出た八木裕の「サヨナラ本塁打」が幻となり、延長15回で引き分けた6時間26分の一戦。先発は中込だった。

「あれは長かったですね。僕はあまり調子がよくなかったので、7回の途中で交代となりました。そのあと、延長15回まで続いたんだから、8イニングもベンチで見ていたんですよ。誰が先発やねん!って(笑)。八木さんが打った時にはベンチの裏でタバコ吸ってました、暇すぎて。先発はそうやって自分のペースを守ることも仕事ですから」

 ただ、中込自身が「調子がよくなかった」と言うとおり、その試合は9四球を出して6安打3失点。ちょうど1カ月前の8月13日のヤクルト戦で8勝目を挙げたあと、左背筋を痛めてローテーションを1回飛ばすなど不振が続いていた。これが「夏バテ」だった。遠征先で飲み食いし過ぎて太ったことが、この時期に悪影響を及ぼしていた。

裏目に出た先発投手のリリーフ起用

 それでも、チームは引き分けた翌日のヤクルト戦から5連勝。中込はその5試合目の9月19日、甲子園での大洋戦に中7日で先発すると、6安打1失点、無四球完投で勝利。これで9勝目となり、2ケタの勝ち星も見えてきた。チームは2位に3ゲーム差をつけ、残り15試合を勝率5割でも優勝が見えるほど優位に立った。

 試合後、お立ち台に上がったのは中込だった。アナウンサーが「10月10日はどういう状態で帰って来られるでしょう」と尋ねた。すなわち翌日から始まる長期ロードを経て、次にチームが甲子園に戻る時には優勝を決めている、と言わせたかったのだ。だが、中込は「うーん。頑張ります」とだけ言って笑った。苦笑のようにも見えた。

「周りは『優勝だ』と騒いでましたけど、僕はその試合、やっぱり調子が今ひとつで、なんとか抑えた感じだったんです。そしたら、中村(勝広)さん、監督が言っちゃったんですよね。『今度、甲子園に戻る時には大きなお土産を』って。その時は余裕で優勝と見られてましたからね。でも、若い野手たちにはプレッシャーで、硬くなってしまった。

 チーム内でも『遠征に行っている間に優勝できるんじゃないか』という雰囲気はありました。それがロードに出た途端、4連敗で2位に落ちて。『おいおい、どうすんの、どうすんの......』って」

 4連敗目となった神宮球場でのヤクルト戦、先発は中込だった。阪神は4回に相手のエラーで1点を先制したが、その裏、ジャック・ハウエルに逆転2ランを浴びてしまう。それでも中込が6回まで2失点と踏ん張ると、7回からマウンドに上がったのは、同年に左腕エースとして成長した仲田幸司だった。抑えの田村勤が左ヒジ故障で7月に離脱して以降、阪神は抑えを固定できていなかった。

 そのなかで9月下旬、先発で13勝を挙げていた仲田が首脳陣に伝えた。「ここまで来たら遠慮せず、どんどん使ってください。どんな場面でも行きます」と。ところが2対2の同点で迎えた9回裏、二死一、二塁の場面。仲田が飯田哲也にライト前に運ばれ、痛いサヨナラ負けを喫したのだった。昭和の時代と違い、今や先発が抑えを兼ねることはあり得ないが......。

「いや、当時だってないですよ。ずっと先発で投げてきた人が、抑えで出ていったら、ちょっと難しい部分があると思うんです。これはそのあと、やっぱり僕が先発した10月の神宮でもそうでした。3対1で勝っていて、9回裏、僕がワンアウトとったあとにフォアボール、ヒットで一、三塁になったら交代。出てきたのは湯舟(敏郎)さんでした」

優勝を逃し、タイトルも獲得できず

 この年、先発陣の主力として11勝を挙げていた湯舟。直近4試合で3完封と安定し、救援登板も5度目だった。だが、リードしている場面での抑え役はプロ2年目で初めて。なかなかストライク入らず、連続四球で押し出し、同点とされた。

 そして代わった中西清起が二死をとるも、最後はまたしても飯田に打たれて逆転サヨナラ負け。阪神が優勝するには残り3戦全勝が条件となった。

「先発って、7回で2点、3点って考えるんですよ。初回に2点とられようが、あとゼロに抑えたらいいっていう感覚。だから、その局面だけ出ていってゼロに抑えるのは難しいんです。今だから言えることですけど、切羽詰まったところでの中村さんの判断はどうだったのかって思うし、湯舟さんもなにかそれがずっと残っているし、かわいそうですよ。

 いま言いたいのは、僕は投げられたということです。交代しましたけど、あの試合、完投できました。だから湯舟さんに会えば言うんですよ。今はもうネタにしていますが『湯舟さんが抑えたら、余裕で優勝できたのになぁ』って。当時はそんなこと言えませんでしたが」

 そして10月9日の中日戦、阪神は0対1で敗れた。これで残り2試合、ヤクルト戦に連勝してプレーオフに持ち込むしかなくなった。

 10月10日のヤクルト戦、中村監督から「総動員でいく」と通達され、中込もベンチ入りした。だが2対5で敗れ、ヤクルトが優勝を決めた。結局、その日は中込の登板はなく、翌11日の最終戦に先発した仲田のあと、6回からマウンドに上がった。

「『嫌やなあ、もう決まってんのに』と思っていきました。結局、リーグ2位で防御率のタイトルも獲れなくて。それもやっぱり、普段の行ないが悪いからですね。その年は前半戦で勝たしてもらって、だいぶ調子に乗っちゃった、ということです」

 92年の中込は9勝8敗、200回1/3を投げて防御率2.42。翌年も先発で健闘したが、その後は2度の右ヒジ手術もあり、結果を出せずに2001年限りで阪神を退団。台湾球界に活路を見出し、監督も務めたが、八百長事件に巻き込まれて11年に帰国。甲子園球場の近くで焼肉店を経営して11年が経つ。中込の人生にとって、1992年はどういう年だったのか。

「あの盛り上がりがあったから、台湾もあって、この店も"中込"っていう名前である程度、商売できている。92年がなくて、ずっと暗黒の時代のままだったら、『中込? 誰やねん』ってなってたと思う。だから、いい思い出ですし、もしも優勝してたら、僕もメジャーで投げてたかもしれない(笑)。でも、普段の行ないの悪さでダメでしょうね」

(=敬称略)