連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第15回

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 2006年、夏の甲子園。2回戦で大阪桐蔭に勝った早実は3回戦で福井商を破ってベスト8へ勝ち上がった。この頃から暑いはずの真夏の甲子園で涼しげな表情のまま投げる斎藤佑樹にあるニックネームがつけられた。そう、"ハンカチ王子"である。


2006年夏、甲子園で勝ち進むたびに「ハンカチ王子」の名は広まっていった

気がつけば「ハンカチ王子」に

 いったい、誰が、いつからそう言い始めたのか、今でもわからないんです。大阪桐蔭との試合で小杉(太郎)くんにホームランを打たれたあと、取り出したハンカチ......というか、あれはハンカチじゃなくてハンドタオルなんですけど(笑)。あの四角く畳んだハンカチは何なんだという話になった、ということは聞いたことがあります。でも、それが最初かどうかはわからないし、そもそもハンカチに"王子"がついた理由は僕にはさっぱりわかりません(笑)。

 あのハンドタオル、ほかにもいくつかあったんです。青いのがいつの間にか注目されていたみたいだったんで、これはもう、青を使わなくちゃいけないのかなと思わされましたね。もちろん青を使って勝ったから、「じゃあ、このまま」というような縁起担ぎの意味合いもありました。ただ、ほかの色もあったんですよ。何色があったかなぁ。黒があったのは覚えています。もし青いのじゃなくて黒を使っていたら、どうなっていたんでしょう(笑)。

 もともと中学の時から、試合だけじゃなくて練習の時も小さなハンドタオルを使っていたんです。だから高3の夏、甲子園へ出ることが決まって、母(しづ子さん)に何枚か届けてもらったんじゃなかったかな。

 畳んで使っていたことについても丁寧で上品だとか言っていただいたみたいですけど、そんな大層なことじゃなくて、丸めてお尻のポケットに突っ込むと厚みが出て気持ちが悪いんですよ。違和感があるというか......それに、次に使う時にもきちんと畳んでしまっておいたほうが使いやすいでしょ。それだけのことなんです。

 正直、「ハンカチ王子」と呼ばれるのは好きではありませんでした。なぜかな......最初は興味津々、みんなで「王子ってなんだよ」とか言いながら楽しんでいたところもありました。そうやって盛り上がるのは嫌いじゃないんですけど、でも、それはあくまで大会中の話です。

 大会の最中って宿舎にずっといるから、周りの環境がわからないじゃないですか。大阪にいる間は試合の合間に甲子園までほかのチームの試合を観に行ったり、甲子園の周りにあるショッピングモールでみんなと一緒に買い物をしたこともありましたけど。

 新聞でもテレビでも取り上げられているのは知っていました。けど、大阪にいる間だけの話だと思っていたんです。東京に戻ったらそんなに騒がれることでもないだろうって......でも、東京でもものすごい騒ぎになっていたらしく、のちにその真っ只中に放り込まれた時には、さすがに楽しむという次元じゃなくなっていました。

 やっぱり、選手として見てほしかったという気持ちがあったんだと思います。僕は小学生の頃から有名になりたかった。でもそれは野球選手として活躍することが前提です。なのに甲子園でハンカチ。

 ハンカチを使ったら、野球の実力じゃないところにフォーカスされた。これってたまたま僕があのハンカチを使ったからで、注目されたんじゃないかと思ったのかもしれません。

甲子園通算2本目のホームラン

 3回戦の福井商との試合は、あまり苦労した記憶がありません。覚えているのは僕が打ったホームラン(笑)。5回に1点を先制されたあと、4番の後藤(貴司)が同点スリーベースヒット、5番船橋(悠)の勝ち越しツーランホームラン。で、6番の僕がセンターのバックスクリーンへホームラン。アウトコースの真っすぐ、一点張りで振っていったんですよ。気持ちよく振り抜けた感触が残っています。

 春のセンバツでも、レフトへのホームランを打っているんですけど(関西との2回戦の引き分け再試合)、春も夏も両方ともヤマを張って打ったんです。でも闇雲に狙い球を絞っていたわけではなく、いつしか相手のクセが見えてくるんですよね。これは真っすぐ、これはスライダー......で、もしスライダーが抜けてきたら、こういうイメージで振ればホームランを打てるなとか、そうやってヤマを張って、実際に打ちました。

