私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第19回
W杯に潜む怖さを痛感した男の証言〜今野泰幸(1)

 2014年ブラジルW杯に挑んだ日本代表は、メンバーの顔ぶれも、チームとしての完成度も、2006年ドイツW杯に臨んだチームに並ぶ「最強チーム」という呼び声が高かった。

 チームの主力である本田圭佑は「W杯優勝」を謳い、大会前のコスタリカ戦、ザンビア戦を連勝し、万全の状態で開催地のブラジルに入った。

 だが、グループリーグ初戦のコートジボワール戦で逆転負け。そこから、チームの歯車が狂い始めた。同代表チームにおいて、最終ラインを統率していた今野泰幸は、崩れゆくチームをどう見ていたのだろうか――。

 2010年8月、アルベルト・ザッケローニが日本代表監督に就任。初陣となる10月のアルゼンチン戦で、今野はセンターバックでスタメン出場した。

「スタメンで出られたのは、すごくうれしかったですね。僕は(2010年の)南アフリカW杯で日本代表は終わりかなって思っていたんです。次のブラジルW杯では31歳になるし、イタリア人監督になって堅守でいくと思ったので、僕のこの身長(178cm)ではセンターバックはないな、とも思っていましたから」

 今野は宮城県の東北高校を卒業し、2001年にコンサドーレ札幌入り。プロ1年目からボランチのポジションでレギュラーを獲得した。2004年にFC東京に移籍してからも、不動のボランチとしてチームの中軸を担ってきた。

 その間、2003年ワールドユース(現U−20W杯)UAE大会、2004年アテネ五輪など世代別代表の世界大会でも奮闘。その後、A代表入りを果たすと、南アフリカW杯に出場した。いずれも、主にボランチとしてプレーしてきた。

 しかし2010年、当時FC東京を率いていた城福浩が今野をセンターバックで起用した。今野はボランチというポジションにそれなりのこだわりを持っていただけに、そのコンバートを容易に受け入れることはできなかった。

「最初は『なんで?』と思ったし、城福さんには腹が立ちましたよ。でも、『後ろからつないでいって、チャンスであれば攻撃参加してもいいし、ボランチみたいな感覚でセンターバックをやってくれ』『センターバックでトップオブトップを目指してくれ』って言われて、センターバックをやってみようと思うようになりました。同時に(自分がセンターバックに入って)チームの調子がよくなったことも大きかったです」

 そうして、日本代表でもセンターバックを務めるようになった今野は、ザッケローニ体制の初戦となったアルゼンチン戦でも同ポジションに入って1−0の勝利に尽力。翌年のアジアカップでも吉田麻也とコンビを組んで最終ラインを守り、チームの優勝に貢献した。

 アジアを制して以降、今野のポジションはセンターバックで不動となった。ザッケローニは主要メンバーをある程度固定して、チーム作りを進めていったからだ。

「(日本代表の)レギュラー陣はメンバーがほぼ変わらなかったので、それぞれわかり合って、連係はどんどんよくなっていきました。特に攻撃面では、その影響が大きかったと思います。

 ザックさんは、守備よりも攻撃の練習がかなり多くて、いつも同じような練習をするんですよ。僕は左サイドで、長友(佑都)と(香川)真司と3人で連係して攻撃していく練習を繰り返していたので、試合の時もすごくやりやすかった」

 攻撃に力を注いでいることもあって、練習の際には監督から常に細かい指示が飛んできた。

「僕がドリブルで持ち上がった時、真司は中に入っていき、長友はオーバーラップする。そこで僕は、長友にパスを出せるし、真司にも出せる。真司に出した場合、真司がフリーならターンできるし、ターンできなければボランチに落として、ボランチから内へという形を作る。

 練習ではそうしたことをタイミングよくできるまで繰り返すんですよ。タイミングが少し早かったりすると『ちょっと違う』ってよく言われたんですけど、最初のうちは何が悪いんだろうって思うこともあったりして......。(監督からの)要求はかなり細かかったですね」

 2012年から始まったW杯アジア最終予選では、そういった練習とメンバーを固定することで安定した強さを見せ、難なく本大会出場を決めた。だが一方で、欧州や南米のチームとの対戦では苦戦することが多く、香川、本田、岡崎慎司、遠藤保仁らは攻撃に変化をつけるべく、細かいパスワークでの崩しも実現しようとしていた。

「ザックさんが言うセンターバックが持ち上がっての崩し方は、アジアでは相手が混乱して点がとれるんですよ。でも、欧州など世界のトップクラスには、屈強なセンターバックとサイドバックがいる。そこで対応されて、なかなか点がとれなくなったので、攻撃陣は他にやり方を考えないといけないと思ったんでしょうね。

 でも、ザックさんは精度を高めれば『絶対に点がとれる』と言っていて、僕もそのとおりだと思っていました。実際、(2013年の)コンフェデレーションズカップでは3連敗でしたけど、イタリア戦とかでいい流れのサイド攻撃を見せてフィニッシュまでいけた。僕は、やっていることは間違っていないと思っていました」

 もちろん今野も、攻撃的なサッカーの完成度をより高めようとする本田ら攻撃陣の姿勢は理解できた。そこに至るには、南アフリカW杯の経験があったからだ。

 南アフリカW杯の時の日本代表は、チームが崩壊寸前で、直前にメンバーと戦術を変更。一か八かの勝負に出た。そして、初戦のカメルーン戦を勝つと勢いに乗って、2002年日韓W杯以来、2度目の決勝トーナメント進出を決めた。「すべて変わったけど、この時はこれでいい」と、今野は思った。

