もしあの巨人戦でKOされていたら…中込伸が「山田勝彦のおかげ」と感謝する92年の覚醒秘話
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:中込伸(前編)
『タイガースの革命児』と題された写真集が、1992年12月に発売された。表紙には私服を着た中込伸、亀山努、新庄剛志の3人がそれぞれ配置され、帯には<闘う集団に変えた男たちの素顔>とある。さらには<中込のストレート、亀山のヘッドスライディング、新庄のバッティング......。次の目標はただひとつ、『優勝』>の文字。
当初の企画では、亀山と新庄の2人の写真集だった。それがなぜ、3人になったのか。同年に自己最多の9勝、リーグ2位の防御率を記録した当事者である中込に聞く。
1992年は前半戦で6勝を挙げた中込伸
「92年は亀山・新庄のフィーバーがあって、それに便乗して、僕も入れてもらったんです。球団から話があったわけじゃなくて、僕から出版社に交渉してね。『オレも入れるなら2人に写真集の話をしとくよ』って。そしたら大コケした(笑)。2人のほうがよかったって」
出版物としては2人のほうが売れたのかもしれないが、同年の阪神にとっては中込も欠かせない"革命児"だった。前年までわずか1勝だった男は、いかにしてプロ4年目でブレイクしたのか。春季キャンプでの取り組み方から変えた部分はあったのだろうか。
「いやいや、変えてないです。なんだろうな......まったく普通だったけど、本当に勢いに乗っちゃったというか。ただ、コーチの方のご指導は大きかった。僕は練習生の時からピッチングコーチの大石(清)さんに期待をかけてもらって、世に出させてもらったので。
プロは実力だけじゃなくて、巡り合う人ってすごく大事で、僕はラッキーなところでやらせてもらいました。もちろん、一軍に上げてくれた監督の中村(勝広)さんもそうです。中村さんは一見、マスコミとかの前では真面目そうに見える人でしたけど、じつは豪快な方で、よく『おまえ、やれ! あっはっは』って笑いながら言われてました」
中込は山梨・甲府工高3年時の87年、春のセンバツ大会で甲子園に出場してベスト8。プロも注目する剛腕エースだったが、入学時は定時制で全日制に編入していたため、卒業には4年を要した。そこで阪神球団スカウト・田丸仁が法政大先輩の甲府工高・田名網英二総監督に相談を持ちかけ、兵庫・神崎工高定時制への転校と球団職員=「練習生」での採用を決める。
定時制で学ぶ高校球児を4年時に転校させ、球団職員として採用する──。これは81年、西武球団管理部長の根本陸夫が、熊本工高定時制の伊東勤を獲得した時と同じ"囲い込み"の手法である。練習生制度の廃止以降、そのような裏技は使えなくなったが、当時の中込はそこまでして獲りたい逸材だったのだ。
阪神の球団寮・虎風荘で生活し、日中は背番号99のユニフォームを着て二軍練習に参加。早めに練習を切り上げて通学する毎日送った中込は、88年のドラフトで阪神から1位指名を受けた。球団はスター候補として背番号20を勧めたが、中込は愛着ある99番を希望して受け入れられた。正式に入団すると、コーチの指導は厳しさを増した。
「大石さん、ずっとつきっきりでした。全体トレーニングのあと、個人で大石さんのトレーニングを受けるんです。めちゃくちゃ厳しかったですけど、理不尽さはなくて、自分で自信がつく練習をさせてもらいました。僕はすぐ調子に乗るほうだったから、厳しい人がいてくれたおかげでなんとかできた。だから、恩師ですよね」