 最後は福井商を突き放して、7−1で勝ってベスト8。センバツでも準々決勝まで勝ち上がりましたから、これで春夏連続のベスト8です。でも、僕らは横浜を倒した大阪桐蔭に勝ったんだから、絶対に決勝までは行かなきゃ、というイメージで戦っていました。

 福井商との試合では船橋がいいところで打ちましたが、あの夏は毎試合、誰かひとり、キーマンが出てきてヒーローになる感じでした。

 僕のなかではあの夏は船橋と川西(啓介)がヒーローだった印象です。途中、神田(雄二)が代打できっかけをつくったり1年の佐々木(孝樹)が活躍したり、後藤や小柳(竜巳)がいいところで打ったり、檜垣(皓次朗)がいいタイミングでいい仕事をしてくれたり......みんな、自分のことで必死になりながら、それぞれがいろんなものを背負って試合に臨んでいたような気がします。だから日替わりでヒーローが生まれたのかもしれませんね。

苦戦の末にベスト4進出

 僕は大阪桐蔭(133球)、福井商(136球)と完投して、一日あいての準々決勝で日大山形との試合に先発しました。準々決勝から決勝までは3連投になることがわかっていましたが、それでも僕はあの日大山形との試合、目いっぱい投げてしまったんです。

 にもかかわらず、感覚はよくなかった。逆に目いっぱいいったからなのか、あるいは疲れがあったからなのか、そこはよくわからないんですけど、とにかくあの夏、日大山形との試合がもっともよくない感覚でした。

 先制して、6回に逆転されて、1−2のまま終盤へ......山形県代表は夏、初めてのベスト8だと聞いていましたが、あの時の日大山形はすごくいいチームでしたね。

 まず、ピッチャーがすごくよかったんです。先発はエース(阿部拓也/のちに国士舘大)ではなく、背番号6でショートの青木(優/のちに東北福祉大)くんでした。スライダーがそれこそ、その前年の秋に対戦した明治神宮大会の時の田中将大くんみたいな感じで、いいところからキュッと曲がってくる、すごくキレのいいスライダーでした。

 僕ら、みんなで「エッ」と顔を見合わせるくらいで、気合いも入っていて、すっかり青木くんを打ちあぐねてしまいます。それでも8回、代打の神田のヒットから佐々木、小柳、後藤、船橋と続いて、一気に逆転。僕も最後まで投げ切って(144球、被安打5、奪三振10、2失点)5ー2で逆転勝ち。ベスト4への進出を決めました。

 準決勝は第1試合が駒大苫小牧と智辯和歌山、第2試合が早実と鹿児島工の対戦です。優勝まであと2試合、しかも2日、続けて投げなければなりません。日大山形の試合で力を入れようと思って投げたのにうまく力が入らなくて、さらに力んでしまっていい球がいかない......だったらと、鹿児島工との試合では力を抜いてみようかなと思いつきました。

 ここで力を抜いておかないと、もし決勝に勝ち上がれたとしても、そこで戦う力が残らないかもしれないと考えたんです。もちろん、力を抜くのと手を抜くのはまったく違います。手を抜いたわけではなく、いい感じで自分の力を抜く。その試みが結果的に力を抜く投球を覚えるきっかけになったような気がします。

 準決勝の鹿児島工戦、僕は完封することができました(被安打3、無四球、13奪三振、113球)。あれはすごく自信になりましたね。うまく力を抜きながら、それでもボールは速かったし、キレもあった。ピッチングに"適当"という感じを出せたという意味で、ものすごく大きな意味を持つ試合になったと思います。

 野球の世界ではよく"覚醒"という言葉を聞きますが、その言葉を僕に当てはめるとしたら、あの鹿児島工との準決勝で、僕は覚醒したんじゃないかなと思うほどです。とくに印象に残っているのが2回、4番の鮫島(哲新/のちに中大)くんに投げた初球のストレートでした。

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 夏の甲子園へ初出場を果たした鹿児島工は、勢いに乗ってベスト4まで勝ち上がってきた。原動力はエースの榎下陽大、4番の鮫島、そして8割に迫る成功率を誇っていた代打男の今吉晃一。斎藤はこの一戦で、彼らの度肝を抜くピッチングを披露することになる。

(次回へ続く)