「南アの時は、本田とかもあのサッカーでいいと納得していたと思うけど、ブラジルではあのサッカーをして上に行くというより、攻撃的なサッカーをやって世界を驚かせたいという思いが強かった。本田たちがより多彩な攻撃を求めたのは、その表れだと思うんです。

 個人的にも、南アの時はケガもあったし、レギュラーでもなかったけど、ブラジルの時は主力としてプレーしてきたので、南アの時とは(大会に臨む)気持ちが全然違いました」

 W杯前年の最後の欧州遠征では、強豪オランダに引き分けて、ベルギーには3−2で勝利。大会直前のテストマッチでも連勝を飾って、ザッケローニ率いるチームは、自信をもってブラジルに乗り込んだ。

 いよいよ世界を驚かす時がやってきた――が、初戦のコートジボワール戦のスタメンに今野の名前はなかった。吉田のパートナーとしてピッチに立ったのは、森重真人だった。

「一緒に練習をしていたので、森重の能力が高いのはわかっていたし、調子もよかった。もちろんめちゃくちゃ悔しかったけど、僕は調子がいい状態ではなかったので、(森重のスタメンは)認めざるを得ない感じでした」

 今野はベンチから戦況を見守っていた。前半16分、本田がゴールを決めて日本が先制。ピッチにいる選手たち以上に、ベンチは沸いた。今野は「南アの時と同じように、本田の大会になるかも」と思った。


本田圭佑の先制ゴールで日本ベンチは大いに沸いたが...。photo by REUTERS/AFLO

「本田のゴールには(ベンチも)すごく盛り上がりましたね。アフリカのチームって、1点とられるとメンタルが崩壊するというか、チームの勢いが衰えることが多いので、いい入りができたなと思いました。

 でも、後半ですよね......。あっちには(エースのディディエ・)ドログバが控えていた。しかも、日本に疲れが見え始め、『ここでかよ』っていう時に出てきた。その瞬間、スタジアム全体が異常に盛り上がって、一気に流れを変えられてしまった」

 後半、ドログバの登場で息を吹き返したコートジボワールが猛反撃。日本は3分間で2失点を喫し、そのまま1−2で敗れて初戦を落とした。今野はベンチで、3試合のうち最も大事な初戦を失ったことの大きさを噛みしめしていた。

「初戦に負けて、これで苦しくなるし、次からはさらに厳しい戦いになるなって思ったのは確かです。それでも、個人的にはまだまだ挽回できると信じていたんですけど......。

 チーム自体は(初戦で)負けた衝撃が余りにも大きくて......。試合後、ガラッと雰囲気が変わっちゃいましたね。余裕がなくなったというか、尖った感じになってしまいました」

 今野が感じた余裕のなさ、切羽詰まった空気は、敗れたあとの練習からリアルになった。チーム内の雰囲気はこれまでになくピリピリとし、練習では大きな変化が起きた。

「それまでの紅白戦では、たとえばサイドバックはしっかり守って、チャンスになったらオーバーラップする。その際、もう片方のサイドバックは中に絞ってリスクマネジメントをするのが徹底されていたんです。

 でも、初戦で負けたあとの紅白戦からは、次は絶対に勝たないといけないから『サイドバックも攻めるぞ!』みたいな感じで、めっちゃ高い位置に上げたんです。前からプレスをかけて『ガンガンいくぞ!』『2点、3点とって勝つぞ!』というサッカーになっていって......」

 今野は、それまでにやってきたことと異なるスタイルに違和感を覚えた。さすがに監督のザッケローニも、『それはやりすぎだ』と修正するものだと思っていた。

「でも、ザックさんもより攻撃的にシフトしていったんです。『前から行くぞ!』みたいな感じで。僕はいきなりこんなに変わるんだって、すごくびっくりした。麻也とも話をしましたけど、その変わりように驚いていました。

 前線の選手たちは何を言っても聞かないような感じに見えましたね。僕は2戦目からスタメンに戻るんですけど、そのサッカーではリスクが高すぎて、正直怖かった。でも、勝つためにはそういうサッカーをするしかない――そう思い込んで、腹をくくりました」

 もともと強気で攻撃的なチームだったが、大事な初戦を落としたことで、それが先鋭化した。今野が言うように、チームの誰もが1−0ではなく「2点、3点とって勝つぞ!」という思いで熱くなっていた。

 チームは冷静さを欠き、"自分たちのスタイル"に固執した。だが、舞台はW杯である。今野は言いようのない不安を抱え、2戦目のギリシャ戦を迎えた。

(文中敬称略/つづく)

今野泰幸(こんの・やすゆき)
1983年1月25日生まれ。宮城県出身。東北高卒業後、コンサドーレ札幌入り。すぐにレギュラーの座をつかんだ。その後、Jリーグを代表するボランチとなって、FC東京、ガンバ大阪、ジュビロ磐田で力を発揮した。世代別代表でも奮闘し、2003年ワールドユース(UAE)、2004年アテネ五輪に出場。A代表でも長年活躍し、2010年南アフリカW杯、2014年ブラジルW杯に出場。現在は関東リーグの南葛SCでプレー。