2回4失点からの勝利投手で自信指導者に恵まれた反面、入団2年目の90年8月には右ヒジ手術。順調に成長できたわけではない。91年は開幕一軍も、先発として結果を出せずに二軍暮らしとなった。だが、そこで基本からやり直したことが奏功し、9月22日の大洋戦でプロ初完投初勝利。これが翌92年への自信につながって開幕ローテーション入りを果たす。この年の初登板は4月8日の巨人戦だった。
「初回にいきなり2点とられて、2回にはピッチャーの斎藤(雅樹)さんに2ランホームラン打たれて、序盤に4失点ですよ。でも、3回に8番の山田(勝彦)がタイムリーを打ってくれた。そのおかげで僕は代打を出されず、そのまま打席に入って送りバントになった。だから続投できて、勝ちを拾えた。もしそのままKOされていたらどうなっていたか......僕がその年に伸びることができたのは、山田のおかげでもあるんです」
阪神打線はその3回に巨人先発の斎藤を攻略し、一挙4点を奪って同点。5回に1点を勝ち越した。一方で中込は3回以降、7回まで1安打無失点と立ち直り、8回からは田村勤が抑えて5対4でゲームセット。2回KOだったはずの中込が勝利投手になった。「タイムリーを打ってくれた」という山田は同期入団の若手ながら、捕手としてもしっかり引っ張ってくれた。
「山田はすごく勉強していたし、野球を知っている。僕は最初、ベテランの木戸(克彦)さんとよく組んでいたんですけど、大石さんに『山田がいい』と言うたんです。まだ二軍の時からね、『おまえが一軍に行った時はオレを指名してくれ』って山田に言われていたから、その約束を果たしたわけです。同級生だし、肩も強かったし」
初勝利のあと、中込は4月15日の大洋戦(現・DeNA)で完封し(6回降雨コールド)、21日の同戦でも完投勝利。26日の中日戦で初黒星を喫したが、5月2日、9日と広島戦に続けて勝って、早くも5勝目を挙げる。
真っすぐは140キロ台前半ながら、緩いチェンジアップ、カーブとの緩急を使ったピッチング。なおかつフォークもあり、真っすぐは打者の手元で微妙に変化した。
「ちょっと曲がる"真っスラ"ってボールがあったんで、大洋、広島、巨人と左バッターが多いチームにはラクに投げられたんです。逆に広沢(克己)さん、池山(隆寛)さん、古田(敦也)さんといった右の強打者が多いヤクルトは嫌でしたけど......。それも山田がうまいことリードしてくれたから生きたんです」
遠征に出れば飲み歩いていた身長183センチ、体重104キロの巨体にしてバッタバッタと三振に斬るのではなく、制球重視で丁寧に投げ込む投球スタイル。捕手・山田のリードを信頼しきったことも大きかったのだろう。5勝を挙げたあと、打線とのからみでなかなか勝てない日が続いたが、6月2日の広島戦、中込は8回までノーヒット・ノーランの快投。9回に1点を失ったものの、完投で6勝目を挙げた。
「何回も投げていたらそういうこともありますけど、やっぱり記録を達成できないところは普段の行ないの悪さですね(笑)。早いうちにトントントーンと勝てたもんで、今だから言える話ですが、遠征に出れば飲み歩くようになってたんです。
野手は毎日試合があるんで気も遣いますし、ピッチャー同士、酒飲み連中と一緒に行って、すごく飲んでましたね。ただ、地方に行った時だけは新庄を連れて行ったり、亀山を連れて行ったり。今の亀山はすごく真面目に仕事していてすごいなと思いますけど、当時は酒乱で、酔うと怖い、危ない男でした(笑)」
若さの勢いで何事にも突っ走れる面もあれば、若いがゆえの経験不足で気が張り詰め、ミスを犯すときもある。酒で発散したくなるストレスも溜まりがちだったのだろう。外から見ている者としては、実績に関係なく、プロならではの息抜きではと思ってしまう。
「でもね、飲み歩いたら、やっぱりそれだけ食べちゃいますよね。そしたらどんどん太って、コーチ連中に怒られました。案の定、夏バテして勝てなくなっていったんです」
後編につづく>>
(=敬称略)